訳者注:次の新聞は私が大連にいたとき(2000/01)買ったものです。
 
30年前の”通海大地震”がやっと報道許可

00/01/07 半島晨報 昆明ニュース

 死亡者数15621人、これは中国史上最大地震の唐山地震に次ぐ被害である。経済損失は現代価値にして27億元に達する。当時は特殊な歴史時期にあり被害の実態は未だ明確にはされていない。

 00年1月5日、雲南省玉渓市通海県周辺の少数民族関係者が追悼の集会を開き、当時を忍び哀悼の念を表明した。これまでの30年間この大事件は公表されなかった。

 1970年1月5日1時0分37秒、震度7.7の巨大地震が一帯を襲った。場所は東経102.33度、北緯24.06度。通海県高大村が震源地で震源深度は13キロ、主震後さらに5ないし5.7級の地震が12回続いた。後日”通海地震”と命名された。被害の及んだ地域の面積は8800平方キロに及び、通海・峨山・建水・華寧・玉渓・石瓶・江川など7県に及んだ。死者15621人、経済損失は現在の価値にして約27億元に達した。中国20世紀の重大災害の1つと見られている。

  訳注:震災面積8800平方キロ。
     東京都と神奈川県の合計で4500平方キロで、8800平方キロ     はその約倍に当たる。人口密度の少ない地方なので相当広範      囲の地震のようだ。

 死亡数は唐山地震に次ぐ。当時は”文革”と言う特殊時期にあり、新華社は簡単な見出しで報道しただけで、地震の規模も小さくして記載した。
 当時中国は国際的な援助を受け取らないという政策で、国内に置いても援助は精神的なものだけだった。
 地震が発生した直後から、全国より数十万冊の「毛沢東語録」とプロマイドが送られてきた。実に悲しいことに災害救助に役立つような品物はほとんど来なかった。
 中国で地震について科学的に研究が始められたのはこの地震後で、中国での最大の地震は刑台・唐山・通海の3大地震である。
 世界的に見てもこの3個は規模の大きいものに属する。 
 
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唐山大地震30周年祭:
死亡者数事件後3年めに発表


05/07/28 文学城 機曹回首

 20世紀80年代以前は社会安定と政治的影響を考えて中国政府は報道機関に”災害報道に関しては慎重に行い闘争勝利に結びつくように”指示。さらに”客観的事実の報道は控えること”と命令。これは建国直後の1950年4月2日の、中央人民政府による「新聞報道機関の災害に関する指示」に書かれている。
 
 このような災害の被災者を無視した政策は80年代初期まで続いた。このような報道規制は全ての面に渡って行われた。
 政府の意図は、災害に当って、「大衆の闘争を主体に考え、人民の崇高な精神的力を強調すること」にあった。
 複旦大学の王教授は「当時の災難はニュースに当たらない。大衆が災害と闘うこと、災害を救済すること、それがニュースだ、と言う考えであった。このような思想は国民の知る権利を剥奪し、政府の行動のみがニュースに相当するという考えであり、その結果人々は事実が分からないから、右見てそれから左見て、やっと口を開く状態になった」と述べている。

 80年代には重大な自然災害が発生した。雲南の通海と河北省の唐山大地震である。記者はこの事件を追って、当時の報道が如何に観念的で悲惨な影響を国民に与えたか知ることが出来た。

 1976年7月28日河北省唐山で大地震が発生した。翌日”人民日報”は新華社と共同してこの事件を報道した。曰く「唐山で強烈な地震が発生した。災害地域の人民は毛沢東の革命路線に従い革命的精神を発揮して災害に立ち向かっている」
 誰もが災害の程度と実態を知りたがった。だが記事には抽象的な文字のみで、倒壊家屋や死亡者の有る無し等の事実は何も記されず、「地区によっていろいろな程度の損害があった」というだけであった。報道機関は事実を隠蔽し、国民の情報を得る権利を無情に奪ったのである。

 3年後の79年11月17日、中国地震会議が開かれ、その場で死者の数が公表された。
 会議の翌朝、”人民日報”は「唐山地震の死者は24万人以上」と書いた。この記事は世界を驚愕させた。人々はこの事件を忘れかけている時の発表である。中国の新聞は「新聞」と言う文字を「旧聞」と言う文字に替えるべきと誰もが思った。

 雲南の通海地震はそれよりも6年早く1970年に起きた。この時の報道は唐山地震よりもっと徹底して隠された。通海地震は30年後の2000年1月5日現地で追悼慰霊祭が催され、初めて死傷者数や損壊の程度など、その詳細が明らかにされた。正に中国のみにある秘密の「档案」が解かれたと言う感じである。
 
