10月革命90年 その意義は

07/11/08 南方週末 王 康

 ロシア革命がこのように意外な方向で収束したのも、これまた弁証法の説明に合致しているのだろうか。その偉大で神聖で終局的な目標は実現されなかった。だが地上から全て消えたわけでもない。まだ形を為していないが、ソ連の歴史から学ぶべきものは大きいはずだ。
 
 スフィンクスの謎

 如何なる立場の人でもソ連の10月革命は20世紀初頭をそれまでの人類の歴史と画然する様相を持っていたことは認めるだろう。それは近代史の終わりを意味し、現代史の始まりを宣言した。ソ連が崩壊するまでは世界が注目する出来事であったことは事実だろう。

 アメリカ大陸の発見とその歴史に比べ、ソ連の登場は人類史に一つの輝きと見られたのも事実だろう。当時はそのことを文明の新紀元と言われた。

 ソ連の登場は300年続いた西欧資本主義の一大危機と称された。人類解放の福音と受け止めることもされた。ソ連は30年間で西欧の工業化に追いついた。ロシアはそれまで”愚昧、落伍、腐敗”の名前で呼ばれていた。その3流国家が一大超級国家に成長した。ソ連はドイツのナチスの侵略を防御した。人工衛星を天空に打ち上げた。核弾頭をアメリカの近海に運ぼうとした。ソ連の国民教育、退職・養老保険制度、医療保険などは世界を驚かせた。映画、バレー、オリンピックの表彰、等々は西欧を羨望させた。哲学、社会体制、生活方式は多くの国から典範とされた。原子爆弾、水素爆弾は地球を50回以上破壊することが可能だった。ソ連は世界を高尚なものに、純潔なものに、無私、等々に思われ、やがては西欧に取って代わられると見る人も多かった。

 ソ連は人類の希望だった。世界の非圧迫階級、非圧迫民族の希望となった。キューリー夫婦やアインシュタイン、ローマン・ローラン等、世界の有名人からの同情・賛同・支持もあった。正に新しい正義の社会を創りつつあると考えられた。
 だが74年経って、建国直後の西欧資本主義国家の包囲転覆活動が無くなり、ナチスの脅威が消えた後、ソ連の軍事・政治・文化・外交など多くの面で重大な危機が表面化した。
 そして劇的な崩壊が起こったのだ。そこに流血事件が起こったわけではない。戦争が起こった訳ではない。具体的に転覆を狙った人も、それを守ろうとした人も居ない中でそれは起こった。
 これこそ正に近現代史の謎、スフィンクスの謎、ではないか。

 ソ連の登場が20世紀初頭の世界史の重大事件であるなら、人類の運命を根本的に変革したはずだ。そして世界史の流れをも改変したはずだ。では本当に今後の人類の1世紀の長期に亘った影響が残るだろうか。それは誰も確言できない。

 その真の意義を点検することが中国の今後を見通す上で非常に重大なことではないか。 

  革命かそれとも単なる穴埋めか

 10月革命はマルクス主義理論の名前で進行した。当時のロシアは世界大戦中で周辺国から直接の干渉を受けていた。
マルクスとエンゲルスはロシアを「伝統的奴隷制」と規定した。彼等2人が表した「共産党宣言」の中で記した、工業生産が発達した後に生まれる社会体制ではなかった。ロシアに土地と資源の国有化が生まれるとしたらそれは「アジア的仮の体制」と見なした。
 
 バクーニンなどの無政府主義者は西欧からの共産主義がロシアにもたらされてもそれは専制主義にしか成らないと主張した。自らを無産階級の解放者と位置づけたエンゲルスも政治・軍事の独裁が現れる危険を予感していた。
 レーニンもマルクス、エンゲルスを信奉していたが、ロシア生まれのブレハーノフと共にロシアの後進性を深刻に考えていた。その後進性が革命後も大きな影を落とすだろうと予感していた。
 だがロシアの歴史と環境は独自の発展性を持っていた。10月革命はマルクス主義のそのままの形で生まれたのではなかった。それは西欧社会とは違った形での発展の結果だった。
 如何なる国家もその地理的歴史的条件の影響を受ける。ロシアにはそれ独特の特徴があった。太平洋西岸のウラジオストックに夜が訪れるとき、ロシア西方のサンクトペテルブルグでは太陽が昇り始める。ロシアはアジア大陸を跨っている。そして海岸線がほとんど無く、高山砂漠などの自然障害が多く、西からは進んだ宗教改革、文芸復興、工業革命、啓蒙運動等、現代科学の大きな波を受け、東側とは大きな断層が生まれていた。
 その複雑な条件がロシア帝国の救世主義を生み出していた。

