娼婦の生前日記が悲しき運命を語る


05/10/13 南方週末 傳剣峰 劉穿強



































 9月3日、甘粛省蘭州駅の深夜は人足が途絶えて静寂そのものだ。
 駅傍の売春宿から出てきた一組の男女がある。女性は娼婦館で働く勾麗(仮名)という。23才、丸顔、大きな目、笑い顔が可愛らしい。連れ添いの男は髪を乱し、破れた衣服で、ズボンは油で汚れ、その裾を靴下にねじ込んでいる。2人は対面の小さなホテルに入った。

 翌日の昼で勾麗は娼婦館から足を洗い故郷へ返ることになっていた。娼婦館の横にある生理品商店に夕方訪れ「私は今夜で借金がなくなり里へ返ります」と挨拶している。
 だが、その美しい娘はその日の夜、人生の幕を閉じた。身体に何をも着けない状態で、首を自転車のブレーキで絞め殺されていた。
 同宿した男は行方をくらましていた。

 警察は犯人を2種類に絞った。1つは3輪車の臨時工、もう一つは鉄鋼運送業関係の人間である。
 9月15日、警察は12日間の調査の後、唐と名乗る青年を容疑者として逮捕した。彼は寝床に勾麗のものらしい物入れをかくしていた。
 唐はかって別の街で娼婦館に行ったとき、娘に200元をぼられたことがあり、それを恨んで何時かは娼婦に仕返しをしようと考えていたと自供した。
警察が勾麗の遺品を整理しているとき、2冊の日記を見つけ出した。 そこには夫に対する深い愛情が連綿と綴られていた。調査の警官達はその情の深さに感嘆した。

 勾麗の夫、”陳小林”(仮名)は記者に訥々と2人のこれまでのことを語った。この話を完結するために記者は何度も、とても不便な陳さんの家へ通った。

 2人が出会ったのは2003年の暮れ、2人がそれぞれ出稼ぎに行こうとして偶然汽車の席に向かい合って座ったことから始まる。
 「彼女の顔はとても可愛い印象でした」と陳さんは言う。只2人とも何も話しかけなかったが、彼女に携帯電話を貸したことが原因で2人が話をするようになり、急速に親しくなった。
 やがて陳さんが勾麗さんに「私の家はとても貧しい。そんな私は嫌いでしょう」と尋ねた。勾麗さんは「とんでもありません」と誠実に応えた。
 勾麗さんにはかって別の男友達が居た。その男の子供を孕んだが男は流産しろと要求し、彼女は泣く泣く従った。そんなことがあって勾麗さんは誠実な男生を求めていたのだ。出会ってから1と月で2人は結婚した。

勾麗の家は陜西省宝鶏市の寒村で交通は極めて不便なところ。彼女は子供の頃に父親を亡くしている。兄2人が彼女に中学専門学校を卒業させてくれた。卒業後は臨時工として出稼ぎの生活だった。姉は既に結婚し家を出ている。さらに弟がいる。近くの駅から彼女の洞窟の家までは車で4時間ほど掛かる。その道と言えば、正に山あり谷ありの不便な地帯で、そこを”ぽんぽん3輪車”と呼ぶ地元の車で身体を上下に揺られて走る。

 陳家には30畝少しの土地がある。年間の収入は1家5人が働いて2000元少ししかならない。
 2人はお金がなくて結婚式の写真を撮らなかった。
 だが陳家から勾麗の家には1万元の結納金を出した。それが西北地帯の習慣となっている。
 陳家にとって勾麗という中学校を出た娘を貰うことは大きな誇りであった。
 「身代をつぶしても喜ぶべき幸せ」と陳さんの母は言う。
 結婚披露には30人の席が作られた。それは村始まって以来の豪華な宴席だった。
 だがその交通の極めて不便な洞窟の家の式に出席したのは15人だけであった。しかも出席者の誰もが貧乏のどん底にいた。祝い金は1元か2元で、たまに5元が一人、そして20元が一人だった。つまり全然出費の元が取れなかった。悪いことに借金の一部は高利貸から借りていた。高利貸は「血肉を削っても直ぐ返せ」と迫ってきた。この宴で使った3万元は、陳家の年収2000元では全部当てても完済に15年掛かる。 

