北へ北へ


06/03/30 南方週末 曹鈞武












寄せられた資料




 1960年頃、無錫市の福祉施設で働いていた陳素英さんは一夜の内に施設が捨て子で一杯になったことを想い出す。
 施設の周囲には毎日捨て子が置かれていた。公安や住民委員会からも捨て子を預けに来た。
 これは勿論無錫だけではなかった。紅蘇省浙江省一帯の施設が何処も捨て子で満員になり、人口が激増した。捨て子の場所は次第に上海に向かい、上海市でも施設はすぐに満員になった。

 当時11歳の呂順芳さんは4人家族で父は遠くの採石場へ出稼ぎに行っていた。
1960年の春、農家は何処も食べるものが無くなった。
人民公社から配給される籾米は50グラム。それを糊のようにして4人が食べた。下の妹は2歳。ひもじさの原因を全く理解出来ない歳だった。母の嘆きを見て呂さんと弟の2人は「私達は上海に行きますよ。あそこにはきっと食べるものが有るよ。大きくなったら戻ってきます」と言い出した。
 母は唯嘆くばかり。2人の子供を連れて遠い上海へ2人の子供を連れて行った。別れ際に母は小さな餅を子供に買い与えて田舎へ戻った。
しばらくして帰宅した父は子供が居ないのを知って激怒した。だが、食事の様子を見て父も納得した。お椀に入れるものは草を煮た糊のようなものだけだった。少し前には”抗米援朝鮮”で闘った父もまるで子供のように泣くだけだった。

 1959年の末、上海・無錫・常州などでの10カ所の孤児院に捨てられた子供は3000名を超していた。その翌年初めには6500名に膨れた。どの子も栄養不足だった。

農村では上海に行けば食べ物があると思われていたが、しかしやがてそこでも食料が欠乏した。1960年6月6日の中央政府の記録では、北京では食料準備は7日分、天津は10日分、上海では数日しか貯蓄がなかった。

  訳注:
  当時は計画経済で食料は配給制で各地方政府が貯蔵していた。

 上海市もこれ以上捨て子を受け入れることが出来なくなった。当時の全国夫人連絡会議の議長は”康克清”氏だった。彼は周恩来に面会を求め、内モンゴルから粉ミルクを支給して貰いたいと要求した。
 周恩来が内モンゴルのウランフという担当者と話をし、捨て子を内モンゴルに送り、牧畜の世話をさせて養おう、と言うことになった。
周恩来は「緊急の時だ。詳細は後から決めよう」ということで、すぐに子供達を送り届ける手段に移った。
 内モンゴルは全家庭調査を行い、保育施設や各家庭の引き受け先などを決めた。
 1960年から63年にかけて上海から送り出された子供は3000名に上る。
1960年だけで2000名が運ばれ、一つの施設で200名が収容された。一つの施設で養育費用は150万元程必要であった。

 最初に運ばれたのは1960年の4月。無錫から100名の孤児を預かって呉全英さんはお腹の膨れる餅の袋を背負って汽車に乗った。
内モンゴルまで4,5日掛かった。100名の子供のおむつが大問題であった。列車の通路にはオムツがずらっと並んで干されていた。内モンゴルから来た世話役にとって言葉も大問題だった。浙江省方面の方言は全く理解できなかった。泣いているのが空腹なのか喉が渇いているのかも解らず、列車中が泣き声で埋まった。
 
内モンゴルでは大切に育てられたが、子供達の皮膚の色が白いので現地では苦労したようだ。その色が黒くならないように”レイシ”という高価な薬品を与えたりしている。
 中には現地の大きな家庭に貰われて恵まれた環境にいた子供もいる。

 1963年になると山東省、河南省、河北省、山西省、陜西省などの多くの場所から北へ北へと子供達が運ばれた。
 だが現在40年経っているので、その数などの実数は全く分からない。
 無錫の呉全英さんも何人の捨て子を送り出したか、記憶に無いという。
 1964年になって徐々に食糧事情が改善され、北へ送られる孤児は減っていった。   当時は出来るだけ多くの孤児を北へ送ることだけを考えていたという。
 そして40年が経った。今あの子供達が帰れる頃だ。



 
親を捜して40年

 06/03/30 南方週末 曹鈞武


 40年前上海から蘇州・無錫・常州にかけて飢餓が原因で親に捨てられ、周恩来の指示で人道主義の観点から最大規模の救援活動が行われ、北へ送られた。上海から北へ延びる鉄道がその生命の軌跡を記録している。
  

 05年12月無錫市の福利施設に高素雲という女性が”親探し団体”の一員としてやってきた。曹という家族の6兄弟が福祉施設で待っていた。面会をして両組は必死に顔の特徴などを見比べあった。
 そして唇の曲がり具合から彼等は兄弟であることを確かめた。 

