今は水も消えた”渭河”

06/11/02 南方週末 汪永震


渭河流域の老人



上流のダム 水流がなく川床が見えている。



川床が上がり、3度び橋の上に橋が造られた。




 渭河は中国中原を流れ歴史の都”西安”市に沿って流れ黄河に注ぐ。全長181キロメートル。黄河に注ぐ支流の内最大の河である。

 ”中原の母”とも言われ数千年の間300万ヘクタールの田畑を潤し人々の飲料水としても使用され中華文明を育ててきた。 

 06年8月の「東方網」(インターネット)に「汚濁の極言まで進んだ渭河、見渡す限り汚染を漂わす河」と表現されている。
 
記者は今年の6月から西安から渭河の上流を見て回った。しかし何処まで行っても水の姿は見えない。ダムの管理人に聞くと年間8ヶ月は水が現れないと言う。
 ダムの大きな壁の上には「水源を大切に、それは貴方の責任」と大書されている。

 水が現れたときは目を開けていられないほど刺激があり、喉が痛く、そこに瞬時停止すると気持ちが悪くなる程だ。

 華県と言うところに3層の橋が架かっている。橋の管理人が言うには河下から水が逆流してきて石や泥を起き去り川床が上昇した。そこで次の逆流に備えて橋を3度積み重ねたという。このような3層の橋は他にも幾つか有るという。

 黄河の三門峡にダムが建設され、年間3回程放水されると、この渭河に逆流が起こり泥石を残して行く。
 「一度水が来ると周囲に溢れ大災害をもたらし、水が来ないと川床が現れ干魃となる」とのこと。
 最近地元政府が1.2億元で汚水処理場を作ったが管理費が無くなり、放置されたままという。
西安市は多くの人がこの河をゴミ捨て場として使用している。黄河に注ぐ辺り、昔から黄河と渭河の2つを比較して、黄河は黄色く渭河は透明の済んで綺麗な水の象徴として讃えられてきたが、現在は黄河の水は黄色で変わらないが渭河の水は黒色である。

 自然に流れる水量が減少し、逆にこの河へ汚水を流す企業は急速度で増大している。水質は最悪だが現在の所如何なる処理もされていない。

 記者が農村を歩くと農民が直ぐ寄ってきて「ここらは雨水だけが便りです。渭河の水は
畑に流すと直ぐに麦や野菜等が腐ります」という。 

 地下水も汚染が酷く塩分を大量に含んでいて使えないという。

 06年の5月の「中国環境報」雑誌によると、「渭河は現在上流のダムでも水が見られない。約80キロ以上が既に河としての体をなしていない」と記されている。

 専門の観測所も年間180日水が現れないと言っている。

 歴史的に見ても、類人猿の時代からこの河が人類の出現と成長に役立ってきたことが判っている。甲骨文字や土器・石器などにこの河が画かれているのだ。
 
 峡西省環境保護局の話では、かっての渭河は水流が豊富で、農業の灌漑だけでなく、この河の水上交通が発達しそれが「千年の古都西安」の文化を創っていたという。

 宋の時代、造船業が発達し年産六百艘を記録している。それが”中原”の繁栄を支えていた。

 50年前の記録では増水記の流量は毎秒60立方メートル、現在は毎秒1立方メートルだ。

しかしこの流域で、03年8月24日から10月5日まで続く一大水害が発声した。
 死者数十人、家を無くした人20万人。経済損失は10億元を超える。あれから3年が経ってある人曰く「やはり私達の土地は水盆の中にあるのだ」と。

 水害の原因の一つは川床が上がって住居地域が低いからだと言われている。

 さらに有る専門家は「水利専門家の黄万里教授が40年前に出来た黄河の三門峡の大ダム建設が根本原因だ、と指摘している」と教えてくれた。

 黄河の三門峡建設が利した面も大きいだろう。しかし黄河に注ぐ幾つもの河にとって、逆流により泥や石が堆積し川床を上げ、橋の上に橋が必要となり、水害が発生すると大災害をもたらしているのだ。

 有る専門家は三門峡が出来て以来この40年間で渭河の川床は約5メートル高くなっているという。

この40年間にダムの決壊は75カ所。03年の特別大災害だけで決壊は8カ所、被災者は56万人、転居せざるを得なくなった人は約30万人。あの大災害は今後も繰り返す恐れは充分にあると専門家は言う。
三門峡ダムの是非は今まで長年論じられてきた。

 渭河の水上を帆掛け船が悠々と走り、見渡す限り山々が続いている景色を詞や文に讃えた人は数が知れない。
 だが現在川床には水が全く見られず歩いて渡れるのだ。

記者は渭河の水源地の山に分け入って二千メートルの上まで登ってみたが何処まで登っても水流が現れないのだ。川床だけを見ているともの寂しくなってしまう。
 現地の人の話では前日大雨が降ったというのにここには水がない。

