優勢を保てるか、中国経済

05/05/26 南方週末 李京生

 過去20年、中国経済は世界的規模で優勢を保ってきた。その理由は安い労働力にあった。しかし経済の発達と共にこの条件は消えつつある。
 日本や韓国が産業発達の成果を維持出来ているのは技術研究と産業経済学の研究と応用に成功したことにあるのだろう。中国は後進国として出発したが、今後その発展を維持するためには産業発展の法則を科学的に研究しなければならないだろう。

 現在中国は経済発展を維持出来るかどうかの分かれ道にさしかかっている。これまでの安価な労働力による優位な立場は消えつつある。例としてベトナム・インド・中央アジア諸国などの国が中国に並んで経済を発展させている。この現実を直視しないと大きな問題になるだろう。

 有る経済学者は中国の経済発展過程が一つの曲がり角に来ていると指摘している。このまま発展を続ければ欧米に並ぶことが出来る。が、発展が止まればラテンアメリカ諸国のような道に至るだろう。
 具体的に言うとその国のGDPが1000米ドルを超えるところがその曲がり角になる。この時外国からの影響ではなくて、国内の環境が自分自身を試練するだろう。大きな変化が国内に現れるだろう。
 もしこの境界線を上手く乗り越えれば、その発展に見合った地位を勝ち取るだろう。

 どのような矛盾や問題が現れるかは、その国内の人の意識に自覚されないことが普通だ。しかしこのことを意識して研究して、その結果として経済の発展が続くだろう。

現在中国経済の重要産業に於いて大きな問題点が続出している。

03年初め、史上最大の通貨膨張が見られた。重化学工業の投資が国内全ての地方を席巻した。その利益を求めて民営企業が殺到した。外国企業もその動きに加わった。その投資は数百億元の規模で、鉄鋼・電解炉・石油・化学工業などに向かった。市場経済始まって以来の上昇となった。

 「中国経済崩壊論」「中国経済脅威論」などが出現した。このような論調の中で実務的な日本では、日本経済にとっても好機到来と捉えた。中国で廉価な労働力を使い、それを高単価の産業商品に加工して輸出し、長年低成長に悩んできた日本の産業界は全面復活した。瀕死の造船業さえこの機会を捉え再生し当面の仕事を抱えている。こうして日本は「越えられない10年」という悪夢から抜け出そうとしている。
 韓国もこの機会を得て対中国の貿易を一方的に拡大した。鉄鋼や携帯電話、或いは自動車などがその主要産業である。日本と韓国に対し中国は絶好の機会を提供したことになる。
 
 国外との関係で、中国自身は如何であったか。中国からの輸出が家電・紡績・靴類など低廉な労働力による産業品のため、外国から「反ダンピング」「各種制限」政策を採られ、外国市場の侵略者と見られることが多かった。これは低廉労働力に頼る中国にとっては大きな危険信号であった。
 だが経済が発展したことで、国内に別の危険が現れた。
 04年シンセン市では民工(出稼ぎ農民)が200万人も不足した。その影響が直ぐに上海・渤海方面に及んだ。
 それは民工の賃金上昇と待遇の改善への要求となっている。これが即ち中国の経済発展の根本的矛盾である。この矛盾を如何に克服するかが、今後の経済発展を続けるかどうかの分かれ道に繋がっている。

 幾つかの外国企業はより安い国を求めて中国を離れるところも出ている。それが東南アジア・ベトナム・インドネシア・インドなどである。勿論この時中国に投資された資本も引き上げられる。

 高級産業品についても危険信号が現れた。その典型が携帯電話である。液晶表示器、水晶振動子などが品不足となって生産ストップとなった。外国企業合同の政策である。

 DVDに関しても外国企業は高級技術を占用し中国市場を独占しようとしている。
 自動車産業に置いても、その生産技術を外国と合弁を組みながら習得してきたが、重要部分は外国が握り、車体を中国が受け持ち、中国としてはいつまで経っても外国に依存しなければならない状態となっている。
 WHOの加盟後、市場の開放が進むにつれて、外国企業は中国での活動に幾つかの部門で支配力を強め、或いは占有しようとしている。
中国の服装や電子産業業会は自国よりも外国を求めて出て行こうとしている。
 かって南米が陥った経済危機、”外国資本は入ってくるが自国資本が出ていく、こうした結果工場は空となり失業者の群れ”、に到来する可能性もある。

 開発途上国の成功例として、日本・韓国がある。有る学者の見るところその成功原因は「産業経済学」を研究した成果ではないかという。 一定の段階の経済発展とそれに見合った経済構造が適合していれば経済の発展維持が可能ではないかという。
 経済の発展に適応した経済構造がなければ矛盾が出現する。この問題を日本と韓国は産業経済学を研究することで上手く切り抜けている。
 
