梁山伯と祝英台






 昔、”祝”という名の地主が居ました。人は彼のことを祝員外と呼んでいました。彼の娘”祝英台”(チュ・インタイ)は美しく優しく、さらに聡明で学門が好きでした。しかし昔は女性が学校へ行くことは出来なかったので、彼女は毎日窓際に立ち、外を通る若者が学校へ行き来するのを恨めしく眺めていました。本当に羨ましく諦めきれない気持ちでした。「どうして女性は刺繍や花飾りだけしかできないのでしょうか。どうして学校へ行けないのでしょうか。どうして私は学校へ行けないのでしょうか」

 そのことを何回も考えている内、彼女は思いきって両親の所へ行き打ち明けました。
「お願いです。私は男装して絶対誰にも解らないようにします。是非学校へ行かせてください。良いでしょう」とせがみました。
しかし両親は直ぐには良い返事をくれません。しかし何度もせがまれる内、遂に両親は娘の要求に屈することになりました。

 翌日早朝、祝は長い髪を切り男装して父母と別れ教科書類を持って学校のある杭州へ行きました。
 学校で娘は”梁山伯”という男子学生に出会いました。人格や成績が優秀でした。
彼女は「この人と一緒にいればきっと多くのことを学べるでしょう。しかも気持ちも明るくなるわ」とその出会いをうれしく思いました。梁山伯の方も祝が良い友達だと感じていました。毎日学業について談論し、2人はますます意気投合するようになりました。毎日2人は肩を並べて過ごすようになりました。兄弟の契りも結びました。
 
 この様な状態の3年間があっという間に過ぎて行きました。卒業の時が来ました。先生に別れを告げ、荷物を持って2人は帰郷することになりました。
 蝋燭の光で遅くまで語り合った2人。別れの時には祝はもう既に梁を兄として以上の愛を感じるようになっていました。梁の方は祝が女性であることを知らなかったけれど、しかし祝のことを離れがたく思っていました。
 でも仕方なく別れる時が来ました。帰郷後も2人はお互いのことが頭から離れない日々が続きました。数ヶ月して梁は決心して祝の家に会いに行きました。そこで彼は祝が学校で見た男性ではなく、女として娘として美しく化粧しているのを見たのです。
 しかしそのことを知って梁は自分の気持ちが異性に対するものであったことをハッキリと自覚したのです。
 帰宅した梁は人を使わして祝を嫁に欲しいと申し入れをしました。しかしその時すでに祝の両親は娘を梁よりももっとお金持ちの青年に嫁がせる約束をしていました。
 それを知った梁は生きる希望を失って病気となり、やがてあの世へ行ってしまいました。
 
 梁が亡くなったことを知った祝は、それまで両親が決めた婚約に反対していたのに、突然黙り込み、やがて紅の婚姻衣装を自ら着て「花籠」に乗り込みました。
 花籠は銅鑼や太鼓を叩いて婿の家へ向かいます。その籠が梁の墓に着たとき、疾風が起こり砂利が飛び交い、仕方なく籠が立ち止まりました。回りの人達が止める間もなく、祝は籠を出ると紅い衣装を脱ぎ棄て、ゆっくりと墓に近づきます。墓の前で祝は座り込み大声で泣きます。風雨が猛烈に吹きすさび、雷が轟き、「どかん」と言う大きな音と共に墓が2つに割れました。
 そこにまるで梁が待っているかのように祝は笑顔で近づき、割れて大きな窪みが出来た墓の中へ身を躍り込んだのです。するとまた大きな音がして墓が元通りに戻りました。

 やがて風雨が収まり周囲は静かになりました。辺りの花々もかすかに揺れているだけでした。墓の中から一対の蝶が飛び出し太陽の光を浴びながら並んで飛び交っているのが見えました。


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訳者注:
 これは中国全体に伝わる有名な民話です。「胡蝶」或いはこの題名「梁山伯と祝英台」の曲が街に流れています。

 次は、南方週末(06/09/14)「越劇の100年」からです。

100年前の杭州で老人の誕生祝いの歌を8日間歌い続ける習慣から現在の「越劇」と言われるものが誕生した。
 1949年代に上海に伝わり大発展、やがて劇演目に「梁山泊と祝英台」、「紅楼夢」「西廂紀」など人気有るものが出揃い、現在では中国全体に「越劇」として広がり京劇に次いで中国では有名である。
 今年の3月浙江省”小百花越劇団”は、日本の谷崎潤一郎の「春琴抄」を題目に取り上げている。
 越劇は「田の歌と踊り」が発展したと言われている。浙江省の剰洲という越劇発生と見られる地方では冠婚葬祭の時には今でも盛んに行われている。剰洲市の工商局に登録された越劇団が115あり、30人から50人くらいの組織である。
 市の人口は70万人で、4千人程の越劇団を養っている事になる。
越劇は本来女子のみで演出されてきた。日本の「春琴抄」が演じられたときは観劇の人達は日本から宝塚歌劇団が来たと思ったかも知れない。
 1966年の文革が始まると、江青の一声で「資産階級」のレッテルが貼られ、一時影を潜めた。
以下略

 と記されています。