校長先生の批判闘争

07/09/20 南方週末 田世松

 40数年前の文革時、韓志学校長を批判闘争したことを強く後悔する気持が未だに忘れられない。

 事件は文革の1年前から始まる、1965年のことだ。その時私は16才だった。
農歴6月24日、四川省の農民は、古代、蜀の時代の堤防築堤で有名な李氷を祀った廟堂に詣でることが習慣となって残っていた。 65年は3年続いた干魃の後の豊収の年で多くの人が祝い有って参拝に来ていた。
 私達中学生の仲間は大勢でお寺の周りでわいわいと騒ぎながら遊んでいた。

 大きな本堂の前では老人達が線香を挙げ、土間に跪いて「9拝の礼」をしていた。
 目をつぶり、頭を下げたまま上げない老人もいた。私達生徒達はそれらを見ながら、年寄りの信心は「愚かで、陳腐で、古くさい」等と軽蔑し笑っていた。

 そこへ「皆さん、人の信仰を笑ってはいけませんよ」と言ってきた人が居た。何とそれは校長先生の韓志学先生だ。
校長は私達を集めて「これまで土地の習慣や歴史についてあまり教育をして来なかった。この機会に少し教えておこうかな」と言って、周辺の遺跡や寺の歴史を説明してくれた。その説明を聞く内、自分達の無知と浅はかな気持ちがはっきり解ってきた。
 校長は当日たまたま市政府の役人が廟に来るのでその案内役をしていたのだった。

 帰り際、廟の出口で校長は大きな石壁に刻まれた「稲田に水を引き農民を助ける」と言う文字を指さして、毎年このように大勢の農民達がこの廟にお参りに来る意味はこの文字が表しています、と説明した。
 君たちは古い諺で「貴族の息子が扇子で涼んでいるとき、農夫達の心は稲田の水引で気持ちが休まらない」と言う言葉を知っているかな。その意味が分かれば農夫がここに拝みに来ることを嘲笑したり出来ないよ、と言うのだった。

 これは今思えば生徒に対するとても大切な教訓だった。

 世の中は激変していた。1年後に「文革」が始まったのだ。廟の李氷像は「4旧」の1つとして紅衛兵達が倒し砕いた。
 生徒達も授業を止め、革命を始めた。
 教師達は「牛鬼蛇神」とされ、校長も「修正主義者」として打倒の対象にされた。紅衛兵達は3派に別れ、打倒の対象を捜していた。
 私は父の出身が問題とされ、どの派にも入れなかった。
 しかし、やがてその内の同期の1人が「真心を持って批判闘争に参加するならお前を仲間に入れてやる」と言ってきた。
 そのことは校長の批判闘争の先頭に私が立つことを意味していた。

 批判闘争大会が始まった。先生達が前列の台の上に並べられた。次に先生達を卓球台の上に上げて吊し上げることになった。
 両手を後ろに縛り高く持ち上げ、跪いて頭を下げさせ首にレンガと罪名を書いた木版をぶら下げる。その形はジェット機が墜落する形に似ていた。

 私が校長の首の辺りを見ると重いレンガで縄が首筋に深く食い込んでいるのが見えた。
 心の中では早く批判闘争が終わることを望んでいたが、しかし批判の順番が私に来た。 紅衛兵達は私に校長の罪名を大声で叫べと言う。まごまごしている私に彼等は1年前に廟で出会った校長の行動を批判しろと要求した。

 仕方なく私は校長に向かって、当時流行の2つの政治的な言葉「打倒・批判」の言葉を何度も使って校長を批判した。
 私の言葉が終わらない内にまた紅衛兵の1人が校長の首にさらにレンガを追加した。
 そこで悲惨な状況を目撃することになった。
 校長はその重さに心身共に耐えられなくなって卓球台からどさっと下へ崩れ落ちたのだ。 

 その翌日学校のトイレに首を吊って自殺した校長の姿が発見された。

 トイレの柱が低すぎて上手く首つりが出来ず、トイレの壺に両脚を入れることで身体の重みを下げて死んでいた。
 校長先生の抗議の死は全校生徒や先生達を仰天させた。
 私自身も強く良心を揺さぶられた。私は紅衛兵の仲間に「信念ふらつき分子」と蔑まれた。それ以降私は批判闘争大会には参加しなかった。

 あれから40年が経っても、私は自分を許せない気持ちが、うじうじと何時までも持ち上がる。
 私は文革では積極分子ではなかった。しかし悪魔の行動を手助けしたのだ。私が「校長の最後」を演出したのだ。

 農歴6月24日になると私は校長が廟で私達を諭してくれたこと、その時の笑顔さえ想い出し、後悔のこの気持ちは永遠に消えないだろう


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訳者注:
 文革(1966年〜76年)の思い出。
 批判闘争が国民の下からの運動ではなくて毛沢東を主とする当時の国家の命令によったことは何度も出てきました。
 毛沢東の目的は「国家主席」を追われて、その権力奪還です。しかし中国全体が文革に猛進したその理由は、社会主義・共産主義になれば人類の幸福が永遠に続くという似非思想に誤魔化されたからです。

 これらの破壊的・破廉恥な行為に現在の中国のトップ達も懸命に参加しました。恐らく彼等はその身分上加害者でしょう。

 一応現在の教科書では文革は誤りだった、と記述されています。それは正に文字面だけです。
 しかし、文革によってこのように命を奪われた人の数は数千万人とも言う説があり、具体的な救済策は皆無です。
 国家の行為で誤りなら具体的な補償政策が必要ですが何もありません。この校長も何も弁償されていないでしょう。
 文革の最初に古寺・廟堂を破壊しました。宗教は支配階級の道具だとして。
そのことを当時は日本の(自称)進歩的学者までが支持を表明したことがあります。
 文革の破壊的・破廉恥行為を語ること自体普通の報道には出てきません。それを語れば加害者も被害者も全国に星の数程まだ生きているからでしょうか。
 従ってこの新聞の記事は特別です。