 そこで陳の弟が遙か北京にまで出稼ぎに行った。陳の父は石切場で働いた。1日30元の報酬だ。50才少し出た父は1メートル70ほどの身長があるが体重は40キロしかない。毎日毎日100キロ近い石を背に負って運ぶ。家に帰った父の背中には肉が全く無くなっているように見えた、と陳さんは言う。
 その姿を見て勾麗さんは涙をはらはらと流し「陳さん、私達は何時になったら幸福になれるのでしょう。お義父さんは命を削って働いてくれていますが」と尋ねたことがある。 勾麗さんは早くに父を亡くしていたので、陳さんの父を慕った。ある時その義父がお金を節約するために軒下で夜を明かした、と言う話を聞いたとき涙が止まらなかったという。そしてそれから彼女も出稼ぎに行くことを約束した。だが陳家の両親はそれを許さなかった。それよりは早く子供を産んでくれと息子夫婦に頼んだ。
 この後の暫くは勾麗さんにとって幸せな日々が続いた。彼女は10平方メートルほどの洞窟内に赤ちゃんの画を貼った。 

やがて彼女は妊娠した。彼女は山羊を曳きながら夫に「あなた、女は何時が一番幸せか知っていますか」と尋ねた。そして自分のお腹を抱えて「それは赤ちゃんが出来た時よ」と自慢げに夫に知らせたのである。
 だが運命がこの陳家を弄んでいるような事件が起こった。それは昨年7月、彼女が流産したのである。義母は驚いて立ち上がれなくなった。それで勾麗さんは義母に「私はまだ若いのですから希望を捨てないで下さい」と励ましている。

 だが子供の出来るのを待っているだけでは借金が返せない。今年の3月、2人は蘭州へ出稼ぎに行った。そこで2人は1月50元のベッドだけの部屋を借りた。扉を開くと隣の公衆便所から匂いが流れ込んでくる。

 勾麗さんは月300元の仕事があった。陳さんは月350元の仕事を見つけた。2人が計算してみた。部屋代とその他食費を最低としても100元はいる。すると1年で5000元ほど残せる。だが借金の返済には何年も掛かる。2人は一晩かかって行く末を思案した。

半月後、陳さんはそれまでの仕事を辞め古いバイクを買ってきてそれで運搬の仕事をすることになった。勾麗さんも仕事を辞めるという。
 彼女の言葉、「同じ里の人達の話では娼婦館で客の頭を洗うと月千元以上貰えるというの。あなたには心配掛けないからそこで働かせて」と言う。
 そこで陳さんは毎朝その娼婦館へ勾麗さんを仕事の途中バイクで送り届けた。
 こうした日々がしばらく続いた。勾麗さんは毎晩9時には帰宅し、疲れて返ってくる陳さんの手足を洗った。2人は小さな録音機を買ってきて一緒に聞くのが楽しみであった。 一番好きな曲は「2羽の蝶々」だったという。勾麗さんは夫の肩にもたれて楽しそうに歌った。
 ””おいで、こちらで舞っておくれ、
この素晴らしい春に、暗い雲など来ないでしょう””

 陳さんが仕事で帰れないときも、妻は「毎晩9時には帰っています」と言っていたそうである。
 だがやがて陳さんは彼女が娼婦館で「少姐」と呼ばれる仕事をしていることを知った。
 陳さんは激怒した。「俺たちが如何に貧乏しようともそんなことは絶対いやだ」と。そして勾麗さんの兄に電話をし「もう別れます」と伝えたそうだ。
 勾麗さんは泣いた。「あなたは私が好きこのんでしているとでも思っているの。あなたのご両親があのように骨身を削って働いているのよ。こうでもしなかったら、何時になったら借金を返せるのでしょうか」
この話を聞いて陳さんも頭が上がらなくなった。涙が溢れて止まらなかった。「ああ、俺が貧しいために、俺が無能なために、俺は男ではないのか、俺の妻がこれほど俺を愛し大事にしていてくれているのに何も出来ない」と身をもがいて嘆き苦しんだ。

