趙紫陽死亡
 
天安門時代は過ぎ去り、
  田紀雲氏の花輪が祭壇に

05/01/19 文学城 総合報道

訳注:文学城は中国人が海外で
発信しているホームページ

 89年当時、政府機関の一研究員で
あった李国慶が言うには「私達中国人
は趙紫陽の政治改革がなければこの
ような良い生活は出来なかった。私達
は彼を尊敬している。ただ、現在私達
は政治について発言しなくなっている」
と語っている。
 彼は89年の時、毎日会社には出社
せず広場に行き、天安門事件の抗議
行動に参加した。現在は小さな本屋を
経営している。

 この李国慶のような、当時の学生達が進めた嵐を呼ぶ民主運動が今となっては正に驚くような政治的変動を生んだのだ。
 当時天安門に集まり北京中枢を麻痺させた学生の数は百万人を超えていた。
 これに対し「地平線研究所」という会社の代表、猿さんは「現在の学生は就職と流行と娯楽にしか関心を示さない。本当は生活の質量共にもっと幅広く見渡さねばならない」と指摘している。

 1989年の当時、この猿さんも政府機関にいて、学生達の抗議行動に参加した。現在は退職し調査会社を建てた。そして国民の意識は、その圧倒的多数が国際的地位や経済発展に満足していることを数字で掴んだという。不満を持っているのは小さな街、或いは大陸内部の方に限られているという。

 現在政府に不満を持っている人が多いのも事実だ。それは土地を取り上げられて行く農民達。国営企業からどんどん解雇されていく人達。市街から強制的に追い出される市民。
 現在も民主化を求めてインターネットでその主張をする人達。
 だが彼等不満分子を、趙の死が団結させるとは誰もが見ていない。

 民主憲法の研究家である、曹思源さんは「趙氏が拘束されてあまりにも時間が経った。中国の政治が反動的になった面もあるが、しかし社会は多元化され、進歩している面も多い」と語る。
 前述の李国慶さんも「現在は公開されている面が以前と比べものにならないほど多くなった。これは大きな進歩であろう。ただ、実際問題として改革を切望した私達の年代は50歳に近く、ただ民主の希望を待つだけの生活だ」と後悔気味に話している。
 

 趙紫陽はもう忘れられていく人間なのか。だが趙氏は中国を自由と民主の方向に大きく進歩させたことは誰も忘れないだろう。

 趙紫陽は1919河南省の地主の家に生まれた。19歳で党に加入。建国後、四川省の農村改革に当たり「請負制度」を採用し巨大な成果を上げた。
 80年代半ば中央政治局に入り、国務院総理を務めた。それは文革終了直後で、経済改革が進められたが政治改革は依然として老朽のままだった。だが海外西洋事情を知った知識分子や学生が生まれ、「民主」「人権」を要求するようになった。
 これに対し登小平が「反資産階級」「反精神汚染」運動を起こした。その結果総書記だった胡耀邦総書記が解職された。1987年1月、胡に代わって趙紫陽が総書記に選出された。党総書記も兼ねた。

趙氏は総書記になった時、「中国にも司法の独立が必要」と語ったが、それも解職の大きな理由となった。
 89年4月学生達は胡耀邦の死で天安門に結集し、絶食闘争で「民主」「人権」を要求。6月趙紫陽は天安門の集会に行き、彼らの要求を理解し、登小平の武力弾圧に反対し、学生にも闘争終結を要求した。そこで即時登小平と古老達によって解職された。
 胡耀邦と趙紫陽とが勧めた民主と経済改革は中国に大きく豊かな発展の基礎を与えた。

 89年で趙氏は歴史から抹殺された。そして一昨日、新華社公報はただ簡単な死亡広告だけを行った。その字数55字。業績をたたえる言葉はない。半国旗掲揚もない。趙氏の元職名も記されていない。
  
だが皮肉ではあるが、現在の中国の開放と発展は、ほとんどが25年前の趙紫陽の経済改革のお陰であり、それまでの自給自足経済を地球規模の市場経済に変化発展させた。

趙紫陽は政治の改革は経済の自由と切り離せないと考えた。だが登などの他の権力者達は軍警を握ることが大事と考えた。表面的には他の権力者が実権を握ったことで歴史に残ったが、しかし理論として正しかったのは趙紫陽である。

 彼が亡くなって毎日多くの人々が花輪を届けに来ている。その中には 前副総理の田紀雲氏もいる。趙氏の娘、王雁南さんは官営の追悼式を行うことは諦めているが、公に告別式を行うことを認めて欲しいと要求しているようだ。
現在時点でも趙家には公安が見張っている。が花輪を届ける人々が近づくのを阻止してはいない。献花者は家族と共に祭壇に近づいている。家族は趙氏が生前に中国に民主を実現しようとしたことを誇りにし、それを祭壇の両脇に書を書いて表している。花輪はその数が多く、家の外に溢れている。