 ロシアの専制皇帝はキリスト教を真似ながら東正教の名前で農奴制国家を作り支配を強めていたので、メンシェビッキもボルシェビッキもその過酷支配体制に激怒していた。  ピーター大帝になってから特に知識階層と勤労大衆は前途に絶望するようになっていた。同時に西欧の工業革命や啓蒙運動との格差などのしわ寄せがロシアの矛盾を拡大し、ついにレーニンやトロッキーなどによる10月革命が起こり疾風怒濤の如く旧体制を葬り新しい希望を大衆に与えた。ボルシェビッキの評価にかかわらず、その革命は人類史で大きく偉大な事件の一つであったことは否定できないだろう。
 ソビエトは西欧の後追いではなく、歴史の指導者になったのである。クレムリン宮殿がロンドン、パリ、ベルリンなどの先頭に立ったと見られた。 


予言は的中か

 レーニンが生前予想したように、革命後のロシアではボルシェビッキの内乱相剋が始まり、国家全体は小農中心の経済体制のまま、無産階級主導の法律を作り”共産主義”の名前で国家管理が始まった。ボルシェビッキの指導者の個人の品格に大きく影響される体制となり、スターリン独裁が始まった。彼自身恐らく自分の死後がどうなるか認識できなかったであろう。

 レーニン達の優秀な美点は「献身」「理想」等であったが、巨大権力を持ち、個人としてのもろさの間で、革命政権を守り通すことも革命を世界へ広めることも革命の精神を維持することも不可能であった。

 ドイツで共産党を建設したローザ・ルクセンブルグはロシア革命を歓呼を持って歓迎した。だが彼女は「普通選挙のないこと」「集会と発言の自由のないこと」を批判して「社会から人間の魂が消える」として厳重に警告した。

 また、ボルシェビッキの数人の指導者だけが全ての集会で発言することを、「無産階級の統治」ではなく「正に専制政治」だと批判した。

10月革命の3年後、1921年、エンゲルスの秘書だったカール・カウツキーは「完全で平等の選挙制度を擁護する」とした革命家達は、一旦政権を獲ると今度は「これまでの旧体制の国家官僚支配体制を破壊し、新しい官僚機構を創出するべきだ・・」と述べている。
 これらの予言、憂慮、警告などは約1世紀後の今日「共産主義の運命」を正確に予言していたと言える。

マルクスやエンゲルスは無産階級の指導者と言われているが、彼等は国家権力を握ったことはない。文芸復興、工業革命、啓蒙運動の経験もないロシアが革命後の指導者の「監督・制約・裁決・罷免」等の制度を建てることは出来なかった。
 マルクスもエンゲルスもカウツキーもローザもレーニン自身も共産主義運動内部の民主主義と専制主義の問題を解決・予見することは出来なかった。それが崩壊の決定的な根本問題となった。スターリンも「個人専制」が重大な欠陥であることを見抜けなかった。
 
1990年1月30日、ソ連国家安全委員会は、1928年から53年までのスターリン時代に、合計で3、778、243人が殺されたことを発表。1991年6月14日、ソ連の元KGB主席はその時期420万人が処刑されたと報道した。

 マルクス・エンゲルス、レーニンの人類解放の偉大な旗印の下でその正反対の事件が起こっていたのだ。

 スターリンの個人崇拝は党と人民と国家の上に君臨した。「スターリンは地上最大の偉大な人物」と称されていた。

 1946年ドイツへ亡命したベルガーノフは「ロシア革命は人民の偉大な力量を示した。だが同時にロシアのメシア救世主義に背き、専制支配を始め、暗黒社会が到来し、奴隷制が復活した。ロシア革命の教訓はそこにある」と記している。
  