 2人が大喧嘩をした後、陳さんは勾麗さんの仕事を黙認するようになった。
 だが勾麗さんが働いて数日後、それは4月18日、公安の取り締まりがあり、彼女は逮捕され教育所に収容された。
 6ヶ月の収容教育が行われた。翌日陳さんが面会に来た。勾麗さんが泣くのを、彼女の手を取って「泣くな、俺がきっと金を集めてお前をここから出してやる」と言う。その時のことが勾麗さんの日記に書かれている。

「あなた、すみません。こんなに心配を掛けて。私達にはここから出られるような金は何処にもないことは充分知っています。私だけが苦しめばよいのです」と書いている。

 8月下旬に釈放されるまでこのような苦しみのページが116頁続く。
 この時、陳さんは家族に電話を入れ、「勾麗が車に跳ねられ治療費が居る」と言って1000元送ってもらっている。これを教育所の生活費用に充てた。

 陳さんはさらに懸命にバイクで働いた。ひとえに妻を救いたい気持ちからだった。
そのことを勾麗さんは日記に「あなたのような人を夫に持てて私は本当に幸せ者です」と記している。
 1日でも早く勾麗を引き出すために陳さんはバイクを1000元で売ってしまった。この事を聞いて勾麗さんは「ああ、あなたは馬鹿よ、本当に馬鹿よ」と書いている。 

 5月13日は勾麗さんの誕生日だった。陳さんは20元を使って焼き鳥と卵20個を買って教育所へ彼女のお祝いに行った。それらは同宿の人達と一緒に祝って貰おうとしたものだった。
 その日の日記には「あなた、卵を買ってきてくれて本当に有り難う。感動的だわ。」と記されている。
 実はその頃陳さんは全くお金に困る日々だった。1碗2元のソバでさえなかなか食べられなかった。彼は1日5元で暮らしている。 困った彼は又古いバイクを買った。しかしそれは盗品で直ぐに捕まり1200元の罰金を払わされた。
 そのことを知らない勾麗さんは「あなたこの頃又バイクで働いているの。でも身体を大切にしてね。無理をしないでね。私はいつもあなたの傍で見守っていますよ」と書いている。

 この頃、鉄の窓の中にいる勾麗さんの日記から読みとれるのはどの頁にも彼女の夫への想いと心配とが滲んでいる。
 「あなた今でもまだ私が好きですか」このような言葉が、あるいは「あなた、私はあなたが好きよ、あなたを一生愛しているわ。大好きなあなたへ」などと、何時の頁にも記されている。

 陳さんが面会出来る時間は5分である。従ってそこで交わされる言葉は極めて少ない。伝えられないことが多い。そこで2人は前もって紙切れに必要なことを書いて交換した。
 彼女の日記には「あなたが会いに来てくれて、差し出された紙切れを見ると、私は涙が止まらなくなります」とある。

 6月が過ぎると、まだ彼女の釈放の日には遠いが、西北の農村では麦刈りの季節だ。そして勾麗さんの日記には「畑の麦が大きくなったでしょうね。あなたは収穫の手伝いに行くのでしょう。お義父さんが元気で働けるかしら」などと農村で知っている人達の名前が出てくる。 

 7月になると蘭州の夜は涼しさを感じる日が続く。彼女の日記には子供のような幼さが表現されている。
 「昨日収容された同宿の女性は可愛そうに着るものがないので私のズボンを貸して上げました。あなた、会いに来たとき私と間違えないでね」と。


 8月下旬、勾麗さんの態度が良いと言うことで2月早く釈放されることになった。北京へ出稼ぎに行っていた陳さんは駅で妻を迎えた。2人は駅頭でしっかりと抱き合った。そして2人とも大声で泣いた。勾麗さんはこの数ヶ月美味しいものは何も食べていない。そこで陳さんは親戚に頼んで、500元を借り、勾麗さんに大盛りの鶏どんぶりを腹一杯食べさせた。
 
 だが勾麗さんが鉄格子の生活をしている間に、陳さんの借金は1万元を超えていた。
 なかでも1300元は10日以内に返すことになっていた。そこで2人が会って翌日陳さんは北京へ働きに出かけた。
 陳さんは北京で800元稼げると言い、勾麗さんにも北京へ来て一緒に暮らそうと約束した。そして北京で「中秋の節句」を祝おうと夢を見た。

