新中国建国後の幹部収入は


07/08/30 南方週末 楊硅松

  多くの人は中国内部の貧富の差や汚職の多さについて改革開放後現れた現象ではないかと考えている。しかし建国直後にすでにそれは制度として確立していた。

記者:楊硅松先生は最近出版の「歴史研究」の書で建国直後に幹部の収入の大きな差について記しています。それらについてお話を伺いたい。

楊:私は建国直後北京で学生生活をしていた頃、学生の中で親の等級によって生活に歴然とした差があることを見てきました。
 地域では、どの子も衣服を見れば親の等級が解りました。家の大きさも車の所有なども差別が歴然でした。学生の交友も親の等級で別れていました。
 文革が始まると「官僚主義反対」を声高に叫ぶことが革命的と見られましたが、実際はその声の中には生活の差別反対もあったでしょう。
 最近確かに腐敗汚職が氾濫しているように見えますが、しかしそれも出るべくして現れたと言うべきではないでしょうか。
 
 本来、共産党は”社会主義”の旗の下で平等・平和を追求するはずであった。しかし何故このように不平等の制度を持っているのか。

記者:貴方の意見には驚く面があります。
 私達は学校教育で中国の社会主義の分配制度は世界で最も平等だと教わりました。それを何度も聞いてきたので当然制度上もそうなっていると考えてきましたが。

楊:あなた方記者は私に比べてお若いからそれも当然でしょう。しかし私達高年者は社会主義の本質とは何か、つまり分配の公平について固く信じてきました。
 そしてマルクス、エンゲルス、レーニンなどの書を必死に読みました。
 学校を卒業した頃は中国が地球上で早くに社会主義を実現したことに感謝していました。 私のように古い人は、特に知識人は社会主義に好感を持っていると思います。それは幻想かも知れませんが。
 近代の中国人は誰も康有為や孫中山、さらには蒋介石さえ資本主義には反対でした。蒋介石は1943年に書いた書物「中国の命運」で資本主義を徹底的に批判しています。
 何故中国人の多くが資本主義に反対したか、それは当時の資本主義国家が極端な貧富の差が現れていたからです。そこで経済的平等、分配の公平を解決するためとして社会主義を選んだのです。そして共産党が暴力を使ってそれを実現したのです。
 このことは西洋の知識人達も応援し、国民党の腐敗には反対していました。
  
記者:劭燕祥という人が「中国4大家族」の中で中国には4家の大家族しか居ないと書いて、蒋介石国民党は死刑だと宣言しました。

楊:そうです。共産党には大家族は居ません。大地主も居ません。
 かって毛沢東は、戦争時共産党の県長も区長も月の配当は2元だと誇示しました。当時の国民党支配地域では180元で、腐敗が激しく阿片を吸い国民から搾り取っていました。両者を比較すれば共産党の方が優秀に見えました。
 ただ当時の幹部の待遇には既に上中下の級別がありました。肉や衣服などにも級別が有りました。具体的には上と下との差は10倍程度で、当時の状況では受け入れられたのでしょう。

記者:貴方が延安時代に既に階級差別があったと記したことを他の学者は反論していますが。

楊:中国には数千年の歴史がありどんな社会にも全て「尊・貧・大・小」の4つの文字が歴然として存在してきました。
 それが社会の安定に役立っていたとも言えます。それがないと天下大乱という考えが普通でした。
 共産党には同じ釜の飯を食う、という平等感もありましたが、しかし上の者の言うことは絶対で下はそれに従いました。
 権利や義務の不平等について発言した王実味のような人もいます。

 記者:貴方の書には政権を獲って直ぐに平等主義が無くなり階級化が現れたと書いていますが。

 楊:政権を獲った党が都会に入り、全ての権利を掌握し、生産を管理するようになって巨大な営利が手元に集まり、腐敗や汚職の発生は当然のようになりました。
革命の命題の平等も、実際の待遇の面では階級差が拡大し差別が拡大、官僚主義も生まれています。

 記者:その様子をより具体的に教えてください。

楊:1950年「中央公務員賃金標準案」が発行され、最高と最低の差は28.33倍と決められました。
1952年にこれが改正されてその差は25.88倍となりました。

 この階級別は現金収入から各種待遇まで極めて詳細に決められています。
 55年には幹部の待遇改善が行われています。最高幹部は560元、最低は18元です。 
両者の差は31.11倍になります。
56年の改革ではその差は36.4倍になりました。

