万里同志はこんな人だった


06/05/18 南方週末 田紀雲





 彼はこんな人だった。1981年中央政治局委員の書記局員、1988年人民大会常務委員会委員長。

 そして一番の特記すべきことを以下に述べよう。

 文革の「4人組」が打倒されて万里同志は農業最大規模の安徽省の第一書記となって農業指導に配置された。そこはかって「極左」が巣くっていたところで、農業は大きな破壊を受け、農民達は毎日の食べる米がなかった。そのことを現地に着いて直ぐ徹底的に調査し深刻な状態を理解した。
 彼は「1977年6月、私が任地の安徽省へ行くと、安徽省は農業大国なのに極左によって大きな破壊工作を受け”農業は大寨に学ぼう”と言う運動を起こし、実際の農作業が行われなくなっていた。
 私が現地に着いたのは祖国開放(1949年)後から数十年も経っているのに農民の生活は全く極貧そのもので、まともに目を向けることさえ出来ないような生活レベルだった」と言っている。
 (1998年4月30日 中国経済時報)
 
 その安徽省で隠れて”自主生産”が行われていることを聞き知り、直ぐにそこを見学することにした。当時は”自主生産”のことを口にすることさえ批判され誰も態度を濁していたときだ。

 そして山南という土地でその試験的耕作を始めた。それは農民に土地を請負で与え、生産を党が指令すること無しに自主的に任せた。
 その結果はそれまでの計画経済では見られない大きな収穫を得た。
 農民達は自分達が食べることが出来る米を手にしたのだ。次の1979年には省全体で”請負自主生産”が採用され、当地で干害等の自然災害が発生したが、土地を任された農民達の意欲が強く、以前より増産の結果を生んだ。
 当時の省の幹部が言い残している。「万里は数千万人に米を与え、さらに国家に税金を納めることを可能にした。かれは国家に大きな恵みをもたらした」と。

 そしてこのことが全国に伝わった。
農民達は早速その制度を受け入れ、末端の党幹部も黙認した。
 請負制は田を個人に分配することになる。社会主義中国で土地を個人に請け負わせた最初の人が万里だ。
 1980年の上級会議で万里は説明した。「田は個人に任せられたが、しかし生産全体と土地そのものは国家の所有であることに変わりはない。”生産隊”という名称は状況によって調整すれば良い」と述べている。
 この制度はその後四川省、内モンゴル、河南省、貴州などへと広がっていった。
 1982年4月2日、ト小平同志は万里と会談し、安徽省の成果を賞賛した。さらに、別の会議でも「1年でかくも大きな農業収入が挙げられた例はない」と絶賛した。

 だが当時まだ国家の上級幹部達は”自主生産”に強く反対していた。
 1980年4月に万里が国家農業委員会主任に任命されると、彼は各部門の党幹部を農業の現場に送り現地見聞をさせた。その結果農民達は”自主生産”を歓迎しており、地方幹部も賛成に回り、大きな増産の事実を目にし、意見を変えざるを得なかった。

 その結果を受けて万里は党農業部門拡大会議を開き情勢を報告し、”極左”を排除すること無しに農業の出直しはあり得ないことを説明した。
 こうして”請負による家庭単位の自主生産”が全国規模で始まった。  

 この時の党農業委員会の第1号指令は次のように書かれている。

「今回の農業改革は正に奇跡的な農業発展をもたらした。8億の中国農民は人民公社の桎梏から開放された。生産自主権を農民が得、農業生産は増大し、農民達が満足して食べることが出来るようになった」

そこに見られる基本原則は何か

 1986年7月、万里は次のような報告を発表した。
「政策の基本に民主化と科学が絶対必要だ」

 この原稿は党内外に強烈な反対や議論を巻き起こした。
 彼は言っている。
「建国後の政策には”民主化と科学”が重要視されなかった。そのような党の伝統的態度が大きな病巣として党に蔓延している。
 違う言葉で言えば、指導者に権力が集中しすぎている。政策が非科学的で不健全である。政治改革が最重要視されている局面でありながら、民主主義が無視され、科学性が欠陥している。
 そのような基本的なものが有ってこそ、”百家争鳴や””百花斉放”が出来る。
 これまでの党運営は”意見の反対”即ち反党、反革命と見なされた。
 百家・百花、この表現はあらゆる意見を受け容れることを意味している。実際はその反対を歩いてきた。政策の決定前にはあらゆる意見を出し尽くしそして民主化、科学性で確認すべきだった。
  

