全国150万人の放浪青少年は
      犯罪予備軍


07/05/31 南方週末 傳剣峯
 
 







 第1の犯罪は駅頭の人混みで財布を盗むことから始まった。そして逮捕され少年鑑別所行き。そこを出てまた元通りの悪路に戻る。
 これは広州の放浪青少年の典型的な一つの姿だ。

 国務院婦女少年救援委員会の事務室は北京,杭州、上海等9カ所で調査を行い、全国で放浪する青少年の数はおよそ100万人から150万人の間であろうと推測している。

 彼等は気の毒な環境であるが同時に社会にとって危険な存在でもある。明らかに社会的犯罪の予備軍となっている。
 
ある少年はこう告白している。

「人々は私達を恐ろしいと考えている。しかし、緊張し恐ろしいと思っているのは私達自身です。
 泥棒するときそれは恐ろしい気持ちになり、当然捕まることを覚悟しています。でも一番恐ろしいのは人々が私達を見るあの目です、鬼に出会ったようなあの目が恐ろしい」

 記者は広州の街の食堂で、以前問題を起こした少年、”方国国”と面談した。
 彼は17歳、頭の毛はすでに白髪が交じっている。外は照りつける太陽がぎらぎらしている。
食堂で働く彼の顔からは汗がたらたら流れている。
彼は広州で放浪すること数年、そして携帯電話やイヤリングなどを強奪して逮捕された。教導所に入れられその後この食堂で働いている。皮膚は白く人を見ると恥じらいを見せる。腕には幾つかの傷跡が残っている。泥棒したときに殴られた跡だという。
 「私は5歳から泥棒を始めました」と少年は語る。

 ”母は彼が5歳の時上海へ臨時工として出かけた。家は貧しく両親は子供の面倒を見る時間がなかった。
 14歳になって友と2人で広州に行った。無賃乗車だった。ポケットには1銭も無かった。うろうろしているところを30歳位の人が来て「お腹が減っているか」と聞き、彼に着いていくと食事をご馳走になった。そしてある親爺に売り飛ばされた。少年鑑別所にきた少年達の9割はこうして売り買いされてその親爺の所で働く。
 翌日からその親爺の脅迫の下泥棒の見習いが始まった。ある女性を指さして「盗ってこい」と言う命令で彼は最初の犯罪をやってみたが直ぐにその場で捕まった。拘留が24時間。
 獄を出て公園で休んだ。あの親爺がくれた5元がポケットにあった。それで朝食を買ったが腹ぺこは変わらなかった。そこへ20歳過ぎの青年が来て一緒に来いと言う。着いていくと別の親爺が支配している泥棒団だった。しかし彼等は直ぐに働けと言わなかった。しかも1ヶ月400元の部屋に住まわせてくれた。 
 彼等に申し訳ない気がして、翌日から泥棒に加わった。
 幾つかは上手くやった。ただ前回捕まったときこっぴどく手脚を殴られていたので余り自由が効かなかった。
 ある時一人の女性から携帯を奪った。「泥棒泥棒」と叫ぶ声を聞きながら思い切り走った。一度男性に捕まり掛けたが振りほどいてまた走った。しかし前方にバイクに乗った公安が2人立っているのが見えた。公安は鉄棒で私を殴って溝に突き落とし私は気絶した。
 目が覚めたとき手足が縛られていた。
そこへ太った婦人がやってきて「お前の手足を潰してやる」と言ってブロックで私の手を叩いた。そして又脚を思い切り叩いた。
幸いなことに、そこへ私服警官が来てその殴打を止めてくれた。もしその停止がなければ私の手足は潰れていたでしょう。
 しかし、私服は私のお腹を一蹴りし、そこでまた私は気絶した。”

ここまで話した少年は当時を想いだしたのだろう、恐怖と憎悪に満ちた顔つきになっていたが、直ぐに元の静かな顔になった。

その後少年教導所を経て彼はこの食堂で働くことになった。そこで汗を流して働く内、少年はまともな人間に成ろうと思うように変わったという。今では少年の手足を思いきり殴った太った婦人に出会ったとき、或いは公安に出会ったとき、今は「感謝」の声が出るかも知れないと言う。