 戦後の日本は欧米に近づくことに総力を挙げた。日本は一人当たりの平均収入と産業構造との関係に有る密接な関係があることを見抜いた。それが「高付加価値化」である。
 欧米に追いつくには「企業管理」の改善が絶対必要だと研究した。
 そこで政府が中心となって計画的・重点的に改善目標が決められ、産業構造を変革し、巨大な進歩を現出した。産業再生産と各部門間の平衡などにも注目され効果を上げた。これが産業経済学による中心的精髄であり核心である。
  生産率、市場拡大率、就業率、産業波及率などについて拡大目標が決められ、実現の方法が検討された。これらが政府主導の元に着実に実行され大きな路線を造り出した。 軽工業から重工業までの産業に応じて目標が決められ、高付加価値の製品を輸出し、低付加価値の産品を輸入し、産業全体で高級化を図った。この方式で貿易摩擦をも避けている。
 
 韓国の成功例は日本の成功の圧縮版である。1974年「長期振興綱領」が確定され、科学技術・社会経済学などが系列的に目標が決められた。
 たったの20年間で、戦後の荒廃した貧しい農業国から、しかも国土面積の小さな国でありながら、各産業毎に目標を実現して行った。

 では中国は如何にすべきか

 日本と韓国は単に西欧の真似をして経済発展の成功を達成したのではない。そこには産業経済学の研究学習が大きく応用され生かされている。
 これら両国には政府の指導下に「産業研究院」がある。そこが政府に重要政策を提言している。その研究院が政策実行の方策を提起し、問題発生の場合解決の方策をも発案している。結果として国家的経済発展に大きな貢献を提供した。

 中国は後進国からスタートした訳だが、産業経済学の思想を造り、発展の法則を見つけ、政策化し、何時も当面の目標を決める必要がある。
 中国は先ず産業の分析から手を付け、経済全体の総量を掴む必要がある。
 経済政策、税制、関税、金融、税収、等の多方面にわたって関連を調査し、株式市場と科学技術の発展、等にも当然目を向けねばならない。
 日韓両国が行ったようにこれらの実現途中には幾たびかの再調整が必要になるだろう。

 中国には西欧かぶれの傾向と、逆に西欧を軽視する学問の傾向があり、客観的な自国の経済再生の方策を研究する「産業経済学」の理論がまだ無い。

 国民の経済水準は「産業」が作り出す。その発展目標もすべて「産業」に依存する。

 産業の発展程度と産業間の対立等の複雑な問題が続出するだろう。だが常にそれらに対し大きな視点から明確に解決の道を見つけねばならない。
発展の各段階に応じた政策を見つけ出すことで、中国経済発展の道が開ける。
 有る方面の議論によると、中国には重工業は必要ないという意見も言われている。軽工業の発展が多数の労働力を吸収し、就業問題を解決している、と言うのだ。だがこれは産業経済学から見れば間違ったものである。技術後進国のママでは何時までも重工業を育成出来ないし、その国の経済面での優勢を築けないだろう。
 日本は欧米を追い越すことに目標を決め、それを実現した。1950年代にすでに「乗用車生産が国を救う」と言う目標を決めている。
 中国は「誰もお腹を減らしているのに自動車など必要ない」と言う考え方をしてきた。それに対し韓国は「誰もお腹を減らしているので自動車を作ろう」と言う考えを掴んだ。 日本は簡易紡績産業を捨てた。しかしその結果就業の機会が増えている。
韓国の成功例は今世界から注目を受けている。両国の成功と産業に対する思想を中国は真剣に学ぶべきだ。

 また中国では「新しい分野の工業開発」を主張する人達もいる。しかし如何なる分野でもあらゆる他の分野の商品と関連している。基礎産業の発展が不可欠なのだ。その辺を科学的に推察する必要がある。
 今中国は重化学工業の発展を持つことが出来るかどうかの歴史的曲がり角にいる。これを如何に上手く乗りきるか、それが将来の中国の姿を決めるだろう。
 (中国自動車工業経済技術通信研究所所長)


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訳者注:
 この記事は中国の産業とその将来について書かれたものですが、私の場合先ず日本のことに考えが及びます。

 ただし私はこれまでの日本の経済を政府主導で如何に制御してきたのか、ほとんど言及出来る知識がありません。1963年就職していますから、ここで指摘する日本の「産業経済学」の研究過程とその調整の時代に生きてきましたが具体的なことは分かりません。私の専門が電気工事であったことも関係しているのでしょうか。

