「 人間関係 」 の重さ


05/05/12 南方週末 投稿 梁治平

 投稿者は「中国芸術研究院中国文化研究員」

 中国では、清朝・明朝時代から故郷へ行き墓参りすることが習慣となっている。 私が故郷の駅に着きタクシーに乗ろうとしたら同行の親戚が寂しい道路へ連れて行く。「え、そんなところでタクシーがひろえるのかい」というと、「ほら、あそこにいるのが馴染みのタクシーですよ」と言う。「え、馴染みの?」と私にはすぐには意味が分からなかった。

 以下に述べるのは中国では如何に人との関係を大事にするかの幾つかの事例である。中国の社会を研究している学者達は誰でも「人間関係の重要性」を認めているだろう。中国では全ての生活の基礎にはこの「人間関係」がある。

 で、そのタクシーだが、「馴染みのタクシーは少し安くなるのか」と言う疑問が湧く。反対である。タクシーに乗って降りる時、運転手と親戚との間に運賃を「どうぞ」「いや、結構です」のやりとりが2,3度有って、最後には運賃を払った。しかしその額はメーター表示よりも多かったのである。
 この多い部分が重要で、それは相手に対して「貸し」を作っているのである。いつかそれが大きくなって帰ってくるだろう。

 私が墓参りに行ったところは都下で農村の近くだったが、そこには大型の国営企業があった。過去10年毎年のように拡張を繰り広げてきた。工場が拡大されて農地が減る。土地を売った農民は「戸籍」を買った。

 訳注 戸籍:農民が公安に金を払って市民権を買う。「戸口本」という。市内に居住することが出来る。

 そして工場に就職した。だが好景気は長く続かなかった。労働者の大量解雇が始まった。
 私の親戚も解雇された。千元ほどの解雇金を貰った。その後しばらくしてまた労働者募集が始まった。そして親戚が採用されたが、今回は臨時工でいつでも解雇できるという。そうするとこの「人間関係」が重要になってきた。
 班長は党の幹部では無かったが、しかし上部へ作業状態を報告する。そこに「色」を付けるかどうかで、身の安全に直接関係する。賃金も企業は一度班長に渡し、班長が各臨時工に支払う制度になっている。こうなると班長と如何に「人間関係」を重くするかが命運を左右する。その班長の下で働く人達は何度も付け届けをする。 
 
 これは中国のほんの一例であろう。就職、入学試験、昇進、裁判でも、病気で医者に頼る時、全て「人間関係」に頼る。
「人間関係」は社会の潤滑油である、と人は言う。同時に社会の「掟」とも言う。子供達もいつか、この「人間関係」の重要性を知っていく。勿論これを利用する時、多くは妥協も当然必要だろう。こうして我が中国ではこの「人間関係」が道徳の基本となっている。
これを上手く利用する人が「憧れの的」と見なされてもいる。

 「人間関係」は社会の正常で健康的なものかどうか。これを真剣に考える前に、先ずその関係を数多く作ることが必要だ。
 だがこのために社会的生産や道徳に腐敗が併存しないだろうか。いや実際中国では社会全体で、「腐敗、低効率、不公正、退廃」が発生している。これも誰もが認めるだろう。
日常茶飯事に起こっている。だがこの「習慣」「風習」は人間の身体の一部にさえなって生き続けている。
 
 私は墓参りが終わって故郷を去る時一つの事件を聞いた。それは13年も前のことだ。ある人と喧嘩になって殴り合いがあり一人が鼻骨骨折と腎臓破裂の大けがをした。
 だが両家には「人間関係」があって、この事件は「軽傷」と言うことで処理がすまされた。
 後になって、家族が裁判に訴えた。当地の公安、地元政府、検察庁、等々に訴えて回ったがいずこも取り上げない。家族は北京へ直訴に行っている。そして今も「公道」に基づいて審判されることを望んでいる。

 いったいこの13年の経過は何を意味しているのだろうか。
経済的な損失については専門家でも計りがたいと言う。だが道徳的にこのことの善悪を判断できないだろうか。
 有る学生が大学入学試験を受けることになって考えた。現在の実力では入学は難しい。だが同じ学生の中で、書記や大学長の子供は断然有利であることは明らかだ。そこでこの学生は父親に相談するだろう。「だれか”人間関係”が無いの」と。
 このような精神”の人間を作りだしているままで良いのだろうか。

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訳者注: 新中国誕生の時、社会の全ての矛盾は「階級対立」と考えられ、その視点から処理し独裁を強めることで、やがて敵階級が無くなり、社会には腐敗や犯罪が根絶する、と考えられました。その裁定を党組織が受負いました。こうして党治国家が始まり、人治国家となり、個人崇拝が普通となり、法治国家については全く考慮されないまま30年が過ぎました。
 1990年代後半になって法治国家を目指すと「人民代表大会」で決めています。
 法治である根本は「法に例外を作らない」ことです。中国の基本法は法律の上に党があります。現在でも党の車は信号を無視して走って良い都市が多いでしょう。
 事件を裁判に取り上げるかどうかは党が決めます。これではいつまで経っても法治にならず、国民は「人間関係」に頼らざるを得ないでしょう。
 もし本当に法治国家となったら、最初に「天安門事件」の被害家族が訴えに行くでしょう。「百家争鳴」で追放された人が訴えるでしょう。「大躍進政策」で餓死した家族が訴えるでしょう。「文化大革命」で犠牲になった人達が訴えるでしょう。

 独裁社会では「つて」や「人間関係」しか頼れない、これが普通の庶民でしょう。
 台湾もそのために1995年までは「おことづけ」、「紅包」が普通に公然と行われていました。そして民進党の市長(陳水扁 :現台湾総統)が台北に出現してそれを禁止しました。台湾で何故これが出来たかというと、国民党の独裁が廃止され法治国家となったからです。(李登輝の時)

 ソ連は崩壊の寸前まで「我が国では計画経済により社会の土台が発展し、そのことで精神的上部構造では、腐敗や賭け事や売春や投機など不健康なものは根本的に存在しなくなりつつあります」と新聞に発表しています。まるでこの記事は「マルクス主義」そのままの書き写しでしょう。

 こんな問題は数百年昔に解明されたことではないでしょうか。