 1960年の飢餓の時代から40年経って今、捨て子達は故郷の親捜しを始めている。 人々は彼等を「上海孤児」と呼んでいる。

 白金豊の場合

 彼女は生まれて8ヶ月で北へ送られた。1998年に上海へ親探しに行った人の噂を聞いてから彼女の胸は静まらなかった。
 両親は彼女が捨て子だとは一言も言わなかった。両親には実の子と同様に大切に育てられたが、周囲の噂話から自分が捨て子であることは小さいときから知っていた。
 97年に両親は共に亡くなった。死ぬ間際にも両親は”もらい子”と言う言葉を口にしなかった。
 1998年、地元の赤峰と言う地で20数人が集まり、親探しを始めようと相談した。地元民政局に行くと、簡単に身の上を記した「档案」が出てきた。
 彼女が福祉施設にいたときの名前は「石行」と言う名前であることも解った。
 99年になって20数人が赤十字の医者と一緒に上海へ行った。
 その時は養父母や周囲の人達が気づかぬように”旅行”を装った。だが地元の新聞が親探しであることを報道してしまった。
 中には記者が家まで来て、養父母に写真を見せて「貴方が育てた子はどの子ですか」等と尋ねてくるのも居た。

 両地の民政局が「档案」を探したりして協力した。だが肝腎の「档案」は文革で消失していた。そして初めての上海旅行が終わった。
 内蒙古へ返ってからは、もう誰も親探しを口に出さないと諦めていた。

 1年後そのことが中央テレビで「真実」と言う番組で報道され、それを見た”呂順芳”と言う人が白金豊を自分の妹ではないかと疑問に思い、2人の間に手紙がやりとりされた。
 呂さんは自分の妹が捨て子にされたことを親から聞かされていた。妹の名前は雅芳と言った。
 彼女は仕事で北京に行ったことがあり、恐らくもっと北に自分の妹が居るのではないかという気持ちになっていた。

 両人の居場所は1千キロ離れているが、中央テレビが「上海孤児」達を北京に呼び、再開の場で姉妹の血液形鑑定を発表して、その様子を報道することになった。
 無錫周辺では噂を呼び、何処の家もテレビの前に釘付けにされた。何処の家も捨て子には関係があった。
  
 だが当の面会の場での鑑定結果は「否」と出た。呂さんも一緒に参加した兄弟達と他の親探しの人達は声も出ず唯一斉に泣き崩れた。
 「上海孤児」達は呂さんにこれからも親探しを手伝って欲しいと懇願した。呂さんは彼等を必死に勇気づけた。
 
 テレビ報道後呂さんの家に多くの人が訪れ「私達の捨て子も探してください」と依頼する人が絶えなかった。その願いをしに来た人達は誰も事情を話した後泣き崩れるのだった。
 呂さんの夫が言う。「その頃はお願いに来る人が話し終わって泣く、妻が聞き終わって泣く。もう毎日泣き声が絶えなかった」と。
 
 中継点

 捨て子の行き先は、内モンゴル、河北省、河南省、陜西省、山東省などで、そこから連絡や訪問者が来た。各地から資料も送られてきて、ついに呂さんの家は中継点となってしまった。
 内モンゴルの白金豊さんの所にも依頼の資料が押し寄せた。そこで2人が資料を付き合わせて親探しを続けた。
     
 白金豊さんが内モンゴル赤峰地方の親探しの人を連れて呂さんと一緒に宜興へ行った時、その村の主任”姚”さんを一目で実の親と感づいたという。
 姚さんの方も探し求めていた実の娘であることを直ぐに感じたと言う。そして病院で血液形検査を受けその結果は「当」と出た。

 直ぐに姚家は村の人達を呼び寄せて祝宴を開いた。両親に夾まれて白金豊さんが座り、その両側に2人の兄弟が座った。だが白さんには現地の言葉が全く理解できない。そこで誰かが話すと通訳しまた誰かが話すと通訳するという状況だった。
 宴会が終わりの頃、白さんの母が箸を下ろして一声話すと突然周囲の誰もが話を止めた。通訳も声を出さない。そこで白さんは何事が始まったのか解らず緊張した。そこで呂さんが通訳した。
 「貴女の実母は、娘が見つかってもう何も思い残すことはない。直ぐに死んでも良い、と言ったのです」
 その話を聞いて白さんはこの家の娘で有ることを実感したという。
 だがこのように上手く親を捜した例は他には出なかった。
 その後5年が経った。相変わらず呂さんの所には依頼の手紙が来ている。だがこの5年間成果は何も出ていない。
 呂さんの家にはそれらの資料が整理され山積みになっているが、呂さんの妹が何時見つかるのか、その希望の端緒はまだ出ない。
 
