ビ ッ ク リ し た 事 件


05/02/02 南方週末 張英

 05/01/15日、新華社の報道によると、一人の男性が指を切断して金を要求し6ヶ月の拘置刑になった。この事件が報道されると被害者、張賢亮さんの電話は報道関係から毎日鳴りっぱなしに採訪の申し込みが来た。だが彼は友人と相談の上、当記者に全てを話してくれた。
 採訪の申し込みはアメリカからも来た、と言う。

 04年8月17日早朝、張さんがベッドで目が覚めると彼の横に一人の男が寝ていた。驚いて彼を起こし、まず彼を外へ連れだし、そこで話を聞いた。
 彼は農民で都会へ出稼ぎに来たが、良い仕事にありつけない。今更手ぶらで帰れなくなって、張さんに20万元を借りようとした、と言う。
 そして近くのトイレに行って、指を切断し、血を滴らせながら、「この切断した指に誓って、私は必ずお金を返すから20万元貸して欲しい」と頼み込んだ。張さんは驚いて、地面にしたたる血を見、すぐに近くの病院へ連れて行った。やがて公安の知るところとなって、農民は逮捕された。大金の恐喝罪であるが、他人を傷害する気がなかったことが証明されて軽犯罪として、6ヶ月の拘留刑となった。

 後で聞くと、農民は市内をふらつく内に張さんの家に入り、張さんの起きるのを待っていたが、なかなか起きないので、その内に一緒のベッドに入ったという。
 張さんは刃物を持った農民と一緒に6時間ほど同じベッドに寝ていたことになる。

張さんは思い出すだけでもぞっとすると、記者に話してくれた。

張賢亮 の紹介(概略)

 1950年代、中学生の頃から文学創作を始めた。55年寧夏の文化教員となる。57年「反右派闘争」が始まり、彼の作品「大風歌」が右派として糾弾され、右派分子となる。銀川市郊外の農場に送られ「労働改造処分」を受ける。22年が経過して、79年名誉回復。

 作家を続ける傍ら、92年の「登小平」提唱の産業奨励運動の中で、彼の海外での著作権を資金に映画街を起こし成功。これは寧夏の名所の一つとなっている。
 現代中国の重要作家の一人。代表作は「霊と肉」「刑老漢と犬」「緑化樹」「男性の半分は女」「死亡習慣」「私の菩提樹」等長編が多い。
「紅高梁」は映画化されてベルリン映画祭で表象され、中国の映画界では張芸謀と共に世界に名高くなった。
彼の作品には文革を描いたものが多い。その理由を「それは私の運命を決定づけたからです。私の人生のもっとも大切な部分、青春の全てがそこで費やされました。
 文革が人々に与えた傷害は、文革が終わっても決して簡単には人々の心からは消えません。当人があの重苦しい記憶を消したくてもです、不可能でしょう。
 私は右派の帽子をかぶせられて、見渡す限り誰も居ない荒野の中を塩を買いに行かされました。その時偶然思いついたのが、この何もない荒野のような世界の中から人類は誕生してきたということでした。その考えが私を奮い立たせたのです。

 70年代から80年代に掛けて、この20年間に果たした文学の役割は大変大きかった。政治的には抑圧された文学だが、しかし聡明な人達は文学に活路を求めていた。文学が静かに思想の解放を促していた。
 当時中国は正に国家総体が崩壊の際にいた。それを小説によって、文学は中国救済の大きな役割を果たしたと思います。その先鋒にたまたま私は一人の文学者として存在できた」と言う。
現在69歳。


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訳者注:新中国の建国は49年。文革は  66年から76年まで。毛沢東の死は77年。建国直後から毛沢東は毎年階級闘争を発令。洞窟から虎を追い出そう、百家争鳴、大躍進政策、等々。

 建国後免罪を受けた党幹部だけで40万人、それ以外にこの人のような例を加えたら数千万人が免罪を受けていたことになる。
 当時の人口は6億少し、つまり1割弱が国家の名前で罪にさせられていた。逆に言えば「階級闘争」では誰でも国家の敵になると言うことでしょう。
 そして20数年自由が奪われた。命を奪われた人も数知れず。そして国家崩壊の際へ直進。
 現在は「階級敵」と言う言葉が、中国人には使われていません。誰も信じないからでしょう。例外は四川省などの民族自立の報道には使われています。