中国人の命は価値が違うのか


06/03/30 南方週末 盛大林

 北京理工大学教授胡星闘氏と李方平弁護士は最高人民法院へ農民差別の撤廃を求める訴えを起こした。
 現在の中国の「道路交通事故処理案」という法律では被害者の身分(農民か市民か)の平均収入で補償額が決まる。
 つまり同じ中国人であっても住むところ、身分によって「生命の価値」が違うのだ。
 最高法院は現在この中身を検討中と発表している。

 この数年”命の差別”を撤廃する希望は次第に強くなりつつある。そしてついに上記2人はこれら大衆の要求を代弁して訴えを起こした。
 近い将来中国人の命は誰も同じ価値になるかも知れない。

 交通事故の弁償額が市民か農民かで価値が違うことは公平と言えるだろうか。この疑問は既に全社会共通のものとなっているのではないか。

 確かに都市と農村ではその経済的社会的発展度に大きな差が出ている。都市での必要生活費は農村に比べると相当高い。従って同じ車での事故にあったとき、補償額が同じでは逆に不公平かも知れない。 
 そこで年平均の収入額を元に補償するというのは一つの法律的思考かも知れない。
 中国では都市での平均的収入と農民の実際の個人の収入が基準とされてきた。こうして2つの基準が適用されてきた。
 車を運転する側では、相手が農民か市民かの身分で支払額が異なるのだ。これを運転手の間では「中国の国情」と呼んでいる。
 
 しかしこれまで中国では全国平均の国民の収入額は公表されたことがない。
 恐らく都市の平均的収入と農民の平均的収入では大きな開きがあるだろう。

 この法律が出来た頃、当時の両者の平均的収入によって補償額が決められた。その後、時代の変化に対応した額の見直しは全くされていない。当時から見れば農村と都市の格差は広まるばかりだ。都市の医療保障と農村の合同医療費も大きな開きがあり、また、都市には養老保険や失業保険があるが農村には無い。このように両者の差は開くばかりだ。
 同じ命に補償額が違うのは「不公平」だ。かといって同じ補償額でも「不公平」だ。
 ではこの矛盾を如何に解決するか。
 問題の根本解決はただ一つのみだ。市民と農民の差別を無くすこと、これのみだろう。


 このことは現在の農民を固定している「戸籍」を改革し、「中国人」として遇することだ。
 現在党大会では「新型社会主義農村建設」が高らかに謳われている。筆者の感ずるところ、その終局は「一つの命は誰も同じ価値」を目指すことだろう。

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 訳者注: 
 建国時(1949年)は都市も農村も経済的格差はあまり無かった。改革開放後(1982年)は計画経済の上からの命令が無くなって自主的生産が始まり、都市では大きく発展の時代を迎えた。
 1980年代に各種法律が制定された。その時期はちょうど都市・農村の格差が広がった時だ。しかし中国には両者の矛盾や差別を訴える機構がないので、中国人は我慢するしかなかった。(社会的矛盾は裁判所などで権利主張することで解決するのではなく、党組織が国民を上から救済するという発想だった)
 ついには最近の都市部で、都市に不法滞在する農民達(出稼ぎ農民)とその家族が交通事故に出会う事故が多発するようになってきた。
 同じ都市に住み、同じ学校に通っている学生が同じバスに乗っていて事故に会い、補償額が倍以上も違うことに農民としては疑問が湧く。
 そしてもっと根本的な問題は、農民に生まれれば、その子は農民の戸籍しか得られない。(公安に金銭を摘めば変更可能)
 つまり、年間平均的収入の差は表向きの理由で、実際は身分の差で補償が変わることです。

 このことが外国に広く報道されるようになってきた。世界の中で人権無視する中国という印象は現在極めて強い。
 このままでは台湾を強制収容することに国際世論は見方に出来ない。
 人権無視をする国家で学者達は何もしないで、学術の世界大会には紳士然として出席するその状態が、世界の理解を得ることを困難にしている。
 この様な世界の圧力がこの学者と弁護士を動かしているのでしょう。