 また現地の老人は「私が子供で10歳の頃、周囲には大木が密集していました。その直径は数人でも手が届かない程でした。そして辺りの泉は何処も水が満々としていました。しかし現在見渡しても水が見えません」と言う。

 この老人が言う。
この山は3度伐採されています。建国直後と大躍進の時、文革の時の3度です。大きな木々は全て伐採されました。

  訳注:建国は1949年、大躍進は1     959年、文革は1966年か      ら10年。

 近年中国の江・河を詳しく論じている”馬軍”さんによると、「水源地の水がなければその河は枯渇する。渭河は中華文明の水源地である。渭河は中国文化を数千年に渡って潤し育ててきた。しかし私達のこの時代にその河が枯渇しようとしている」と書いている。

 記者は林業局の事務所へ行き質問してみた。しかしそこの担当者達の回答は軽かった。「水流の減少は地球全体の問題です。地球温暖化の為です」と、その一言だけであった。

 帰路記者は、山一つ隔てて黄河に注ぐ「タオ河」と言うのを見てきた。周囲の山には青々と木々が茂り緑の牧草には白い牛や羊が草を食べている。その美しい景色は渭河とあまりにも対照的だった。

 同じ地球上の隣り合った河で何故こうも違うのだろうか。
  
渭源県は最近観光客誘致のビデオを作った。題には「渭河の大自然が中国文明を育ててきた」と書かれているが、画面には涸れきった川床のことは何も書かれていない。

 もし観光客がこのビデオを見て現地に行ったとき、涸れきった川床を見て「水は何処にあるの」と現地の人に聞けばどう答えるのであろうか。


記者は渭河の最大の発電所に寄ってみた。そこの壁には巨大な銅板が掛かっている。彫られた文字は「ここは愛国主義教育の基地」、もう一つの銅板には「河を維持することが健康と生命を守り、人々の飲料水と生活の営みを助ける」とある。

 渭河の命は中国の無数の河の縮図である。水源地の木々が伐採され水が枯渇する。
その道の管理者達はこの現実を無視し、逆に凱歌を上げている。

 1988年に揚子江が巨大な災害を起こしたとき、木々の徹底的な伐採を根本的に見直す必要を痛感したはずだ。
 しかし現実は高度の開発が留まらず、次々と新たな災害を引き起こしている。
私達は人類と江・河との関係をここでハッキリと反省し、見直すときではないだろうか。


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訳者注:
 3度の伐採;中国が社会主義となったとき、その基本経済政策は「計画経済」でした。資本主義より社会主義が優位であることの具体化と考えられました。
 その経済計画では若い年代の人達を生産の場に受け入れることが出来ないことが判りました。計画経済は良くて現状維持だったのです。(実際はそれも出来なかった)
 そこで若い人達を山へ行かせて木々の伐採をさせたのです。(農村に放遂された人達も多くいます)その数は毎年数十万人以上。

「老鬼(らおくい)」参照
 我が青春の文化大革命 
http://www31.ocn.ne.jp/~k_kaname/text/culture/laokui.htm l
 建国後周囲への影響を考えず建てられた三門峡ダムの問題も含めて、中国政府の根本的な政策の誤りをこの記事は正当に表現し疑問を呈しています。
 最近の経済成長が始まってからの企業の無責任な廃棄物投棄も渭河の汚染を拡大しています。

 このような問題提起が新聞紙上で出来るようになってきたことは良いことですが、遅すぎないでしょうか。地球破壊そのものです。

 さらに私達日本人に理解しがたいのは「中国政府の問題ではなく、地球環境の問題」にしてしまう公務員(党員)の軽薄な態度です。
 「渭南市の表彰式」参照 http://www31.ocn.ne.jp/~k_kaname/text/03/wainansi.html

 この翻訳で紹介しましたが、03年8月の渭河の大災害の時、現地の党は災害対策よりも党幹部の表彰を大切にしています。
 漫画チックな官僚主義が厳然として蔓延っています。

 私が大連にいたときも大型客船が沈没しましたが、その翌朝の新聞は現場の危機的状態ではなく、沿岸の小さな農村の党組織が沈没する客船を発見したことを表彰する内容でした。実際に死者も出ていた瞬時にさえこの報道です。

 枯渇した発電所の壁に「愛国主義教育の基地」と平気で銅板を飾る態度も官僚主義、形式主義でしょうか。

 報道の役割が全く無視されています。
中国には各都市に、都市の名前に「日報」を足した新聞があります。(大連日報、等)
 これらは「人民日報」と同じ政治新聞で事実の報道にはあまり役立たず、「○○晩報」の方が事実が分かり面白いでしょう、と現地の中国の学生が教えてくれました。
 と言うことは、中国の改革が進み民主化されると「人民日報」や「○○日報」等の新聞は消えていくと言うことでしょうか。
 
 でもその恐ろしい程の官僚主義と無責任の蔓延る社会主義中国でこのような「南方週末」が発行されると言うことは、その記事を書いている人が何処か外国で民主主義を学んだのでしょうか。