孫 武 勝 の 一 日

06/01/26 南方週末 何海寧

 孫武勝は根っからの農民である。しかし法廷訴訟の経験を積んで、今では専門の弁護士さえ反論できないことがある。
 出稼ぎ農民の間では尊敬され、ある種の人にはきつく睨まれている。

 ”社会情勢が英雄を創る”という諺がある。孫武勝が西安市で出稼ぎ農民の相談に乗るようになって、その諺は正に彼の為に創られた様なものだ。

 現在46歳の彼は毎朝8時に事務所へ行く。暫くは誰も居なくて静かな時間だ。だがすぐに4・5名づつの農民の群れがぞろぞろとやってくる。すぐに事務所は泥と汗の匂いで満ちる。煙草の匂いも混ざる。
 すぐに座るところもなくなる。テーブルに座った孫武勝が熱心に調書を作り始める。


 10年前、村から孫武勝達14名が揃って出稼ぎに来て、建築現場の仕事を請け負い方式で仕事を始めた。 
 当時、農民に対して支払いをしない、或いは支払いの段になって半分近くに負けさせることは全国で一般化していた。そして彼の場合も良くて8割、悪いときは半分しか支払ってもらえなかった。
 そして2万元の約束を企業側が支払わないので、地方政府に訴えたり企業へ直接何度も出かけて、やっと7千元を取るのが精一杯であった。14名の仲間も彼に責任を追求して仲間割れをして、ついには孫武勝の12才の息子を拘束するなどの事件になった事もあった。
 その時は孫武勝は子供の学費が払えなくなって子供を退学させる羽目になった。
 
 四川省で一人の農民が独学で法律を学んで裁判に勝った事件が報道された。
 それを見た彼は法律の勉強を始めた。西北大学の傍の本屋で法律書を立ち読みで勉強始めたのだ。彼の元来の教養は小学卒業程度だった。しかし学習に全てを賭けて努力した。 
 01年春、西北政法大学法律センターに彼は出かけ、そこで訴訟書類の書き方を教えて貰った。その時協力した学生が今は身分が教授だが孫武勝の事務所に手弁当で協力に来ている。

 そしてついに農民の賃金不払いや工場傷害事件などを裁判で争うことを始めたのだ。
 彼が訴訟に出るときいつも協力者として手弁当持ちで附いているのは記者とか複数の肩書きを持った人達だ。孫武勝自身は常時カメラを持っているがそれは脅かしのためで動作しない代物だ。 


 最初に手がけたのは張新年という人で、石割り工事の請負で151万元の約束が終わったとき20万元しかもらえなかった事件だ。
陳佳林という人も同じような条件の訴訟だった。

 初めは地元政府と交渉したが、たらい回しにあって何も解決しなかった。そこで法廷に持ち込んだのだ。
 最初の2度の訴訟では共に大勝利を得た。未払い金を取り返し、しかもその利息まで得ることが出来た。 
 04年、彼は200以上の訴訟をし、175が解決し、そのほとんどが勝訴だった。
 4月は最も忙しかったときで、20日間毎日連続して法廷に出かけた。
 
 だが有る法廷で孫武勝に負けた五建設公司の弁護士は「孫武勝は法律知識があまり無い。ただ周囲の同情があってこちらが負けた」と言っている。

 市の大きな建設業者には「不払い」契約が数多く残っていて、それが今では孫武勝の存在のために何時か払わねばならないと考えるようになっているという。

 だが小さな法廷の勝利が積み重なって、彼は農民の間で有名になり、経験と知識も豊富になり、今では市で知らない人が無くなった。 03年8月に地元で報道されると、孫武勝の携帯電話は鳴りっぱなしの状態となった。 そして農民がお金を取り返して彼に礼を言うときの雰囲気が、孫武勝をすっかり勇気づけ、それで得意になっているようだ。

05年の目標は工場傷害事件であった。この種の事件はどの法律事務所も担当を嫌がる。調停妥協までに時間が掛かり、しかも成果は大体少ないのだ。
 
 事務所の維持にもお金が無くて苦労したが05年にカンパ金が寄せられ、運営面での心配が少し減った。
 その中から初めて協力者に賃金を払えたとき孫武勝は涙を流したという。そして専門学校の学生をアルバイトとして雇うことになった。
「文化の低い農民が学生を雇うんだ」とこの時も大喜びだったようだ。
 「農民が汗を流して働いても正当な支払いを受けられないのが普通になっている。それを少しでも援助できる組織が必要だ」との一念でこれからも頑張るという。