記者:その差は何故ですか。

楊:1946年の国民党政府の下ではその差は14.5倍でした。その頃の西洋国家と比較すると、イギリス・フランス・ドイツなどの公務員の上下の収入差は8から10倍です。アメリカや日本はそれよりも少し多くて20倍位。ただし、最高収入は行政のトップだけ飛び抜けているので、資本主義と社会主義と比べると社会主義国家内の巨大な差が目立ちます。

 記者:その差は収入だけでしょうか。

楊:中国の差は収入だけではありません。表に現れないものが多くあります。

 文革がスタートした頃中国では「ソ連のような特権階級が存在しない」と自慢していました。しかし文革が始まると次第にそれが事実でないことが解ってきました。
 あの頃スエーデンの首相が街頭で暗殺されるという事件が起こり、その経過を見て私達は大変驚きました。
 なんと、政府の建物の入り口に守衛が居ないのです。ストックホルムの政府庁舎の庭の庭園には誰でも散歩出来、しかも休憩用のベンチが置いてあるのです。議会が始まると誰も自由に傍聴出来、議論のその内容が公示されるのです。国王と首相以外には警備の人が付いていないのです。
 大臣でさえ登庁すれば公務員になり家に帰れば庶民になるのです。誰もが自転車に乗っているのです。公務員が公用で外へ出かけるときでさえ、彼等の周囲に警備が付いていなくて、警察の車が周囲の車を追い払うことがないのです。何と特権を持っていないのです。

 03年に又スエーデンで女性の外交部長が刺殺されるという事件が起こりました。その時も政府は声明を発表し「これまでの民主政治を堅持し暴力で統治する道を選ばない。これまでの伝統を守る」と宣言したのです。

 実際上欧州の国家では政府官員の収入の差は大きくなく、公務員の権限は仕事上だけに制限しています。一旦仕事を離れると普通の庶民になります。
 中国では、言うまでもなく官民の差は巨大で有るだけでなく、「官が上」であることは明確です。賃金収入以外に料理人が用意されたり医療保険が付いたり、大きな屋敷が提供されています。
 
記者:もしそれらの待遇の差を考えたら、実質の差はどれくらいになるでしょうか。

楊:いや、そのことはあまり重要ではないでしょう。 
 この大きな差が改革開放以降現れたのではなく、分配と公有制度の初期からの根本問題であることです。
 
 均等な分配を理想とした共産党がそれを何故実現出来無かったか。その理由の一つは建国直後にソ連に全てを真似たことです。ソ連は高級幹部の特殊待遇を制度化していました。

 共産党支配の国家群は全てソ連に倣っています。反対に欧州の社会党などは官僚主義を抑える努力をしてきました。それに対し共産党国家はその努力をせず、国家としては落後しています。 
  その努力の差が生まれた根本原因は「専制統治国家」かどうかでしょう。付け加えれば、党や政治的な要素以外に、その国家の伝統なども大きく作用しているでしょう。

 記者: しかし、毛沢東自身官僚内部の収入の差を縮めるべきと述べていますが。

楊:それが問題です。確かに毛沢東も朱徳もそう語ったときがあります。ではどうしてソ連の真似をしてしまったのしょうか。
 その答えはまだ完全には解っていません。毛沢東は一方で官僚の特権に反対するそぶりを見せながら、しかし同時に多方で自分中心の高度集権制度に固執しています。
彼自身如何に調和するかの回答が無かったのでしょう。
例えば一つの例として原稿料ですが、彼はそれは必要ないと主張しました。でもそれは実現しませんでした。何故ならそれは長年の慣例として社会に残っていたからです。ソ連の制度と同じです。
 文革が始まり、毛沢東は原稿料を廃止すると言明しました。しかし彼自身に対してどこの出版社も原稿料を届けました。そして文革直後の毛沢東の1967年の原稿料は数百万元に達しています。この天文学的な金額で別荘を幾つも建てたりして、結局毛沢東は一生の間「反特権」を叫び、自分は極めて高度な集中した特権を固持しました。表面上の平等は、それを社会的に実現することとは別だったのです。権利の平等も「空話」となりました。
 