 私には同年の友達は居ません

 捕まったのは05年8月で、教導所で1年半過ごした。もう前の悪路には戻らない覚悟が出来たという。
 ただ昔のことを思い出すと、人々の見る目がとても恐ろしいという。
少年は教導所で雲南出身の少年と一緒だった。出所後は真面目にやろうと相談したが、雲南の少年は絶対嫌だと言い張った。彼の連絡場所を聞いておいたが、連絡しても返事がないと言う。

 現在の食堂の人達は彼を信用していない。よく喧嘩をする。そこで何時かはそこを出ることになると考えている。

 食堂の仕事は朝5時から夕5時まで。厨房は熱く汗びっしょりで働く。熱くて鼻血が出ることがある。毎月800元程貰っている。
 
仕事が終わっても、仕事仲間と話したことはない。「私には話題がありません」と少年は言う。そこでぼんやりと時間を過ごすことが多い。
インターネットで時間を過ごす、それが唯一の出費だ。
 インターネットでは一人の少女とメールをやりとりしている。自分のことを”私の知っている一人の少年”と言って、放浪と泥棒の人生を書いた。少女から「泣けて仕方がない」と返事が来る。

 少年は子供の頃、鳥や猫が好きだった。鳥を捕まえて籠で飼った。親の親切を知らなかった少年。友達も居なかった。でも鳥や猫は可愛かった。鳥の世話をすることが楽しかった。でも何匹かは世話が下手で死んでしまった。
 
  貴方のお母さんを捜しましょう

 彼の少年の頃の話は悲惨に尽きる。母は彼が7歳の頃家に2度程戻ってきたことがあるだけで、その後家に戻ったことはない。母の想い出は少し残っているだけで、その後何をしているか等具体的な事は何も知らない。
 父は子供には全く関心がなかった。父はゴミ集めで少し金が入ると賭け事に使った。ほとんど家には居なかった。家に帰っても話す言葉は「賭・賭・賭」の一言だった。

 少年が一度大けがをして脚から血が流れ続けたことがあった。目眩がし、父が病院へ連れて行ってくれた。傷口の縫合で医者が要求する方法は高すぎると言って父は治療代を渋った。

 少年は自分の正式の生年月日を知らない。小学校5年生の時、先生が自己紹介を書きなさいと言った。彼は誕生日を空白にして出した。先生は字が書けないと思って隣の女生徒に書かせようとした。しかし女性徒が聞いても応えなかった。すると先生が大声で「方国国、君の生年月日は何時か」と聞いた。少年が大声で「私の誕生日は解りません」と返答した。教室は笑い声に包まれた。少年は恥ずかしくなって消えたくなった。


 ” 私は小さいときから食事を作りました。おかずも。でもそれは自分の分だけでした。家の人の分は作りません。家の人は私の分を作りません。
 その内父も都会へ出稼ぎに行きました。家に残ったのは私と兄です。私が作れると言ったのは練り餅です。家の米びつからお米を取り出したら兄から思い切り殴られました。
生きるために仕方なく私は5歳からどこかで食べるものを盗みに行きました。

 ある時熱が出て3日間何も食べないで寝ていました。兄は面倒を見てくれませんでした。そして偶然父が帰ってきて死にそうになっている私を見つけ涙を少し流しました。その時初めて人が私に愛情を示したのを感じました。
 それからは仲間を一人見つけ、彼と余所の家に入って盗みを繰り返しました。父に知られないように注意しながら。そして広州へ出てきたのです。

 故郷で親切にしてくれたのは小学校の”何”先生です。先生は私が何をどうして食べているか知っていました。そして「正道」に返るように言ってくれました。
 広州で捕まって教導所に入ったとき何先生に手紙を書きました。先生から返信が来ました。先生は「君は本当は根が正直だから、家庭が貧しかったけれど、これからは真面目になりなさい」と書いてきました。その手紙はとても嬉しかったです。

