農 民 自 身 が 「 命 運 」 を 決 め る 権 利 を


06/03/09 南方週末  本紙特約評論員

 昨年大きく議論が沸き起こった「社会主義新農村」が、今年になって再び人民大会で熱く議論されたようだ。
 「生産の発展、生活に余裕を、農村に文明を、清潔に、地元政府の民主的管理」等が今後の目標として、その中心論点となった。

 いろいろな面から討論されたが、共通した問題点は「集団性」と言う所であろう。
 新社会主義農村、即ち「集団農業」「集団経済」を意味するのだろうか。
 
中国人なら誰も「集団」と言う言葉には敏感である。
 市場経済の”私有権”という言葉は、「公民は自由生産権を持ち」、「農民は誰かと共同や協力する時に、個々人の自由に任せられる」と言うことだ。
 市場経済を採用している地球上の全ての国家はそのことを前提に公有制をも認めている。

 如何なる市場経済の国家も、各個人の自主性に頼って公益への協力・賛同を求めてる。
 例えば、発達した国家は自主的な公益への寄付を集め、それを免税にして奨励している。
 公平な競争性を持った「集団経済」も、その成員の”自主性”で構成されているなら許されるだろう。 

 公益を名目に「集団経済」が自主性ではなく強制で個人の権利を制限するときには、それは許されるべきではないだろう。
 
 だがこれまでは集団経済が農民個人の自由を侵犯してきた。そこには真の良い意味の「集団的精神」等というものは生まれなかった。
 
 現在の中国では農村は崩壊しつつある。人々の気持ちが先ず離散している。
農民達の共同作業、連帯的生産が極めて欠乏しているのは、正に強制的集団化の反抗が原因しているのであろう。
 18人の農民が「血判書」に署名して出稼ぎに行った事件、これこそが「集団主義」が農村を崩壊させた典型的な事件だとして人々の心に刻まれている。
 国家による集団主義への強制が正に農民達を農地から逃げ出させたのだ。

  逃げ出した農民達は、20年後の今も協力して助け合っている。
 集団性から逃げ出し後、今彼等は集団的に生きているのだ。歴史の中の一つの遠回りか。
 彼等は生活の見通しのない中で束縛から逃れ、協力しあい自由の天地を求めた。

 もし彼等の逃亡とその後の努力が無れば、現在の”中国農村”はない。

 現在、南方の「南街村」の様な集団農業の成功例も彼等の逃亡が有ってこそ生まれたのだ。
 さらに言うなら、農民個人の権利・開放の土台を築き、中国全体に公民としての「公共意識」を発展させてきたのだ。

 勿論現在の各地の農村は、それぞれ全く異なった状況にある。生活を助け合う方式も多様だ。そして将来に向かう可能性・状況なども不確定だ。どこかで成功してもそのまま他の土地で成功するとは言えない。
 
 しかし如何なる農民も公民であること、彼等の将来は自分で決める権利のあること、その農業生産を発展させ、生活に余裕を持たせる権利のあること、他人が国家がその権利を取って代わることが出来ないこと、このことが大切だ。

 原始時代から、農民達の生活はいろいろな形の共同が存在した。その農民達の心を無視して他人が代わることは根本的に不可能なことだ。
 政府がサービスを提供することは必要だ。農民が各種のサービスを要求することも当然だ。それこそ政府の本来の役割だ。政府の方から「有る方式」を押しつけることは不可能なことなのだ。

 結論として言えるのは、「農業集団性」が農村を救うのではなく、農民の権利尊重が農村を救うのだ。つまり「集団性」が根本的に農村問題を解決する基本課題ではなく、「農民に民主を」が基本課題ではないか。
 
 現在国家の執行権を持つ人達が、「政府は農民に多くを与え、少し戻させる」ことだと言っている。確かにそれが重要かも知れない。

 具体的に言うなら経済的税制的に農業を優遇することであろう。しかしそれ以上に重要なのは農民の権利を認めることだ。
 農産物と土地への課税を下げることも大事だが、しかし実際には、これまでは納税額が少ないから、政治的発言は認めない方式で、これが農民の権利を奪ってきた。
 農民管理している地元政府は「政治成績を上げること」「上部への報告を良くすること」が中心であった。このことは最近では農民の土地を取り上げて納税の多い企業に売り渡すことが全国的に行われているが、このままでは農民の権利は守れない。
 新農村建設が健康な内容になることを願う。

  
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 訳者注:
 これまで中国語を訳してきた意義を感じるような記事です。
 まさに中国農民の心と問題点をズバリ指摘した記事です。

 20年前に「血判書」を書いて農地を捨て逃げ出した農民の状態を想像できますか。
 「血判書」の中身は、もし党に見つかって誰かが殺されたら、残った遺族を仲間で援助するという文章です。それに指を切って血で署名しました。
 仕事を変えるときに何故死を覚悟しなければならないのでしょうか。
 何故党は逃げ出した農民を殺して罰するのでしょうか。
 それが計画経済です。「社会主義」体制の根本です。国家が必要な生産を中央から指示命令する方式です。資本主義では不可能な無駄のない生産です。個々人の意見、生活の変化を考慮していては、全国的な計画的生産は不可能です。
 そのために農民の転居を禁じました。農民の権利無視だけでなく、都会でも人権を無視しました。建国直後から、生産は現状維持だけとなり、若い人を生産に受け入れることが出来なくなりました。
 職業選択の自由を無視して、人権を無視して、人として生きている意味が有るのでしょうか。仕事を変えると殺される、誰にも自主性が許されない、というのは全く恐ろしい「機械」のような社会です。

 ところがソ連ではこの制度を70年も続けました。ソ連の場合血判書を書いて逃亡する農民が出現しなくて、結局社会主義が倒壊するまで計画経済を続けました。
 中国に逃亡者が出た理由は、文革や大躍進政策や階級闘争というさらに国民を苦しめた国家的事件が30年も続いたからです。毛沢東が死ぬ頃(1977年)の中国は経済的に”国家消滅”寸前の状態で、特に農村の状態は悲惨でした。(今でも中国中西部の農村は人間社会と言えない状態です)
 つまり「血判書」を書いて現状を脱出するしか生きる道が無かったのです。
 そのために社会主義の独裁が続いてしまいましたが。

 現在人民大会で論じられているのは、この社会主義欠陥の根本に触れない綺麗事の言葉が列んでいます。
 ”農業生産の発展、生活の余裕、文化の向上、清潔な農村”、本当にこんな無責任な肝心な事を無視した議論が一つの「国家」で”真面目な形で”論じられているというのは馬鹿馬鹿しさを通り越して恐ろしいことです。
 しかしさすがここに投稿した人は問題の核心を書きました。
 ただ中国でこのような記事を書いて大丈夫なのか、それが気になります。