: 雛承魯 :
  真実を語った人 逝く


06/11/30 南方週末 趙凌

 

  雛承魯              1951年 ケンブリッジで博士に     



 1948年結婚 後方は李四光夫妻
  

 11月23日、高名な生物化学家、雛承魯氏が亡くなった、83歳。60年代に人口膵臓を造り、中国では生物科学界の権威となった。

名誉を求めず科学的真実を追究するその姿勢は学者の模範とされてきた。

 80年代後期学会で有名になり、中国の学術界の腐敗を強く批判してきた。

 1946年に西南連合大学化学科を卒業後、公費で英国ケンブリッジ大学へ留学。研究生の期間に学会誌「自然」(nature)に多数の論文を発表。英国の国家自然化学賞を受賞。
しかし彼自身は「国際賞」を望んでは良い研究が出来ないと称していた。それは中国の学会が異常に「ノーベル賞」を期待する風潮を批判したものだ。

最近もアメリカの学者達との論文発表で「中国の計画経済は中国の科学発展を大きく阻害した」と述べている。
 1957年、34歳の雛氏は当時の計画経済の”恐怖”時代でありながら「学会は科学者が管理すべき」と提言している。
 彼の娘さんの話によると、父(雛)とお爺さん(李四光、地質学者)は共に英国へ留学しているという。
 1948年伯父(李四光)の仲介で雛氏は英国でやはり留学中の李林と結婚している。 李林氏(李四光の娘)は中国の有名な固体物理学者。02年死亡。

 1981年、58歳の彼は中国の科学院院士に選ばれ、「科学研究問題」と題して「科学者達の研究成果は半分以上が名利を得るための虚偽や他人の成果を剽窃した内容である。とても認められない」と発表した。その批判の中には高位の重要人物も含まれていた。

 英国にいたとき雛氏の研究発表の署名欄に、当時の中国では規則となっていた教授の名前を記したが、英国の教授によって雛氏本人の名前に書き換えられたことがあった。それ以降、彼も又中国の慣例を破って発表者本人の名前を書くことに変更した。それは当時の中国では大勢に従う傾向を批判したものだった。大勢に従いながら上司の名前で虚偽の成果を発表し人を騙すのもその頃の傾向だった。
2001年、世界的成果と誇称された「核酸・・・」の研究発表に対し、雛氏はその研究には真実はないと論破し、核酸栄養品の販売にまで発展していたその研究成果の学会の副秘書長の責任を追及した。
 03年中国科学協会の年頭の挨拶で雛氏は学会の「7つの大罪」を指摘した。

 偽造学歴・偽造職歴、他人の実験成果簒奪、研究成果盗作、他人の成果を故意に貶める、自己の誇大宣伝、一つの論文を名前を替えて多くに投稿する、他人の研究に自分の名前を書く、商業宣伝に虚偽の成果を表示する。

 雛氏が語る中国の学会の最大の欠点は「不透明」だと言う。
 亡くなる20日前に完成した「学会の重大な腐敗を如何に処理するか」の中で、「腐敗は学会の中に蔓延している」と指摘している。  
 その彼に対し周囲には恐怖感があり、非難も又「孤立主義、異端」等々と強烈だ。しかし彼が学会の”真理追究者”という評判に反対する人は居ない。

 1951年英国から「化学博士号」を得て帰国して以降78年に文革が終わるまでの27年を称して、「この27年の3分の2は政治活動に使われてしまった」と述懐している。その頃は何時も「さあ、会議を開こう」が合い言葉だった、と語る。
 文革を終えて研究者達に春が来たとき、雛氏は既に還暦になっていた。
 
 雛氏に持って生まれた天才があったとしても、時代が強制する制限から逃げることは出来なかった。1970年、上海から北京生物物理研究所へ勤務先が変わった。だが時代は文革時代だ。職場の環境は最悪だった。分光光度計が無く、定温分離器もなかった。当時個人の実験室は存在しなかった。

 1972年米国と国交回復して、アメリカからE・smith(スミス)教授がアメリカの学者達を率いて見学に来ることになった。当然見学団は雛氏の研究室を見たいと要求した。
 急きょ、彼の実験室が準備されることになった。各種の実験工具が持ち運び込まれ、各種薬品の瓶にはラベルと関係なく全て普通の水が詰められた。
 幸福なことは、スミス氏が帰国後雛氏に実験室が与えられたことだ。

 数年後イギリスからも訪問団がきた。そして雛氏もアメリカへ行きスミス氏と歓談したことがある。その時スミス氏は「私は一見して薬品の瓶の中は真水であることが判りました。あのよう状態では中国に科学研究などあり得ないことが誰にも納得されたでしょう」と言われたのだ。
 それに比べ現在は各種設備も整ってきた。しかし肝腎の研究者達の心は浮ついていて、真理追究にいまだに熱心でない。そのことを彼は何時も批判していた。 
  
 北京万寿寺の近くに小さな「李四光記念館」がある。そこが雛氏の住まいだ。02年に李林女史が亡くなって以降、雛氏はそこで独居だった。  
 
娘さんが語るには、晩年の雛氏は転倒することが多くそれで脚を切断。記念館に飾られた李四光と李林の大きな画像の下で、誰も居ない静かな空間を杖を頼りにゆっくりと歩行していたという。そしてついに彼自身も二人の画像の横に黒枠付きで並び掲示されることになった。 
 
 雛氏の後輩と名乗る人が弔電を寄越してきた。そこには「学会の”ごまかし”を破る闘志。これからも学術界の腐敗抑制に力を貸してください」と記されていた。
 
 中国の科学者の一人、饒毅氏は「中国社会の不良な風土の中で雛氏が居たと言うことは、良い伝統を造ることが可能だと言う証明です」と述べている。
 
 さて、雛氏が逝ってしまった今、彼が残した精神的遺産を誰が継承するのか。
 
 生い立ち

1923年5月17日  山東省青島で誕生
1945年        西南連合大学化学科卒
1951年        ケンブリッジ大学生物化学博士
51年〜70年     中国科学院上海生物化学所70年以降 
              中国科学院生物物理所
1980年        中国科学院院士
89年〜95年     中国科学院学部主席
92年          第3世界科学院院士
06年11月23日   北京で死す 



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訳者注:
 文中の次の文字列。 
「中国の計画経済は中国の科学発展を大きく阻害した」

 計画経済の”恐怖”時代でありながら。

 文革を終えて研究者達にが来たとき、

 このようなことを文字として、例え一部の新聞としても、公言出来る中国になったことを私は心底から驚きます。
 多分、新中国建国以降の歴史上初めての登場でしょう。
 中国の国家としては正式にはこれらの内容を認めていません。
 計画経済が「科学の発展を大きく阻害したこと」「恐怖」であったこと。今では世界で共通に認められているこの事実が中国の国家としては認めていません。
 
 しかし私はこの記事を訳していて、もし雛氏のように真実を求め、公言することが出来る社会があれば、その社会は大いに発展するだろうと確信に近いものを感じました。
 
 計画経済の”恐怖”と”研究の阻害”は、かってのソ連でも、戦前の日本でも同じでしょう。
 国家独裁、軍部独裁の違いはあっても、そのような社会で生産も科学も文化も発展しません。
 そのことをこの記事は明確に表明しています。このような記事を書くには記者の精神が本当に自由は何かを知っていないと書けないでしょう。
 社会主義中国でそのことを理解し発表するのは実に勇気の要ることでしょう。