国民財産の確実な保証を

07/03/22 南方週末 孫憲忠

 「物権法」が発布されようとしている。これは中国の法律の中で最も重要な事件である。
 ただ誰もこの法律の名前さえ知らない。勿論その中身も知るわけがない。生きている人間にとって、財産や家屋や衣食物や交通用具等等の利用無くして生活はあり得ない。その所有権の明確な規定無くしてあり得ない。
「物権」は個人でも国家でも団体でも、その存在の基礎である。そして他の法律も「物権」の影響を受ける。人類の歴史始まって以来「物権」のあり方が重視されてきた。

 では新中国建設以降、何故こうも長時間「物権法」が存在しなかったのか。国家も一般庶民も「物権」が無かったのであろうか。

 新中国建国後は「改革開放」が始まるまでの約30年間、「計画経済」であった。社会の主要な財産は国家が所有してきた。その財産を計画経済で按排していた。市場の規則では動かなかった。勿論個人もささやかな身の回り品を所有していた。だがそれらは流通することはなかった。婚姻によって多少の財産の移動があっても、「物権法」で規定する必要がなかった。
 だがその頃と現在は状況は全く異なる。04年度の統計が示す所によると、国有資産は11兆元、その内8兆元が経営体の資産だ。民間の資産は28兆元、国有資産の2倍超だ。


当然国有資産の中の経営資産も市場の規制を受けるべきだ。このような巨大な資産は即時にでも「物権法」で規制するべきだ。

 「物権法」が出来て国民の誰も自分の資産が保証される。かってのソ連は伝統的な社会主義であったので、個人の資産は国家の資産と平等の扱いを受けず、常時国から監督され検査され権利の侵害を受けてきた。
 例えば中国で言えば政府による「強制引っ越し」の様な扱いがその一つだ。

 今回決められた「物権法」は「人間が主」とする精神で創られている。
 社会主義国家としては初めて「個人の所有権」を規定した。その所有権は国家の財産と同等に扱われる。これはこれまでの伝統的社会主義理論を否定している。しかしその基本的「民権」の意義を重要視することが大切だ。

 中国の思想家、孟子は「恒産無くして恒心無し」と言っている。それは「国家権力は個人財産を保護する必要」を説いたものであろう。

 やっと中国もそれが実現する段階に来た。これ以降は建設的な社会と呼べるだろう。
人民の労働によって国家が発展する、労働者の積極性はそこから生まれてくる。
 労働者の積極性は政府の美辞麗句の空約束で生まれるのではない。
 労働の成果が各人に所有されて、その成果が保証されて初めて生まれる。
 「物権法」の策定によって、国民財産が大量に流動し、国民の知恵も大量に湧き出て、確実な発展が保証される。

 これはまさに中国の歴史を画する事件である。それがやっと、今、始まったのだ。
これの制定と実行と今後の行方は複雑極まりないものであろう。他の法律との関係を整理し、成熟させ、国民の諸権利が強固に形作られて万里の長城となるだろう。それは簡単な、短時間な過程ではないだろう。社会の進歩と統一をとりながら進歩するものだ。
 もちろん国民の辛抱と努力を必要とする。

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 訳者注:
 この記述は非常に大切な記事と思います。
日本の新聞でも今年から中国の個人の財産が法的に認められることを報道しています。

 社会主義を批判する論はこれまでは主としてここに述べられている「物権が個人に属しない」ことを大きく問題にしていたのでしょう。それは右翼の側の批判と言われてきたようです。

 私は中国の記事を翻訳してきて、2つの面の問題が最も大きいと感じてきました。

 1つは階級闘争論です。この思想が主として建国後の国家的広がりの混乱の主要素だったでしょう。その見方がある限り、個人の人権が尊重されることが無く、法治国家への道を拒絶して来ました。階級敵の烙印を押せば誰でも簡単に牢獄に送れました。
 今でも個人の住宅に押し入ったり、企業内の批判分子を精神病院に送ったり、メールをチェックしているのは、人権尊重思想が生まれないからです。
 この思想故に党は国民を信用していません。国民を「開放」し「救済」するのが党だと主張していますが、それは独裁を維持するための口上です。

 2つ目は計画経済です。建国後採用されたこの方式で生産は停滞し、個人から労働意欲を完全に奪いました。労働の成果を誰も意識出来ない状態で働きました。その結果が現在も強固に残っている官僚主義と無責任です。

 マルクス主義の根本は「疎外論」と言われています。働けば働く程幸福と離れていく、という社会体制を指弾しています。かってマルクスが生きていた頃の西洋はそのような国家に見えたのでしょう。第2次世界大戦の前でさえフランスのパリで公園に売春婦が溢れていると中国の小説に出ています。
 しかし現代で見ると、新中国建国直後に採用された計画経済が始まると同時に、中国人は自分の労働を北京に命令されて働く形となって、その成果が現場と全く関係が無くなり、労働の喜びも成果への期待も不可能となっています。これこそマルクスの考えた究極の「疎外」です。

 計画経済の悪弊は多岐に渡ります。建国後30年経って農村に下放された学生達が見たものは、建国前の農村と全く同じで、電気も水道も無い状態だったのです。生産が進まないと言うのは恐ろししことです。

 都会の産業に新しい労働者を受け入れることが出来ないので、農村に送られた学生達が(文革時だけで1600万人)山の木々を伐採したことが中国の砂漠化、黄砂の広がりの大きな要因となっています。

 私が気づいたのはこの2面が主でしたが、しかしやはり個人を尊重するには「物権」が明記されることが必要でしょう。
 もし農民の土地が自分の「物権」に成っていれば、現在のように「男の子」を必要としないでしょう。老齢化と共に働けなくなれば土地を取り上げられるその不安は現在の日本人では想像も出来ないでしょう。
  
 ただ全ての改革変更は社会の進歩と平衡して統一を取りながら進める必要がある、と言う指摘は大事なことでしょう。

 30年程前に私は北朝鮮の映画を見たことがあります。映画の最後は桜が満開の広場で人々が幸福を満喫しているという場面でした。
 この「幸福状態の想定」が社会主義の欠陥を集中的に表現していると感じました。
 社会が在る段階に到達すれば全ては平和的に安定だけが残る、という宣伝文句に思えます。この宣伝文句で中国は建国後大衆を各種「階級闘争」に動員しました。
 でも人類はどのような段階になっても社会と平衡して統一を保って、一歩ずつの進歩を創り出していくのではないでしょうか。そこには常に慎重で長い忍耐と努力が必要です。時には冒険なども必要とするかも知れません。
 幸福を約束して突進させる、それは宗教です。(ただし宗教を全面に否定しませんが。自然に対する恐怖や畏敬の念は必要です。)