中国での生命の尊さ

07/04/26 南方週末 投稿 長平

 去る4月18日、遼寧省の鉄嶺清河特鋼公司で煮えたぎる30トンの鉄鋼鍋が転倒し32名の人が亡くなるという悲惨な事件が起こった。この事件は人々を恐怖心に包んだ。

 だが私はこの事件を知って、同時に浮かび上がったのはアメリカの銃乱射事件である。

 4月16日、アメリカで工科大学の学生が銃を乱射し33人の命を奪った。
 同じ日中国では河南省宝豊県の炭坑爆発事故が起こり33人が亡くなった。

 アメリカの事件に対して中国の報道機関は実に詳しく被害者の顔写真入りで惜しみなく紙面を割いて報道した。何日も続いて報道を続けた。
 だが地元の中国の事件に対して報道は実に簡単にさらっと流しただけである。その後も全く報道されていない。
 私の周囲の人達はアメリカ人に比べ中国人の価値が低いのか、と憤激している。

 だがそれに反論して弁解しようとする人もいる。
 いや待て、中国で鉱山爆発は頻繁に起こっており、ニュース性、新鮮みがないのだ、と言う言い方。報道したところで聞く方も慣れっこになっていて注目してくれないからだ、という意見だ。

 それに比べアメリカの銃乱射事件は劇的で報道に値する、という。
 また外国の事件は過剰に報道しても、多少の誤記があっても問題にならないからだ、とも言う。
 その弁解の仕方は、報道というのは「命の尊さと関係がない」と言うところに落ち着く。

 そしてその2つの事件の2日後に頭記の鉄鋼企業で1500度の熔けた鉄鉱石を浴びるという惨事が起こったのだ。この事件は本来は重大な身近な事件だ。しかし報道はかすかに小さく記されただけである。追悼の言葉さえ記されていない。
 この事件に対しても、言い訳があるのだろうか。アメリカの事件は被害者が若い学生で将来性があったとか。
 私は断じてこのような見方に賛同出来ないし、生命の尊重のためにこそ事件の報道を考え直すべきではないだろうか。

 中国の炭坑爆発が頻繁に起こっているからと言って、聞く方の耳が麻痺していると言う理屈が通るだろうか。もしアメリカの銃乱射事件が頻繁に起こったらアメリカ人は麻痺し関心を寄せなくなるだろうか。
 恐らく彼等は何故そのように頻繁に事件が起こるか考えて新しい対策を立てるのではないだろうか。

 アメリカの事件が起こったとき、そのニュース源は次々に現れた。大統領が談話を発表、学校長が声明を読み上げる、各種の哀悼の言葉が届く、国旗を反旗に、遺影が、記念碑が、献花や祈祷、等々と続出する。まるで社会全体が関心を集中しているようだ。それは報道機関にとっては有難いことだろう。
 しかし中国ではどうか。中国の地元政府は報道機関に管制を敷く。これでは誰も真実が解らない。報道機関もやりようがない。
 一方で感覚が麻痺し、一方でニュース源を制限されて真実を覆い隠す。それで「生命の尊重」という精神が生まれるだろうか。
事件の再現を防ぐという態度が生まれるだろうか。

 中国では重大事故が多発しているので、事件毎に報道し哀悼を表明していたら、忙しくて他のことが出来なくなる、という人がいる。
 報道の紙面が狭くて掲載出来ない、という言い方もある。
 だが一つ一つの事件毎に報道し、哀悼を表明し、その関心を集めていけば、そこにこそ災害を繰り返さないために「生命の尊重」が強化されるのではないか。
 インターネット上には、中国の4.18事故に対して記念碑を作れ、工場の門前に哀悼碑を、家族に熔けた鉄鉱石の一部を与えよ、等の意見が出ている。
 私も何か事故の傷跡を記念にする提案を支持したい。そうして事故の悲惨さを忘れず、中国の進路に警告を与える標石を残していくべきではないだろうか。

編集責任 陳敏

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訳者注:

 この記事の最後に「編集責任」という署名がありますが、この記事の重要さと政府権力に対し責任を取るという態度表明を表しています。
 
 中国の重大事故に対する報道が全く出ないことに私も経験があります。私の大連日記に書いていますが、1999年11月 に2度大連港出航の500人乗りの大型客船が沈没しました。両方とも報道は実に簡単で、最初の事故は現地の中国人でさえ気が着かない様な小さな報道で、最初に発見した地方の党組織を賞賛する内容でした。
 死者の名前さえ発表されなかったのです。
 正に異常な報道姿勢、国家体制です。
何故中国の政府は報道規制するか、それは社会主義を守るため、と言っていますが。
人権よりも国家優先の思想です。
 2000年に大型フェリーが沈没してテレビに報道されたとき、中国人が「あれ?昨日のことを報道している!」と言って驚いていました。
 
 勿論海外との交易が盛んになって、少しずつ報道の範囲が広がっているとは思いますが、未だにこのような記事が出るのは恐ろしいことです。
 
 そしてこのような状態が異常であると考える人が居ることに私は少し安心しました。