出稼ぎ農民の請負工事が語る悲劇の20年


06/01/26 南方週末 編集部

 出稼ぎ農民が都市で働くようになって20年が経つ。そこには悲喜こもごもの歴史がある。本紙が簡単に纏めてみた。

 1978年12月、それは党が第11全国大会を開催した年だが、安徽省鳳陽県の農民達が血判書を書いて都市へ出稼ぎに出かけた。
 
      訳注:もし党に見つかれば仲間同士
          助け合うという血判書。

 それまでは計画経済で、「命令された仕事以外をすることは資本主義的腐敗分子」と言う思想が濃厚に残っていて、農民の都市への流出は厳格に禁止されていた。その掟を破って都会へ働きに出たのである。

 だがこの動きは既に全国に萌芽のように表面化しつつあったのだ。彼等は都会で土方や工場の衛生掃除、道路工事等に雇われたり、纏めて仕事を請け負ったりした。この請負を「包工」と呼んでいる。
 彼等は勿論都会では最下層として扱われた。農民の請負主、「包工頭」が取得金をくすね、農民の間で喧嘩になることも有ったが、多くは企業(単位)や仕事を提供する側が払う段になって額を下げたり支払いを止めたりした。
 農民達が契約の金額をもらえないとき、対抗手段として自殺などが行われた。

 1979年の農村作業は完全に計画経済で、ただ1%だけが請負制度(自主生産)であったが、4年後の1983年には98%に急速全面的に変化した。
 この変化が農民の生活を開放した。農村の若者は都会に憧れた。そして当時の日給は2元というわずかな収入であったが都会へ突進した。勿論年長者は墓守が居なくなるとして必死に反対した。
 
 仕方なく党は1985年7月、農民の流動人口に対し「暫定的居住証」「仮居住証」を発行して管理しようとした。1枚の登録料は250元という高額だったが、当時出稼ぎ農民達が登録用写真を撮るために写真館に列をなす光景が見られた。当時の出稼ぎ農民の1ヶ月の生活費は30元程度であった。
 
登小平が1992年「南方巡行」して以来、工業も自主生産が認められ産業が大発展する展開となり、何処の都市でも人手が足りなくなった。
 「中国全体では広東省に行けば必ず儲かる」と言う”合い言葉”が生まれた。
 
 1993年から95年にかけて毎年の国内総生産は10%を超している。国家統計局が、市場物価が高騰していること、農民の都市流入が爆発的であること、彼等の多くは建設業に従事していること等を発表している。
 当時既に正月の帰省切符を買うためには3日前から列ぶのが普通となっている。 

 請負頭が供職側の信頼を得、多くの農民を手配し、服装が立派になった人もいる。
 90年代中頃から彼等請負頭が企業体を為し、不払いに対処する積み立てを行っている例もある。

 彼等請負頭達の生活は一般農民達と寝食を共にするという風習は厳然として残っているようだ。

 10年まえから、出稼ぎ農民の数が供職側よりも多くなりだした。それを見た建設業などの供職側の賃金不払いが露骨になってきた。
 21世紀になって、政府は「西部大開発政策」を発表し、大陸内部での建設業が雨後の筍のように盛んになった。しかし西部でも契約金不払いの現象は改善されていない。

 西部地方の新聞に、不払いを巡って農民同士の喧嘩や、或いは建設業へのデモ行進などが新聞に載るようになっている。特に正月前が多い。
 有る事件では農民が不払い社長を捜し出して殴り合いになった事件もある。また同じような例で農民が逃げた社長を斬り殺した事件もあった。

 03年10月24日、重慶市で農民工の「熊徳明」という人が不払い事件を温家宝総理に直訴した事件が報道され、このことで政府は農民問題に関心を持っていると評価された。
 それというのは政府が「工傷保険制度」を発布したからだ。

 05年末、「農民が都会へ出る制限、都会で市民と同等の権利を認めること」の討議が行われた。最も注目に値するのは「不法滞在農民を農村へ引き戻す制度」の廃止までが討論された。  
 陜西省で昨年一人の請負頭が爆弾を抱いて不払い企業主と強制心中を図り、また他の一人は屋上から飛び降り自殺をした。
 
 このような事件を見ると、別掲載記事の農民工が裁判で争う方式は社会の穏当に大きく役立っている。


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訳者注:

 この記事は中国社会主義の変化の本質を描いた貴重なものです。

 毛沢東の死ぬまでの30年間は「計画経済」で、農業も工業も国民の生活も裁判も全て党が前面に立って指導しました。党は「前衛」と言われました。
 これが「社会主義の優越性」と言われ、資本主義の無政府的経済の欠点を根本的に改善したとされました。北京から命令書を受け取った農業の経験のない党員が農村へ行き生産指示と監督をしました。
 結果は国家全体が死の直前まで行き、崩壊寸前でした。
 そこで先ず農民達が「血判書」を書いて党に隠れて開墾したり、ここにあるように都会へ働きに出ました。(農民が血判書を作って開墾したことはNHKが報道しました)

 当然全ての前面にいた党が農業に関しては少し後ろへ後退して農民が自主的に生産に参加し農民達の生活は大きく改善されました。配給制だけの社会に自由市場を農民達が開き、農産物を売るようになりました。
 そして農業の自主的生産(請負制)で、1980年代中頃には農民が豊かになり南方では「万元戸」が登場しました。
 中国に日本やアメリカなどのニュースが入ってくるようになり、外国と中国のあまりにも違う生活レベルの落差に愕然とした「登小平」が1992年深セン(土偏に川)に行くと生活関連物質までが配給制ではなく商品として計画経済では考えられない程大量に「市場」で売られており、またそれらを作り流通させている人達が能動的に生産流通に参加しているのを見て、「南方講話」を発表しました。「豊かに成れる者から豊かになろう」と言う言葉です。つまり工業・商業でも党が前面から後退したのです。

 そうすると90年代半ば、国民総生産が20%近い数字で発展し、中国としての国際的評価が見直されるようになりましたが、中国政府が農業に投資しなかったこともあって農業の発展は工業には追いつけず、物価は都市の生活で決まるようになり、相対的に農民の貧困が生まれます。
 建国後、この大きな中国社会の停滞と混乱を作ったのは党という「前衛」の存在です。それを肯定する思想です。
 逆に国家の経済的発展をもたらしたのは、国民の自主的生産の参加です。
 
 この構造的激変はキューバでも同じです。
 90年になると、ソ連が崩壊しキューバへの支援が無くなって「キューバ危機」が始まりましたが、94年に土地の自由化を発表すると、すぐにあの社会主義の特徴であった「配給制」と物資不足が解決されたのです。
 以上は経済面からだけの歴史回顧ですが、実際生活でも激変が起こっています。

 建国後の30年間は、例えば「ワイルドスワン」「大地」「芙蓉鎮」など、どの小説を見ても全編に庶民の悲惨さが溢れています。全ての人が人権を無視されています。この時代の小説を読んで泣かない人はいないでしょう。
 しかし党の指導が後退すると、人々が前面に出てきて、社会全体が明るくなってきたのは事実でしょう。勿論国家的構造は変わっていませんが。
 人口の圧倒的多数を占める農民が何時になったら社会の主人公になれるのでしょうか。