 就職したとき商品の開発方式として「誰でも言いたいことを発言し、それを記録して実現出来るか一つずつ検討する」と言うのが日本の会社で流行していました。多分その頃の日本は身分制度を強く意識し、商品の開発にも身分相応の発言をして、新しい発想が生まれない、とういう封建的文化が残っていて、このような方式が提起されたのだと思います。
 封建的体質が強く残っていただけでなく、山崎豊子の「不毛地帯」には日本の自動車産業がアメリカに株式の100%を握られないようにするための苦労話が綴られています。多分、戦後しばらくは技術や資本に於いてアメリカに圧倒されていたのでしょう。

 戦後しばらくの事ですが、医者がアメリカへ行き、向こうの国でトイレに行ったら、それが「アメション」と言われて、その人は素敵な経験者だと評価されたことがあったそうです。それほどの科学技術の差が有りました。

 1970年の頃に高度成長が始まるとアメリカの技術が大量に入ってきました。それに対し日本企業は独自に開発するよりアメリカの技術を買った方が安い、と言う考えが大企業にありました。(特許使用料は売り上げの3%でした)
 しかし何時からか、どこかでその状況が変わり、日本独自の技術開発が盛んに行われ実際大きな成功を収めたようです。

 そして現在の若者は世界の中で日本を経済的に、技術的にも最高と思っているでしょう。
 もう貧しさに日本人全体が慟哭したとか言う「おしん」が今の若い人には理解出来ないと聞いています。
 これらの日本経済の成功が政府主導のものと言えるのでしょうか。誰か知っていたら教えて下さい。
 
 さて話を中国に戻しますが、本来は国家の計画制を最大に生かすのが中国やソ連の国家態勢として生まれたはずです。しかし中国は建国後30年ほとんど経済の成長を見ることが出来ませんでした。現状維持さえ出来なかった時代です。人口が急速に増加しているのに農産物の生産高が一定に停まっています。工業は働く場を拡大出来ず、若者が都市で就職出来ず農山村に送られました。
 もし農業の計画制度をさらに10年固持していたら、食糧不足で中国全体が消滅していたでしょう。
 この記事に書かれているように「国家の生活水準は経済生産によって決まる」と言うところがあります。
 この文章を中国人は複雑な気持ちで読んでいることでしょう。
 新中国誕生後30年間、中国の報道は常に「中国は社会主義となり、社会の根本的矛盾が消え、人々は生活の必要に応じて物資の供給を受ける」と宣伝してきました。多くの国民がそれを信じてきました。しかし結局、各種社会保障は全く実現出来なかったのです。学校教育や生活改善そのものが生まれなかったのです。特に「人権」が完全に無視され続けました。それは中国へ行けば直ぐわかります。
 そしてついにこのような記事が新聞に載るようになりました。では今までの社会主義思想は何だったのか、これに対しての回答は大体1980年代半ばに国民のものに成ったようです。つまりそれが「私達はマルクスに騙されました」と言う考えです。それから20年経って産業について科学的に考えようと言う提起がこのようにされるようになってきました。

 もう一度日本のことに戻ります。今中国や韓国との間で「歴史の認識」で国家間の対話が危険な状態です。その状態が直ぐに経済生産に現れます。今春以来韓国が中国への貿易・輸出を急拡大しています。日本の中国市場が後退気味です。
 今のままでは長距離高速鉄道計画が日本へ発注出来ないと中国政府高官が言っています。
 これは何を意味しているのでしょうか。此処に書かれているように、この数年「大不況の造船さえ中国市場に救われてきた」のです。それは電気や自動車その他の全ての分野に及んで言えるでしょう。
 日本の将来は今後とも海外と、特に東南アジアと密接な取引・交流で成り立つと思います。そのためには日本はもっともっと国際感覚を持った、相手の痛みを理解出来る人間に、アジア人と対等につきあうことが出来る姿勢を持つ必要があります。
 アジアの人達と一緒でなければ生きていけない、それが日本の将来でしょう。

 しかし日本の政権を握っている人達、経済の現場にいる人達、その多くがこのことを忘れ、日本政府のやり方に明確に反対出来ないでいます。
 大連にいたときの財界誌には、中国人を蔑視する日本企業の人達のことが書かれていました。日本人は中国の飛行場へ着いた途端にそれが態度となって現れる、などと記されていました。

 今の状態が5年続けばアジアでの市場は大きく変わっているのではないでしょうか。勿論日本にとって極めて不利な方向へと。
 日本に対するアジアの目も一層理解されない、信用されない状態になっていくのではないでしょうか。