 記者:すると現在の大きな収入の差、貧富の拡大、権利の不平等は制度上の監督官の特権にあるのでしょうか。

楊:多くの人達は毛沢東時代を懐かしみます。その想いというのは誰もが貧乏で幹部もそうで無い者も同じ釜の飯を食った、と言う言い方がされます。だがそれは真実そうだったでしょうか。
 05年国家統計局の家庭抽出調査によると、村での収入の差は9.18倍、都会では27倍です。この統計は都会が農村の多くの資源を持ち出した結果であるという点がぬけています。建国直後の5億の農民から長期に渡って都会へ資源が持ち出された結果です。都会の生活は農民の貧乏によって支えられてきたのです。
 現在ほとんどの農村での生活は見るも無惨な状態です。文革が終わって多くの党幹部が農村視察を行いました。彼等が都会へ戻って語った言葉は誰も同じように「農村の現状は解放前と全く変わらない」の言葉でした。

記者:最近日本のテレビが「激流中国」を放映しました。そこでは都会での豪華な生活が映され、多方農村での極限の貧乏生活が報道されました。
 現在農民は戸籍制度で農民を土地に縛り付けられ、都会へ出ても臨時工にしか成れません。でも農民はそれで生活を改善しています。

楊:現在のことを誰もが貧富が拡大し、不公平な分配が拡大していると思っています。
 これは国民総体の生活が上昇している中での貧富の拡大でしょう。1985年の貧困農民人口は1.25億人でした。それが06年には2148万人に改善されています。最低収入者も3550万人です。これで見ると確かに農民の生活も改善されています。今後長期に見れば農村の改善もさらに続くでしょう。
 都会での富豪家と言われる人達が独占している資源を社会に還元することも必要でしょう。

06年の統計によると社会全体で20%の低所得者が存在し、彼等が消費する額は全体の4.6%です。高所得者が20%存在し社会全体の49%を消費しています。
 銀行、証券、保険などの管理者の年間収入は数十万元に達しています。
都会での年収は平均で2.1万元。農村で水力発電所で働く人の年収は6000元、これには養老保険は無し。
 大企業や官庁の特権階級がさらに大きな権利を求めて腐敗活動が一層激烈になるのではないでしょか。

記者:権力は腐敗に行き着き、特権は絶対に腐敗する、という格言通りですか。

楊:多くの人は毛沢東時代が終わって改革開放が始まり自由が来たので、現在の腐敗や不平等等が多少有っても仕方ないと思っています。やがて平等の社会が来ると期待しています、それは誤解ではないでしょうか。社会の平等を本当に確立できるでしょうか。

 毛沢東時代は計画経済で全てが物質交換時代です。衣・食は現物支給です。現金が幹部の手を経過すると言うこともあまり無かった。交易上の特権が生まれにくかった。その分社会は健康的で対立心が少なかった。そこに少し見られたのが権利の平等です。

 社会の根本に権利の平等がなければ分配の公平が生まれないのです。権利の平等が有れば、その結果として分配の公平が現出するのです。

 楊硅松:1953年10重慶生まれ。北京大学歴史学教授。

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訳者注:
日本でも社会主義が平等・公正社会を実現するとして宣伝された時代がありました。
 しかし実際は地球で最高度に不平等で貧富の差が極端な国になりました。
 現在中国では都会で働く農民と市民との貧農の差、人権の差別が大きくその間の対立を如何に「調和」するかが社会安定の最重要問題の1つと現在の党大会で議論されています。
 社会主義の非人間性が判ったのは日本では1980年代末でしょうか。
 それ以降日本では書店でマルクスや社会主義に関する書物が見られなくなりました。
中国国内でも同じようです。

 この記事の最後に社会の根本に「平等」が必要だと書いています。しかしその「平等」にソ連も中国も思想的に反対しました。「平等」は資本主義的考え方で「敵階級打倒」で初めて社会が安定するという思想です。
 その思想が毛沢東の独裁を助けたのでしょう。

  最近報道されたNHKの戦後北朝鮮へ帰った人達の見た北の生活というのがありました。
戦後北では「社会主義的生産が行われ、それは資本主義よりも優越した方式で人々の生活は全てに満足している」と言う宣伝で多くの在日朝鮮人が夢を求めて帰国しました。しかし、北で見たのは「地獄」だったと帰国者達が語っています。

 でもこのような記事が公的な目に触れるようになったのは驚きですね。