スターリン死後3年目の1956年、ソ連のフルシチョフは「ソ連の20の秘密」として、ボルシェビッキ内の鎮圧を報告した。 70年代になると全国に政治犯独房があることをソルジェニツィンが記し、80年代になるとそれよりも恐ろしい恐怖政治があったことが暴露されている。それらは人民が長期に亘って真実を知らされなかったからだ。スターリンの血の粛清の本質が暴露されると大衆は震え激怒し幻滅した。ソ連が如何に強大な国家であっても破壊すべきだと考えるようになった。
 1998年7月16日、ウラルで東正教の「耶蘇キリスト教会堂」が建設され、サンクトペテルブルグにもパウロポールの教会堂が建った。そこでロシア末代皇帝のニコラス2世の祭礼が行われ、聖歌が歌われ祈祷式が行われた。
 ロシア共和国総統エリチンがニコラス2世の棺の前に跪きの礼をしている。彼は以前の共産党中央局員である。彼とモスクワ市書記が共に「自由、民主、平和、幸福」の社会を創りつつあると述べている。

 ロシア10月革命はその美しい理想を実現しなかった。西欧国家よりも進んで優れた現代国家を創ることは出来なかった。
 その悲劇の根本は歴史的制約の中で、精神的道徳的力量だけでは超えられない大きな壁が有ったと言うことか。 
 ソ連の当初人類解放という偉大な目標を持ち精神的気概は大きく高かった。そして一種の英雄主義、殉教主義精神にも満ちていた。そのことは全人類に一つの暗示を示している。だが革命は思わぬ方向で終末を迎えたのも必然だろうか。
 その「終局目標」という偉大性が変形され姿を変えてしまったが、完全に消えたわけではない。だがその崇高であった目標は人類の歴史の1ページに収まっている。 




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訳者注:
 人類解放という偉大で究極の目標を持って取り組んだ闘い。それがマルクスやエンゲルスによって生産手段を国有化することで、社会全体に対立が無くなり貧富の差が消え、永遠の平和が続くと科学的な色合いを付けて説かれ、その確信は”絶対”なものに止揚されました。
 その確信が強かっただけに、その運動の中の人達はその理想を理解できない人達を全て敵と見なしました。
 スターリンはメキシコに逃亡したトロッキーまでを暗殺しています。
 その「絶対的信心」が国家権力を使った血の大量粛清の原因でしょう。

 中国でも建国直後から毛沢東によって毎年全国民に階級闘争を呼びかけ、毎年数10万人が敵として断罪されました。
 中国ではその運動の進め方として「密告」の手段を使ったために人々は家族でさえも信用できなくなりました。
 人権思想が芽生えていない中国では、その運動は個人住宅内を自由に捜索することさえ行われました。
 これら全ては「人類の解放」という高い目標を掲げていました。実際文革が終わるまで、誰もがその終極の目標を「絶対」として信じて疑わなかったのです。周恩来さえ。
 
 この記事では10月革命の高い目標と精神の中に人類が歴史に残す意義があるのではないか、と追求していますが、人々の生活上役立つ具体的な意義があったのかどうかが問題です。

 生産手段の国有化のため、資本主義的な無駄を無くすために、”計画経済”を採用しました。しかしこれほど人間を”機械”にし、進歩を止めた非人間的制度は有りありません。
 
 その他に、独裁政党、統治や議会のあり方、警察・裁判制度、住民自治など、どれも非近代的、非民主主義的、抑圧的でした。
 さらに国民総背番号制を取って、そこに各人の政治評価を記す制度などは、現代社会にあってはならないことです。

 たしかに大昔から人類は社会の中に貧富の差のない、誰もが平等であること、などを理想とし、その実現を夢想してきています。その一つの主義が「社会主義」という言葉に込められているのかもしれません。しかしこれまでの「社会主義」が具体化したのは昔から想像された理想とはかけ離れています。ソ連も中国も人間社会の歴史に「悲惨」「歴史的後退」そのものを残しました。

 社会の中に対立も矛盾も闘いも何もかも存在し、それらを公平に裁く制度が法制化され、人々の基本的生活補償のレベルを揚げていく政治や共同の生き方があるはずです。