 7月になって食堂の休暇があり家に帰って先生にあったり、身分証を取って来ようと考えました。でも父には会いたくなかった。それで父の不在を見計らって身分証を黙って持って帰ろうと考えました。
 それから母の写真が家にあればそれも持って帰るつもりでした。というのは教導所の先生が「写真が有ればお母さんを捜せるよ」と言ってくれたからです。
 
 少年の脚に水膨れが酷くなって、店主は少年に1日の休暇を与えた。水膨れの理由は毎日長時間厨房で水仕事をしていているからある。
 その休暇を使って少年が記者に会いに来てくれた。記者は彼をケンタッキーに連れて行った。
彼はメニューから値段の安そうなものを選んで注文した。少年が新聞社に興味が有るというので本社に連れて行った。屋上から広州市内のずらっと並んだビルの群れを見て、彼は「ここは僕の住むところではありません」と言う。


次は別の少年 (名前は仮名)

 鄭敦明15歳、身長約1メートル40センチ程、痩せていて、見たところやっと10歳になったばかりに見える。
9歳の時父に連れられて広州へ出たが直ぐに棄てられて放浪生活へ。泥棒して捕まり帰る家もなく少年院へ。郷里の住所は”広東省五華県”というのだけしか解らない。少年院で調査したが解らない。
 引き取る人が無く少年院で既に一年以上が経つ。

 少年が記者と話しているとき「私の故郷を見つけて下さい」と言いながら睫には涙がこぼれていた。

泥棒しなければ生きていけません

 ”広州市で放浪生活をして5年程になります。どこにでも寝ました。どんなゴミ箱でも食べるものを捜しました。
 広州には親切な人は一人もいません。私に関心を寄せてくれた人は一人もいません。私が死んでも誰もかまってくれないでしょう。今記者さんと話していますが、でも今度街で会えばお互いに知らない者同士になっているでしょう。
 父が私を棄てるとき「もうお前が何処で死のうと俺とは関係ないぞ」と言いました。
 広州の人も父と同じです。私のことに関心を持ってくれる人は一人だっていません。

 (ここまで話したとき少年の目には涙が溢れていた。恐らくこのような寂しい思いをこれまで何度となく繰り返してきたことだろう)

 私が努力する心がないことは、父と似ているのではないでしょうか。私は小さい頃良く父の財布からお金をくすねました。見つかると太い混紡で酷くぶたれました。母はそれを見ると止めてくれました。そして私のことで両親はよく喧嘩をしていました。
 私が9歳の時父のポケットから300元を抜き取りました。そして父に思い切り叩かれました。母は「もうこれ以上叩いたら、私が死んでしまいます」と言うと父が「お前も直ぐに死んでしまえ」と言い返し、そして母は農薬を飲んで死にました。

 父は「お前なんか居ない方が」と

 広州で一人の兄貴が「泥棒するなら最初は鉄に目を付けろ」と教えてくれました。「ステンレスなら高価だぞ」とも。
 それから他家へ侵入を始めました。2年程その兄貴の下で働きました。その兄貴は私が盗んだものを売って、私にはほんの少しのお金しかくれませんでした。

 その兄貴というのは20数歳で、江蘇省の人です。私一人を弟子にして盗みをやっていました。彼はほとんど私を叩くことはしませんでした。2人は電柱に登って電線を切り取ったりしました。時々彼は白い粉を吸っていました。
やがて兄貴は中毒になって、私一人が泥棒で彼を助けることになりました。捕まって酷く叩かれたことも何度か。でも泥棒しか生きる方法がないんです。

 その兄貴とも別れ、別の仲間を見つけ携帯電話を強奪することになりました。一つの携帯は数百元します。一つ盗めば10日ほど生きていけます。
 金が出来たらゲームセンターで遊びます。そこで徹夜で遊んだこともあります。お金が無くて道路で寝たこともあります。

一度2階に侵入するため窓をこじ開けようとしたところを見つかり捕まりました。思い切り殴られました。でもどんなに殴られても相手が知らぬ人の場合は涙は出ません。

 5,6人の仲間で組んだときがあります。彼等の両親は離婚したとか、小さいときから棄てられたとか、いろいろな事情がありました。共通しているのは帰れば邪魔になると言うことでした。
 
