ヘミングウエイとカストロ

07/01/25 南方週末 薛憶為




 私はヘミングウエイについて長年ずっと考えてきたことがある。
 彼は1939年から60年までキューバに住んでいた。そこで彼はカストロの革命を目撃している。

  訳注:  キューバ革命    1959年1月1日。

 さて私の考えてきたこととは、ヘミングウエイはその革命をどのように考えたのかという点だ。そのことを解決してくれたのが先日有る図書館で発見した「キューバ時代のヘミングウエイ」と言う書物である。

 その中にカストロとヘミングウエイという項目がある。そこでは両者が共に名物のあごひげをつけて出会ったときの写真が載っている。時代は1959年。カストロの髭はちょうど戦争が終わって清潔に洗われた直後の時のようで白く光っている。

 その本によると、02年11月11日、キューバのヘミングウエイ博物館が公開され、その開館式にカストロが出席している。そこでカストロはヘミングウエイの著作について30分の演説をぶっている。
 演説で述べているのは「老人と海」 を中心にして、ヘミングウエイの生活、孤独・自白・反省・ 瞑想などだ。
 またヘミングウエイの小説は作り物ではなく、「歴史」だとも述べている。歴史を理解しなければ人間そのものを理解出来ないこと。現在人類が犯している戦争や環境破壊などについての重大な誤りを指摘している。

 さらに演説の中で「誰が為に鐘が鳴る」を取り上げ、この小説が「少数が多数に勝つ方法」を複線として描いていることを述べ、アメリカの傀儡政権(バティスタ)の装備優秀な正規軍に向かっていかにして少数のゲリラ戦法で勝利するかを学んだと述べている。
 小説の中で一人の狙撃兵が迫り来る騎兵隊を待ち伏せする場面を読んで、勝利を掴む方法を学び取ったと述べている。

 キューバ革命が勝利した直後行われた、ヘミングウエイ主催の「3日間の釣り大会」で、老人のヘミングウエイ自身が巨大なカジキマグロを吊り上げ、多くの若者を驚かせ優勝杯を手にした功績を讃えて、一人の力の偉大さを見たと述べている。

カストロはその後多忙が続きヘミングウエイと語ることは無かった。”その内に”と考えている内に、彼は亡くなった。そのことをカストロは大変残念に思っていると語っている。 
 ヘミングウエイが1954年ノーベル文学賞を受けた時は、カストロがバチスタ監獄に閉じこめられ反撃を練っているときだった。
 ヘミングウエイはノーベル賞の受賞を「普通のキューバ人」として感激していること、その名誉を祖国に捧げると述べている。
 カストロも自身のことを「普通のキューバ人」と常時呼んでおり、2人の髭男は「祖国愛」を心深く秘めていたのだろう。 

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訳者注:
 ヘミングウエイ: 1899年7月21日 - 1961年7月2日。
1954年、『老人と海』でノーベル文学賞を受賞。
 晩年は躁鬱に悩まされるようになり、執筆活動もしだいに滞りがちになっていき、1961年、ライフルで自殺を遂げた。
(wikipedia より)

 この記事で書かれているカストロとの会談の1年半後に自殺していることになります。
 
私がキューバを知ったのは題名を忘れましたが、白人達の豪華な生活と豪遊の前で、原住民の子供達が食べるものが無く、街で物貰いの日々を過ごしている姿を描いた小説からです。
 そして1993年末にキューバへ行く機会がありました。
 そこで見た姿は、原住民が主人公であることは昔と違っていましたが、やはり子供達が物貰いに集まってくる姿でした。大人も来ました。
 ソ連が崩壊して3年経ち、ソ連からの経済支援が途絶え経済的に行き詰まっているときでした。
 その頃のキューバは完全に計画経済実行中で、全ての生産は上からの指示で行われていました。毎日の食料は配給制で、食券を持った人達が八百屋に長い列を作っていました。八百屋の店頭に有るのは芋類だけでした。行列を造る彼等の姿は全く無表情でした。
 島内で飛行機に乗ると、照明は直ぐに消灯。石油不足のためです。
 ところが翌年の半ば、農業の自主生産が認められ、直ぐに食料不足が解消されたニュースに接しました。 
 中国で自主生産が始まったのが1980年頃ですから、もしキューバも中国の失敗を理解していればあの苦境をもっと早く切り抜けたでしょう。

 この記事では「カストロとヘミングウエイの関係」が如何にあったかを知りたいとしながら、この文では全く要を得ていません。
 カストロはヘミングウエイから多くを学んだということですが、ヘミングウエイは革命を如何に思ったのでしょうか。
 何故革命後1年半で自殺したのでしょうか。そのことに最も注意を向けるのが普通でしょう。

 「誰が為に鐘が鳴る」などで見るとヘミングウエイはスペインの独裁政権を憎んでいます。そして自分の祖国、キューバを愛した彼が、バチスタ政権の下で原住民達が貧苦に喘いでいる姿も熟知し悩んでいたでしょう。そしてその矛盾を解決する目的で行われたカストロの革命。その1年半後の自殺。これはどう見てもヘミングウエイが見た新しい社会が期待していたものとは似てもにつかないものだったということに思い当たるのが普通ではないでしょうか。(純粋の病気であったかも知れませんが)

 カストロは社会主義政権の基礎を「マルクス」に求めますが、しかしソ連や中国のような「階級闘争」はしていないようです。多分カストロは西洋教育を受けていて民主主義の大切さ、人権の大切さを知っていたのではないかと想像します。
 しかし中国は30年の計画経済、キューバはそれよりも少し長い35年もの間、非人間的な経済体制を敷きました。 
 中国がソ連よりも短い期間で計画経済が破綻したのは、「大躍進政策」「文革」のような余りにも悲惨なやり方であったことと、計画経済で生産が降下して国家そのものが死滅しそうになったため農民達の生き残る究極の選択として血判を作って秘密裏に自主生産が始まったからです。
 キューバはソ連の経済援助があったため延命した。
 
最初、現在のキューバは原住民が主人公と書きましたが、しかし社会主義の場合は現在の中国もそうですが住民はやはり主人公ではないですね。国家の重要な決定権・批判権が一般住民にはありません。

 計画経済と「民主主義」「人権」は全く相容れません。各人の要求を聞いていて、社会全体の経済計画を毎年確定することなどあり得ません。自分の労働とその意義を自覚出来ず、責任も自覚しない、命令だけで働くことを強要する体制です。これほど社会全体の労働が受け身の制度はこれまで地球上に存在しなかったでしょう。(奴隷制は社会の一部分だけです)
 
 中国の場合は建国の翌日から敵階級撲滅運動を全国的にやり、ヘミングウエイの様な知識人は直ちにブルジョワとして5賊に入れられて処刑か糾弾されますが、キューバではそのようなことはしていないようです。
 ということでヘミングウエイとキューバ革命の本当の関係を中国の新聞に求めるのは無理でしょう。知っている人は教えて下さい。