白さんが親を捜し当てたが、そして親元と兄弟達が強く引き留めたが、白さんは内モンゴルに戻った。そこには彼女の夫と子供達が待っていたのだ。実の親元からは宜興に引っ越して欲しいと言う希望も寄せられたが、白さんは赤峰がやはり自分の故郷という気持ちに変わりがないと言っている。
 2003年の正月、白さんは夫と子供達と一緒に宜興に行った。それはまるで嫁の里帰りと同じ様子だった。その後帰省してからも電話のやりとりがあり、それも正に嫁入りした娘とのやりとりと同じ様子であった。
 
  白さんが帰省すると姚家は盛大に食事を盛り上げた。それはかって、食べるものが無くて娘を棄てたことへのお返しの積もりのようだった。
 白さんにとってはその食事の盛り合わせの中で筍と芹菜という料理が珍しく美味く感じた。それらは食材は内モンゴルには無かった。
 だが夫と子供達は食べ慣れないのか、口にしなかった。
 姚家ではそのことを見ても、白さんが自分達の家族であり、その夫と子供達とは食事の習慣が違うことを確認するような気持ちになるのだった。

白さんは家族のこと、新しい親元のこと、そして現在の環境については恵まれた身だと自覚する日々が続いている。
 もし変える必要があるとするなら、彼女の戸籍がモンゴル族と記されていることで、それを上海とされれば、もう何も言うことは無いという。
 
 「上海孤児」達は今も熱心に親元を探し求める日々が続く。
 ある人は言う。親探しのことを想い涙が止まらなくなるとき、こんなに親切に協力してくれる人達が居ることでもう充分ではないか、自分達の親は子供を棄てたのではなく、子供を生かす道を選んだのだ、と言い聞かせている、と言う。

 呂さんは自分のまだ見ぬ妹が幸福であることを願う日々を送っているが、一つの親探しの方式を考え出した。
 それは1年に1度同じ日に南北に別れた人達が一堂に会して福祉施設と報道機関の協力を得て「親探し大会」を開く方法だ。
 そしてこの仕事は自分にとって義務の勤めだと思っているという。



06年3月、山東省から親探し団体を宜興に呼ぶ計画と、5月の連休には他の省から親探し団体を呼ぶ計画を作っている。
 
 呂さんは出来れば国家もこの仕事に協力してもらえないかと、強く希望している。
もし国家機関が協力すれば「档案」を使ってもっと確実に多くの人が親を捜し当てることになるのではないかと想像する。

 国家はあの当時、捨て子の行き先を配慮して養父母を捜してくれた。そして今またその子達の親探しに配慮してくれるなら、本当にうれしい、と言っている。
 そしてつい最近も一組の親子の縁が検査の結果「否」と出た組があった、とのニュースが呂さんに届いている。
 その人達に対して呂さんは自分も希望を持っていて、検査の結果が「否」のこともあったが決して諦められないことを彼等に伝えた。

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訳注:
 1959年毛沢東は「大躍進政策」を提議し共産主義に速く近づく共同生活方式と、世界一のイギリスの鉄鉱生産を追い越すことがその基本目的で、ソ連の警告を振りきって実行しその結果4000万人の餓死者を出した。
 餓死者が1000万人出た報告が中央政府に来たとき、その政策の見直しを要求したのは彭徳懐だけで、周恩来以下の党幹部は誰も毛沢東に反対できなかった。そして彭徳懐が殺されます。
 毛沢東死後もこの話はタブーとされてきた。
 そして40数年が経ち、中国が世界への窓を開き、棄てられた子供達が親に会いたい気持ちを抑えられなくなった。

 この記事では、当時の中央政府の取った措置を「配慮」と書いています。40年後の今、国家が親探しに協力する「配慮」が有ればうれしい、と記しています。
 周恩来は”人道主義”から孤児の救済に当たったと言う表現で記しています。
 何故周恩来は餓死そのものを止める手段を選ばなかったのか。
 何故このような国家的事件の後始末を個人が「中継点」として請け負っているのか。
 その根本的なことを書けない中国の残酷な現状を冷静に受け取る必要があります。

 私はこの記事を訳していて何度も目頭が熱くなったりしましたが、しかし21世紀の今何故このような「国民が極めて重要な問題を提案」するとき「配慮の必要な国家」が日本の横に位置しているのか、信じられない気持ちで一杯です。
 1959年、この記事を読んでいる皆さんは当時何をしていましたか。