 9月1日陳さんは北京への汽車に乗った。見送る勾麗さんの目には涙が貯まっていた。
 陳さん「泣くなよ、泣くな。すぐまた北京で会えるからな」と言ったが、これが2人の最後の別れの言葉となった。

 その4日後、陳さんは勾麗さんが客に絞殺されたニュースを得るのだ。
 何故ほんの少しの別れの間まで勾麗さんが稼ごうとしたのか。
 陳さんは「少しでも早く親戚に借りた金を返したかったのでしょう」と涙ながらに語る。

  
 釈放後の約1ヶ月、勾麗さんは毎日4元で生活しているのが日記に書かれている。
 贅沢品としては、150元のハンドバックだ。衣服では彼女は50元を超えるものを買ったことがない。
 妊娠したとき陳さんが彼女に買った衣服は60元で、それが最高額の衣服の買い物だ。 
 このような話を陳さんが記者にしてくれる時、話の途中で陳さんは何度も涙声になり、言葉が途絶えた。顔が悲しみや苦痛で歪み、次の言葉がしばらく出なかった。
 人には説明が出来ないとか、もう二度とこんな話はしたくないとか、言う言葉がつぶやいて出た。
 記者が来る前、中央テレビが来たが、彼は適当にごまかした。
 彼は親族にも本当の詳しいことは話していない。蘭州の家族に知らせたとき、村では始め同情の様子であったが、しかし直ぐそれは嘲笑に変わった。陳さんの母は泣き崩れ声が出なくなった。陳さんは「もう村には戻れません」と言う。悲嘆にくれる母親を慰めに帰郷することは出来ないと決心し、これから北京で臨時工として暮らすという。

 「勾麗さんが娼婦館で働くことを見ないふりすることにしたことが、自分の一生を重しになって苦しめるだろう」と彼は言う。この辺のことは勾麗さんの日記には書かれていない。
 
 勾麗さんと同業の少姐達に聞いてみた。
「勾麗は客の接待が終わるといつも一所懸命に折り紙を折っていました」という。
 その折り紙には彼女の気持ちを表しているかのような画が描かれている。
 ハート形の鼻をした可愛い笑い顔、頬に口づけしているような形、唇から「あなたに口づけ」「好きよあなた」という文字が書かれている。
 このような折り紙を毎日一生懸命に心を込めて折り続けた。合計1000個になる。

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訳者注:
 蘭州でも一般市民の現在の平均月収は800元以上あるでしょう。しかし「農民」と言う身分に縛られた”運命”は、彼等に月350元程度で働かせるのです。しかも都会で働くことは違法行為です!
 昨年春に、時々農民を逮捕して「収容所に入れる」行為は世界の反撃を受けて中止されています。
 しかし市民は農民を差別し、公安に知らせると脅して部屋代をカサ上げします。
 しかしそんな運命の農民に生まれながら、ここに登場している2人の会話は実に純粋で誠実です。こんな純愛物語が今の日本にも存在しないのではないかと私は想像します。

 陳さんの母が「中卒の娘を貰うことは家の名誉なこと」と歓迎する話は、日本の昔話とは違うようです。日本では”嫁に学問は要らない”、と言った時代があると聞いています。
 ただ、中国の農村では男子を産まないと嫁は歓迎されず、男子を産めば「嫁として任務を果たした」と余所で語れるようになります。それも農民の土地制度と関係しています。

 この事件と同じ頃、北京では「人間の乗った人工衛星が打ち上げられ、中国の国威掲揚を世界に誇示」と言うニュースが流れています。その同じ国が人口の7割以上を占める農民を”悲惨な運命”に苦しめているのです。





 

 
勾麗は116頁の日記に
深い愛情を書き、1000個
の折り紙を作った
勾麗が残した
「夫婦相愛図」
同業の娘達の証言で、勾麗は客の接待後、黙々とこの折り紙を作った、という。
勾麗が働いた娼婦館。
現在は公安により閉鎖されている。