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訳者注:
 ”天安門事件の直接の動機は89年4月の胡耀邦の死である”。
 学生達は建国直後からの極限とも言える「人権無視」の中国を振り返り、胡耀邦が民主を実現する指導者だとして大きな期待をしていたのでしょう。
 この胡耀邦が総書記の時、「大地の子」を書く構想を持って山崎豊子は現地調査を申し込み、胡耀邦から「現実にあることは何を書いても良い」と言う許可を貰っています。勿論文革が終わった後のことではあっても、建国後の毎日が窒息するような国内動乱が続いた後だけに、このような発言を中国の指導者から得られるかどうかは、非情に大きな不安があったと思います。
 これだけを見ても、胡耀邦は中国の民主化の必要性を、建国後の暗黒の政治闘争を終止し、改革したいと考えていたことが解ります。
 だが89年の天安門事件の時、趙紫陽は登小平に「反革命に味方した」として解職されます。学生は”反革命・ブルジョワ分子”として、「国家の敵」とされました。現在も公式にはこれが通っています。
 この「解職」が法治国家の常識ではあり得ないことで、理解に苦しみます。しかもこの時命令した登小平は公的肩書き無しです。

 さて98年の天安門事件の時、中国は海外諸国向けに「天安門事件の真実」という小冊子を作成しました。その中で「趙紫陽はブルジョワである、普段でもゴルフに興じている、彼は学生の要求に屈し、反階級の道に落ちた」と書きました。更に「天安門事件で死んだのはゼロであり、ただ学生が警察の車に惹かれて傷を負っただけだ」と言う嘘を北京市長の名前で配布しました。私は偶然に中国からの帰国子女からこのパンフレットを貰い、一つの国家がこのように嘘を言うことに大変驚きました。

 趙紫陽は四川省幹部だったとき、農民の仕事を計画経済から外し、請負制を採用しました。計画経済とは党が直接に農業の全てを指令する方法でしたが、それに変えて農民の自主的生産に切り替えました。それによって莫大な生産増大が生まれました。

 私はこの制度の切り替えが如何に大きな効果があるかをキューバで経験しました。
 私がキューバへ行ったのは93年末です。ソ連が崩壊して3年目になり、ソ連からの援助が消え、アメリカの経済封鎖があり、キューバは石油が無くなり、常に停電が起こり、産業と国家全体が消滅の危機の時でした。街では市民が「芋」を貰うため手に配給券を持って長い列を作っていました。
 94年の春、カストロは農地の耕作を自由化しました。するとその直後に配給制度が必要なくなり、長い列も無くなり、商店に品物が並び、キューバ危機が言われなくなりました。
 勿論今でもアメリカの経済封鎖があり、例えばパソコンなどの輸入は困難だと思います。が、カナダやフランス等との貿易もあり、キューバ危機という声が言われなくなっています。
 つまりここで言いたいのは、それほど「計画経済」が反科学、反人間的だと言うことです。ソ連はそこを理解出来ず、約80年間も計画経済を続けました。ゴルバチョフは一時ソ連の改革開放で名を揚げました。しかし計画経済の反人間性については理解出来ていなかったのでしょう。
 中国は82年に農業の自主生産を「請負制度」として全国に広めました。工業方面は92年に実施されました。
 しかし趙紫陽よりも先に農業の自主生産を実行した人達がいたことは、どこかで書きました。それは農民自身です。党の目を盗んで、万一の被害者が出た時の相互扶助も考えて、自主生産をしています。

 92年の工業の自由化は「登小平」の事業とされています。彼の言葉「金持ちになれる者から豊になろう」と言うスローガンは、少し良識のある人には国家の指導者が言う言葉としてはひんしゅくを買う様な低次元の言葉として非難されるものでしょう。だが中国人達はその意味する中身が自主生産を認めるものだと言うことを理解していたので、誰もがこの言動に反対していません。その意味するものがすでに趙紫陽によって実現されていたからです。
実際上、民主を一歩進めたのは登小平ではなく、胡耀邦と趙紫陽です。だが中国政府の考えでは趙紫陽は「反革命」です。中国の歴史にプラスしたことは公的には認められません。つまり中国の現政権は歴史を正しく認識することが出来ないのです。
 ここ「文学城」に書かれた意見はかなり正しい歴史認識でしょう。
 「人民中国」や「南方週末」など総ての中国の報道には、1月22日の現在まで趙紫陽の記事がありません。!