 実際の事務所運営は農民の泣きながらの訴えが続き、もう支離滅裂になる程忙しい。それに対応する順番などは周囲の人が案配しないと、孫武勝氏は順番にかまわず熱心に聞き入るのでまとまりがつかない。
昼休み時間も農民からの訴えの電話がひっきりなしに続く。蕎麦を食べながら彼は2つや3つの電話に対応している。

05年彼は「出稼ぎ農民工の賃金保障法令」を書きそれを立法化するよう政府に送った。
 
 また市内に2万人程いる出稼ぎ農民の実態調査も実行中だ。現在9003件終わっている。
 これらは事務所に協力に来ている人達の入れ提案が大きいようだ。だが孫武勝自身が何が大切かを良くわきまえており、大企業を相手にすることに少しも弱気になっていないことで可能なのだろう。

 孫武勝は毛沢東の長征物語が好きだ。きっとそこには大勢を団結させた素敵なものが有るだろうという。また「3国演義」の弱者が強者に勝つ物語が好きだという。

 協力者の法学士によると、現在このような運動が石家庄、蘭州、等々に支店が出来つつあり、全国に広がる可能性もあるという。ただその運営費がまだ不足しているという。

 05年12月100名の農民工が政府の建物に来て「賃金払え」の横断幕を持ちデモをした。そして孫武勝の事務所にも来て応援して欲しいと依頼した。
 彼が政府に行き交渉が始まったが、その時当局と交渉する場で孫武勝が座り官吏達は立ったままだった。
 孫武勝は「私は身分が低いのに皆さんに立って貰って、ばつが悪かった」と言っている。

年末になると依頼件数が増える。そして農民の切実な訴えを聞いた彼はすぐに事務所を飛び出す。

 03年に市で成立した「不払い事件」で解決した金額は1.2億元、04年は3000万元、05年1600万元となった。

 彼は法律大学に呼ばれ講義したこともある。そして今年から農民相手の、文字を読める人を対象に「夜間法律学校」を始めるという。この実例はまだ中国全体でも初めてだ。

記者が事務所を去るとき、それは夜の9時だった。孫武勝が事務室内で夜食を食べている。彼の妻が都会へ出てきて病院に行く予定で近くまで来ているらしい。しかし彼からは何の連絡もなく妻からの不機嫌な電話が入っていた。
 彼は事務所のソファーで横になり明日の訴訟の資料を読み始めた。明日も又恐ろしい程の忙しい一日だろう。

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訳者注:
 中国にも確実に民主化の波が起こっていますね。しかもそれを起こすのが中国で最も虐げられている農民自身とは!
 当然と言うべきか驚きと言うべきか。

 1年間の活動成果の金額が「億元」を超える大きさにも驚きます。一人の、教育も充分でない農民が勉強を初めてここまでの社会的力を持つ、これはまさに英雄誕生ですね。

 WHOに加盟を目指す事を決めて、中国は法治国家を目指すと世界に宣言しました。(8年前)
 同時に中国に投資した外国企業が裁判に告訴を始める様になってきました。それまでは裁判官に、酒場の舞女や暴力分子や運転手などが登場し、裁判という機構が無意味な位置づけでしたが(02年でも)、02年には裁判官の国家試験制度も行われることになり、一応国際的に批判されない形を整えつつあります。(その国家試験に合格した人はまだほとんど居ないという記事もありました)
 ちょうどこの記事の主人公が法廷訴訟を始めた頃、中国の裁判制度が変わり始めるときと一致したのです。
 もしこのような民事訴訟が、もう少し前に可能なら、裁判に訴えて人権や社会的約束を守りたかった人が無数にいるでしょう。民事訴訟を「政治犯」の事件として党は逃げ込むかも知れませんが。
 国際化を選んだ中国は有る一面で民主主義の形を持たざるを得なくなっているのです。

 さらに”政府のたらい回し”は、これは社会主義の決定的特徴ですが、私の中国日記に書いたように、有る中国人の青年が親の転籍証明を貰うために役所を10カ所も回されたと言っていました。(1999年)