 今でも後悔するような泥棒をしたことがあります。ある中年の人から1万元を盗んだのです。その人は何日経っても泣いていました。
そのお金は彼の子供の治療費だったことを後で知りました。
 その子供は私と比べて本当に幸せだと思い、お金を返そうとも考えましたが、でもその時には既に半分程使っていて返すことは出来なかったのです。今思いだしても後悔しています。
 ある時警察に捕まって故郷に帰される事になりました。私はもう父が私を打たないだろうと思って家に帰れることを期待するようになりましたが、でも家は見つからずでした。 (ここで少年はまた涙を流した)

 もし家庭があり両親が居て子供を大切にしてくれたら、と夢見ることがあります。学校で一生懸命に勉強して、時々両親がおやつ代をくれて、。。。
 でもお金持ちの子供は甘やかされすぎだ、と思います。お金がない家の子供は自力更正出来ます。お金がある子供は何も出来ないでしょう。
 少年院から博物館へ見学に連れて貰ったことがあります。一人の叔母さんが同行してくれました。見学が終わって館を出るとき、これはひょっとして今から帰宅するのかな、と言う気分になり嬉しくなりました。でも直ぐに目が覚めて、自分にはそんなことは不可能なことだと理解しました。

 少年院の叔父さん叔母さんには大変親切にして貰いました。そこはやがて出ることになっています。でも何時かその人達にお礼をしたいと思います。

 少年院を出た後どうなるか解りません。外界がとても広いことは解ります。私には教育がありません。知識がありません。だから私の人生に楽しいことなど無いでしょう。
 少年院の叔父さんが「ここを出たら何をする」と尋ねました。私は「たくさん本を読んで仕事を探します。もう悪いことはしません。そして社会に貢献したい」と言いました。
 
 とにかく、少年院を出ました。私の身体は小さく誰も雇ってくれません。身分証がないのです。文化もなく何も仕事が出来ません。ではどうして生きていけるでしょう。
 だから仲間達は皆元の道へ戻るのです。ポケットにはお金がないのです。泥棒しか方法がないのです。逮捕されて銃殺されるかも知れません。でも仕方ありません。


 記者とのこのような対話は重苦しい雰囲気のまま終了した。
 
 普通は、例外なくこのような対話は偽名で記載される。しかしこの少年は「絶対に私の話は本名で書いて下さい。そうすれば私の故郷の家が分かるかも知れません。父の名は”鄭武球”、母の名は”樹花”と言います」と実名を強調した。(姓名は音韻から推測)
 「お父さん私を棄てないで」これが少年が最後に記者に言い残した言葉である。  

 少年院では
この少年のような家に棄てられたような事情は普遍にあり、毎年多くの費用を使って少年達の家を探すための努力をしているという。

 少年院が創設されて3年少しになる。これまでに3000名以上の子供達を家に送り返し、家が解からなくて送り返せない子供達は現在120名程だ。

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訳者注:

 次は毎日新聞から(07/06/16)

 子供1000人誘拐して強制労働。
 中国山西省で複数の煉瓦工場で誘拐された子供達1000人以上が強制労働をさせられ虐待を受けていた。中国各紙が報道。一人500元で売られ両手を火傷したり手の指を鉄製の器具で殴られた子もいる。夜は脱走出来ないように監視されていた。
 子供を誘拐された親400人が救出をネット上で訴えテレビ局が調査し明らかになった。背景には地元政府、公安当局、企業の癒着がある。6月15日、国家主席胡錦涛の命令で警官5千人が捜索に出動。現在380人を保護、経営者の120人を拘束。
 
 毎日新聞 (07/6/20)
 上記の事件で工場経営者の父親が党書記と判明。警官への口止め料も出ていた。
 同様の事件が広東市、黒竜江省、伊春市でも発覚。それぞれ公安が見逃していた。
経営者の内20人は現在逃走中。
 この事件解決は「民間」主導で行われた。

 
 


父の名は鄭武球、母の名は樹花(音韻)
”お父さん私を棄てないで”
放浪後食堂で働く3人
これから何処へ行くのか