 訳注:档案 社会主義国家にのみある個人の政治成績管理表。

 その死者数は15621人で20世紀中国重大災害の一つである。この時中国は文化大革命の「革命的情勢」にあり、災害の詳細は完全に秘密にされた。事件に関する記事の中身は事実が全く書かれず空虚な抽象的な文字が列んでいる。

 各地の大時報は意味不明の記事を並べたが、次は地震発生後4日目に発表された地元「雲南日報」の記事である。
 
 曰く「我が省昆明南部に大地震が発生。災害民達は何をも恐れず苦しみを口に出さず死をも恐れず災害と闘っている」と。
 その後しばらくして「昆明日報」はまた記事を書いた。
 曰く「金家公社社員達は”紅表紙の毛沢東語録”をかざし、”我々は地震に負けず毛主席の紅心に応える”」
又曰く「千回・万回闘っても負けを知らない毛沢東主席の革命思想を堅持し現地貧農は闘う」と。
 そして最後に行ったことは、省の昆明革命委員会は車を連ねて現地を慰問し、紅色の毛主席語録と金色に輝く主席のプロマイド写真を被災者達の手に渡し、それを受け取った被災者達は”目頭を熱くしてそれらの記念品を受け取った”、と記している。
 これは正に天に唾する笑い話ではないだろうか。
     これらの当時の報道を見て解ることは、正に国民の上から下まで異常な状態であったことで、災害の実情を軽視し、毛主席の思いやりに感謝し、被災地の人民の決心の強さを過当に強調している。
 おそらく現代の若者は中国にこの異常で野蛮な状態があり、それを生み出した政治状況を理解できないであろう。
 災害の報道に関して言えば、それを知ることは国民にとって基本的な権利と要求であり、それを報道することはメディアの基本的な役割であり、任務である。だが当時はこれら基本的なことが全て奪われていたのだ。一時代の一大悲劇である。メディアにとって取り返しが出来ない悲劇である。

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訳者注:文化大革命、1966〜1976
毛沢東1976/9/9死亡、82才

 中国はこの頃正に国家死滅の危機にありました。文革末期に毛沢東の妻、紅青ら4人組が上海に私設軍団を創り北京へ軍事攻撃をしようとしていました。また周恩来も死去したが(76年1月)命を狙われていました。
 建国後は革命闘争(有識者・裕福者を倒す)が国民運動として行われ、有能な人達が地方へ飛ばされ、牢獄(改造所)へ入れられました。
 計画経済によって生産が後退し、若者の就職が無くなり、大躍進と文革によって実際に人命が大量に奪われました。 
 そこへこの2度の巨大地震が来たのです。
日本でもし数十万の人が死亡する地震があって、日本政府が中国のように無視したら当然暴動が起こり政府転覆でしょう。
 通海地震で親や子を亡くした人達が毛沢東語録を見て感激の涙を流したというのは、信じがたいです。大躍進政策で農民の大量餓死が発生したときも、農民の顔は喜びに輝いていたという報道記事を見たことがあります。
 当時は”革命の情勢”だったという言い方も実態は如何でしょうか。人々は何時”階級敵”に祭り上げられるか解らず、いつも下を向いて歩いていた時代です。(毎年地域ごとに3%の人が階級敵になった。文革の前)
 04年に訳した「先生ごめんなさい」を見て貰えば解りますが、革命的情勢とは政府の上からの命令で人々が良心に背いて動いています。それを情報を党が握っているので独裁者に都合の良い方向で、「大衆の顔は輝いている」と報道していたのです。
http://www31.ocn.ne.jp/~k_kaname/text/04/rindarong.html 

 まだこの頃、日本では左翼や革新的といわれる人たちが社会主義を信奉・宣伝していた時代ですが、中国では毛死後「マルクスやレーニン」の社会主義では平和と健全な社会が来ないことに気づき始めます。それが壁新聞となって出てきます。そして党内にも法治国家が不可欠だという意識が出始め、全ての国民を公平に扱うことの必要性が認識され、生産から個人思想全てを党が指導する社会から国民の自主性を尊重するように少しずつ変わりました。
 そして80年代半ばから中国は経済成長が始まります。

 だが敵階級が有って初めて「一党独裁」が許されるので、国民を公平に扱うことと一党独裁は両立しないでしょう。そのために今でも中国の政策と官僚や党員のすることは矛盾に満ちています。一面で部分的選挙を行い、国民の団結が強まると武力で抑圧しています。

なお2番目の記事(文学城)は海外で作られている web なのでかなり政府攻撃の口調があります。まだ国内ではこのような表現は出来ません。
 多分「知る権利を奪われた」と考えている国民は少ないと思います。
 それは1番目の報道記事(中国国内の)を比べて貰えれば解ります。