劉少奇 の孫が中国に

07/03/19 文学城





 「国際先駆導報」新聞記者の張春寧氏が伝えるところによると、劉少奇の孫が広州市に現れ、劉少奇の妻、王光美の展示会に出席した。彼の名前は「アリュウシャ」と言い航空部門の技術者であり、ロシアと中国との混血児だ。
 最近中国での永久ビザも取得したとのこと。今後はロシアと中国の両方を行き来したいと言っている。
 
アリュウシャの父、劉允武は劉少奇と何保貞との間に生まれた長男。1925年に生まれ1939年(15歳)に延安からソ連に送られモスクワ鋼鉄学院で学んだ。
 1946年(22歳)モスクワ国立ロモスオフ大学物理学を専攻。かれは核物理を専攻したかったが外国人は許可されなかったので「核放化学科」を選んだ。
 ソ連で学友だった「マーラ・フェダトワ」という女性と1950年に結婚。

 1951年劉允武夫婦が夏休みを利用して帰国したとき、2ヶ月中国に住んでいる。
 その時王光美と逢っている。
 ソ連へ戻った後、1952年、2人は「ソニア」という女児を設けている。その2年後生まれたのが「アリュウシャ」だ。
 
1957年、中国に帰国後は原子爆弾の研究製作の仕事に配属された。
 妻の「マーラ」は言語の問題等があり環境に慣れず10日間中国に滞在しただけで彼女は子供を連れてソ連に帰国。
 したがって、アリュウシャは5歳半の時に劉少奇と一緒に撮った写真を持っているが、父もお爺さん(劉少奇)の顔もほとんど覚えていない。
 1960年劉少奇はソ連での81カ国共産党大会に出席した時、孫の2人を見舞っている。アリュウシャはその時に写真を撮り、お土産を貰い、自動車に乗せて貰っている。
 
 やがて中ソの関係が悪化し、劉允武とマーラは離婚。そして中国で文革が始まり、劉允武の父、国家主席の劉少奇は「走資派」として隔離され、それを苦に劉允武は42歳で鉄道飛び込み自殺。
 このことをマーラやその子供達が知ったのは、誰が聞いても驚く20年後となる。
 アリュウシャは「今になっても父が死んだことを信じられません。子供の時からずっと母と共に父に会える日が来るのを待っていました」と語っている。
 中ソ関係が悪化していた頃、アリュウシャはソ連の地では父とお爺さんの名前を隠し通したという。それで誰もアリュウシャが特殊な身分であることを知らなかったとのことだ。お陰でソ連では平穏な生活を送れた。

 1987年になって劉允武の妹、劉愛琴がモスクワへ行き苦労をしてマーラを尋ね当て、劉允武一家の惨事を告げた。
 1998年劉少奇生誕100周年に、中国政府はアリョウシャに招待状を送った、が当時アリュウシャは国家機密の仕事に従事しているという理由で出国を許され無かった。

 2003年4月、アリュウシャは仕事を離れたので、初めて妻と共に中国を訪問。北京で王光美お婆さんと劉愛琴叔母さんの家に1週間滞在した。
 湖南省にある「劉家祖先の墓」にお参り。その後、南京にある「何保貞」の墓にも献花している。 
現在はロシアと中国の両国を行き来し、「両国の民間使節の役割」を果たしたいと称している。
 さらに今後はロシアで医者となり、祖国中国の「漢方医」をロシアの人々に役立てたい、と言う希望を持っているとのことだ。


********************
訳者注:
 劉少奇の晩年は私の05年翻訳をご覧下さい。
http://www31.ocn.ne.jp/~k_kaname/text/05/shouki.html

 劉少奇 
 23歳でモスクワ労働大学入学。
1959年4月、毛沢東の「大躍進施策」 の巨大な失政により毛沢東に変わって国家主席に選出される。

 1966年に始まった「文革」で、娘が交通事故で両足切断の手術をするから立ち会うようにとの精華大学造反派の偽の連絡を受けて出かけたところを夫婦とも学生達に拘束された。69年11月死亡。

19歳の高校生時、母親が農民の娘と1日だけの強制結婚をさせている。
 2番目の結婚が22歳の時で何保貞女史。最初の子供を上記の農民の嫁にやるという親の約束になっていた。何女史は国民党の獄で死亡。3人の子供を儲けた。
 
 王光美
 母親が、当時の中国では娘は早く結婚させる風習を破ってアメリカのスタンフォード大学に進ませ、原子物理学を専攻。数学の成績はトップだった。父親は日本の早稲田大学卒業。
 革命の根拠地延安で結婚。
文革が始まり、劉少奇が殴り倒されるのを見ながら手を出せなかったと後日述べている。
 「打倒劉少奇」の提案に中央委員会の全員が賛成。王光美のみが挙手無し。(こうして毛沢東のクーデター成功)
 67年から78年までの12年間獄中に。
 毛沢東の死後1978年に自由の身に。
 2006年10月13日死去、85歳。
 晩年の生活は、窮乏する1500万の母達を助けよう、とのスローガンで「母親 達を援助する」会を設立。


 以上を中国のホームページで調べました。
 劉少奇と王光美は毛沢東の妻、紅青に激しく嫉妬されていたのが原因で不  幸にあったと記されています。
 勿論これは現支配者の言い分で、あの国家そのものを転覆する程の大混乱、文革の責任をいまだに江青と4人組の犯罪としています。
 「事実を実際から究明する」と言うことを当時誰もが声高く叫んでいます。しか し当時は全て毛沢東の言い分で塗り替えられていました。
 そしていまだに事実を究明することが覆い隠されています。