”争鳴”とは指導者一人が叫ぶことではない。それは”独鳴”と呼ぶべきだ。そこに民主が有っただろうか。
中国の憲法には”表現の自由”が書かれている。しかし実際は国民に発言の自由は無かった。言論の自由は無かった。10億の民の大国が只指導者の言うことにだけ従う、その言行に従わない人を問題有りとして拘束する、これが大国と言えただろうか。
 指導者は国民の意見発表の民主的権利を充分に尊重すべきだ。
 誰もが違う意見を発言することが可能にすべきだ。
 これまでは「言葉を表に出す者は警戒する必要がない」「黙って聞く者は警戒すべきだ」と言われてきた。
 しかし本来は「発言する者には評価を与え、聞いている者には成果を与える」と言う変えるべきだ。


 1998年4月、万里は第7回人民大会委員長に選ばれた。そこで彼は「今回の私の任務は改革を推し進めること、民主化を徹底すること、法制度のある国家、それに基づいた実務、それらの実現に全力を出したい」と述べた。
彼は腐敗の問題にも大きな関心を持っており、監察や司法の充実が不可欠だという考えだった。最終的には国民の審判が必要だという考えを持っていたようだが、それは各種の原因で表面に出なかった。
 ”請負形態の自主生産”は市場経済と共に1993年に憲法に記された。

以下は略
 党内で若手を如何に育てるかの内容

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訳者注:
 私はこの記事を訳してきて涙が出てきました。中国社会主義にもこのようなまともな人が居たのだと思って。しかも党の上級に。勿論文革以降ですが。
 チャップリンの「我が闘争」では一般の国民がヒットラーと間違えられて演説する場面があります。
 その演説は独裁に反対し民主化を要求することを全世界に宣言する内容で、映画を見る人に感動を与えました。
 この記事もそのような世界に宣言する価値のある内容ではないでしょうか。

 新中国建国直後のあの一面恐怖の地獄のような社会。そこには発言の自由は全くありませんでした。そして選ばれた計画経済。
 農作業も全てが党に指導され管理されました。毎年毛沢東は政治指令を出し「百家争鳴、百花斉放」を唱え、それに呼応して発言した人の意見の中に「反党または反革命」的意見があるとして逮捕し、毎回数十万人が労働改造処に入れられました。(百万人を超えたこともある)

 中国の政治指導も計画経済もそこには国民の尊重が欠落しています。科学性もありません。当然生産高は建国後30年間は増えていません。
 これまで訳してきた記事の中で、発電所の大量建設とか台風対策とか地震対策などを見れば如何に中国が非科学的・非民主的な国家であったかが判ります。
 
 ”請負形式の自主生産”つまり農民の自主性に任せて生産することですが、
中国建国の思想は”計画経済こそ資本主義に勝る”と言う内容で、個人の自主性に任せればそれは資本主義生産で最終的には生産過剰となって恐慌を迎える、というものです。
 建国直後の30年間はマルクス主義全盛で、自主性や個人の努力は無視されていました。全ては計画経済万能でした。
 逆に自主性を発言するだけで反革命でした。
 
マルクス主義の嘘を見破ったのは学者ではなく、この記事の万里氏でもなく、中国の農民です。それも幾つか訳してきました。
 そして正に膨大な国民が、世界大戦の犠牲者を超える数の中国人が抹殺されました。

 ただこの記事には”自主生産”が新しく見つけ出された方式のように書かれていますが、それは人類史が始まって以来数千年と続いてきた方式で、別に新しいものではありません。
 それはこの万里氏が党員だから歴史を普通に見ることが出来ないからでしょう。
    
 さらに、社会主義である限り、土地は国家のものという位置づけなので、農民は歳を取って働けなくなれば、土地を取り上げられるので、これは正に悲惨な状態になります。現実は男の子を養う方法で老後を考えていますが。