農業政策の東南アジアの経験


南方週末 06/03/09 楊団

現在、党の全国大会で社会主義農村建設の重要な議題が討論されている。
 この時、単に農業の収穫発展の面からだけではなく、個人と家庭などの生活体系を重視することが求められているだろう。

 このことは西洋とは全く違った観点から農業を見つめることが必要ではないか。
 具体的に言うなら”韓国の新しい村運動”、”日本の農業協同組合”、”台湾の農業協会”などそれぞれ百年以上の歴史の成功例を参考にするべきである。
 それらは一つの共通点を持っている。即ち政府が農民組織の法律を作り、政府と農民が一帯となり、小作農などをもその中に包み農業の現代化を達成している。

  この3国の農業政策はそれぞれ特徴を持っている。だが各国とも農業社会が工業化社会へと変化する過程で農民組織が上手く社会の変動に合わせて発展したものだ。

 19世紀後半、西洋の国々は産業組合法を作り、農業・漁業の産業組合法を制定した。
 1900年日本はドイツを真似て産業組合法を制定した。1910年産業組合中央会が出来、海外へ研修に行った若者が帰国後村を回り農民組合の基本組織形成に力を出した。1940年、2000以上の市町村で15000の農業法人が出来た。そこには165の医院が設立され、300以上の診療所も出来た。これらは農協の支援による。
 
 1947年、日本政府は農業組合法を制定、全国組織の農業連合会も成立。1952年及び62年、「農協財政処理法」「農協助成法」も出来た。
 韓国は日本の組織を参考に法律制定された。

 日本・韓国・台湾は共に農民組織という共通面があり、農業と農民と農村とが整合的に運営される方式を選んだ。

以下にその実例を見てみる。

 日本の法律では農業は村・個人とも免税されていて、金銭貸借・信用制度・運送・加工・貯蔵・小売り組合・農業水利設備・農村内工業・養老組合保険・健康組合保険・老人福祉・教育文化青年事業などをその農協が事業化した。

 
台湾の農協も日本とほぼ同じだ。
 1.農業生産 2.金融 3.販売 4.農村文化、医療衛生、老人福祉 等を経営している。
 日本韓国台湾共に政府の支援を受けている。

 農協の全国と各地域との関係は平等とされ、上部組織も指導者ではなく、下部組織の要求を第一とする。
 例えば日本の農協は、個人の参加者で構成される基本組織と、県単位の組織と、全国連合会がある。中央は地方へ情報提供、教育、現状把握、事業支援、各地の意見を集める、等とされている。
農協中央会は全国の農業支援の観点から政策立案も行い、農協の普及、人材育成、等も行う。
 農協には観光連合会や農業新聞発行、出版事業もある。
 
 2000年、日本の各地の基本組織は4525有り、都道府県には354の組織があり、正式組合員は5、249、499人で準組合員は3,859,097人いる。
 理事は19301人、幹事は5115人だ。

台湾では郷鎮・市・省と3層に構成され、それぞれ独立邦人で、相互に協力する。 2000年の構成は、304の地方組織、40の漁業会があり、正式会員は1、029、162人、賛助会員8079人。農業組織服事者は21、622人。農漁業服事者は約500万人、関連事業者も入れると約1000万人となる。
 
  訳注:現在の台湾の人口は約2000万人。


 日本の法律では農業関係者以外は農村での農業経営に参加できない。しかしこれは2001年の農地法改正で変更された。
 つまり1900年から2000年までの日本の農業は農民自身の手によって運営されてきたのだ。

 日本で6667個有る農業組合法人は非営利組織で免税とされている。
 非営利組織とは、学校や医院などの公益法人と、農協のような中間法人とがある。
 1999年、日本は農業発展と食品安全を図って農業基本法が改正され、また01年にも再改正されている。これは農地を資本として経営することが含まれた。
 現在日本には営利扱いの農業法人は5889個ある。勿論非営利扱いの農協とは比較しようもなく小さい。

日本はこの50年間工業社会に向けて発展してきた。最近の25年間に農業人口は4%にまで下がった。韓国も台湾もこの30年間工業化に向けて成長を続けていて、その人口は3%前後である。
 地球全体が経済発展をしてきたこの50年だが、特にこの上記3国は政府の保護が成功した特例ではないだろうか。

 その成功から学ぶものは、1に系統化された農協組織、2に農民の自主管理能力を高めたこと、3に農協という巨大な公共財産を形成してきたこと、これらであろう。
 
 2003年、日本の農協総資産は84.74兆円(医療施設を覗く)。
 台湾では、1982年から01年の20年間に事業利益総額は1079億元(中国元)。01年の総資産は14,400億台湾元。 

これらの巨大な資産を使って日本では技術推進、農民教育、養老保険制度、医療制度、等を経営している。
 台湾では事業利益の62%を農業支援に使い、農村文化や福利施設に使用している。また5%を公益金として積み立てている。この20年間に700億元(中国元)を農業支援に使っている。
 農協の巨大な資産故にそこで働く職場も大きく、日本の農協職員は30万人以上、台湾では21622人居る。

 
 1970年韓国の”新農村運動”が始まり、政府がコンクリートと鉄筋などの財政支援を始め、農民自身が家屋建築、道路・水事業建設等を行ってきた。

 日本では政府予算の中に農協への定額補助を法律化している。地方政府も公益事業と見なされる部分に補助を出している。
 03年、中央・地方政府の農協に対する支援資金は2兆円で、農協投資の10ないし20%となっている。
 農協は巨大な資産所有者で、一つの大きな非営利企業だと言われている。

 日韓台湾の農民組織は法律に守られ農民の経済的社会的地位を高めてきた。工業化への転換期に農業の縮小を迎える中で、農業の現代化を進め、小農家を基本単位とした農村を維持発展させてきた。
 農民自身の組織を主として、政府の支援があり、農産物の市場交換などの場での地位をも高め、経済的社会的地位を守ってきた。その成功度は計り知れない。

 さて中国の新しい農村建設は、上記の3国の成功を大いに学ぶことが必要ではないか。特に小農が社会構成の中心となっている点、それで現代化が可能であること、ここに注目すべきではないか。

 (作者は中国社会科学院社会学研究所員)


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訳者注:
 日本の農業が社会主義国家から見たら素晴らしい成功例として憧れの目で見られています。
 私は都会育ちで、農村のことは解りませんが、でも2000年の1年半の中国生活で日本の農業やお米の話になると中国人達が目を輝かして聞いたことを思い出します。
 それは中国の社会主義政策があまりにも農民や農業を無視してきたからでしょう。
 中国の農家屋が内装外装無しの煉瓦積みで、それから見ると日本の農家は正に芸術品だと私の友達が言いました。
 
 中国政府が単に農民を無視したことが現在の中国農業の悲惨な状態の根本原因かというと、そうではありません。
 やはり中国には社会主義としての農業政策がありました。それが北京の「中央計画経済局」が全国の農業を計画指導するという政策です。
 建国直後の農民の生活は現在では映画や小説で見ることが出来ますが、日本人から見たら正に”地獄”そのものでした。
 毎日が監獄です。常に、党が管理し命令する日々で、農民の自主性など考慮していたら全国的観点から生産できないとされ、”農民の自主性”と言う言葉が存在しなかったのです。都市へ逃げることも禁じました。
 しかし当時はその社会主義的計画経済が資本主義よりも進んでいるとマルクス経済学者は信じていました。(建国直後の3年間程。すぐに若者の就職先がないことが解り疑問視されます)
 
 日本には、確かに明治の初めから(ドイツを真似て)農協組織が有りました。農民組合運動を通じて議会にも代表を送ったりしています。この点は中国では農民の自主組織が許されなかったので、日本の方が進んでいました。しかし日本の農業には「土地を持たない」農民が大量にいて、戦前の農村はあまり近代的と言えなかったと思います。
 戦前、出身地が東北の人は故郷に対し強い羞恥心を持っていました。それは娘を東京や大阪に売って命を繋ぐことが頻繁に行われていたからです。
 日本農業が近代化されたのは、戦後米軍が行った「農地解放」によると思います。
 自分の土地を持って初めて生活の向上があり得ます。(米軍がその後も日本にいることはまた別の問題です)

 中国の場合は、農民は自分の土地を「毎年の請負契約」で借ります。年を取っても契約分を稼がなければ土地を借りることが出来ません。そのために男の跡取りが必要になります。
 中国には農業保護という基本政策と基本的人権の法律がないこともあって、地方政府幹部は農民に土地を貸すより、企業に貸した方が「自分の成績が上がる」ときは、農民から簡単に土地を取り上げます。

 中国政府は「農民を大切にする約束で政権を取った」と書いた日本の書物があります。それは中国政府を美化する表現です。
 「農村から都市を包囲して中国を開放する」が政策名でした。
 国民党が日本の侵略と闘っているとき、共産党は戦争を避け、鉄道のない地域、国民党さえ支配できない村落を支配し兵士を集めました。彭徳懐が日本軍と闘った時、毛沢東にきつく叱責されています。
 ソ連は国民党の下で日本と闘えと指令しました。しかし中国の党は国民党が終局の敵であり、日本と国民党とが共に消耗することを期待し、「日本軍が来たら逃げ、日本軍が逃げたら追いかけて物資を奪う」が戦略でした。建国前も建国後も農業保護の政策はありません。 毛沢東自身農業や農民を嫌って家出しています。

 しかしこの記事は社会主義国家の新聞としては異例の事実を記しています。この数年中国の報道機関は事実を記すようになってきたその先頭にこの南方週末が立っています。
 そのお陰でかっては何千万部の出版を記録した「人民日報」を誰も読まなくなりました。