劉 少 奇 の 晩 年

 99/11/12 半島震報 王小岩 特別報道

 今年は劉少奇が亡くなって30年目。1969年11月12日6時45分、劉少奇同士は河南省開封に於いてこの世への深い恨みの辞世の句を残し死んだ。当時は特殊な社会状況で、そのころ劉少奇の警備を担当していた警備隊長が中国領袖の深刻な晩年を語ってくれた。
 これを語ってくれたのは現在審陽市沈河区の中国特有のマンションに住む張兵武老人で、”中南海”の煙草を吸いながら30数年前の、今では消えそうな想い出を静かに語ってくれた。

 警備役から監視役へ

 1996年、歴史上最大の台風「文革」が吹き出した。中南海と言えどその圏外に逃れ出るわけにはいかなかった。李富春、潭震林、と小平、陳毅などが次々と身分を取り上げられた。
 1967年7月、毛沢東のお墨付きを貰ったと自称する「造反派」達が天下を取ったような勢いで「劉少奇」の家に襲いかかった。 その中の数十人が自宅に押し入った。警備担当の者達が必死になって「主席」を守ろうとした。警備士達は人垣を創り進入を阻止しようとした。「造反派」達は「黒は黒を守る」とか「お前らが悪魔を守れるのか」とか言いたい放題であった。

 警備士達は懸命に進入を阻止しようとしたが、当時「造反派達の反動分子一掃闘争に対しては手を出しては成らない」と言う指示が降りていたので抵抗にも限界があった。揉み合うこと10分ほどして内側から電話があり「造反派」を入れなさい、と言う連絡が来た。

 劉少奇は何事にも驚かないかのように毅然としていた。造反派達は手に手に「毛主席語録」を持ち批判闘争を開始した。
 彼らは言う。「これから毛語録を暗記しているか調査する。もし暗記していなければ即ちそれ”不忠”の証だ」と叫んだ。
劉少奇は平然として、どの章も私は暗記している、何処でも聞いてみなさい、即答して見せよう、と大声で応えた。
 こうして造反派達の批判闘争は何度も主席の家を襲った。96年7月、劉少奇と妻”王光美”の隔離を強請された。両人は同じ中南海には居たが、その後二人は面会することなく人生を終える。
 こうして警備士達はその役割を「監視」に変更された。

     訳注:
中南海は建国後北京城内に高級幹部
が住まいとしたところ。大衆の接近を
禁じた。当然毛沢東もそこに居た。つまり
この闘争の時、肩書き無しの毛沢東が
劉少奇「国家主席」の傍にいてこの事態を
全て聞いていた。


 王光美には4名の監視役が中央政府の命令として派遣された。彼女には毎日”忠”の検査が行われ、便所掃除や雑益の仕事をさせ、それは「労働改造」と名付けられた。 
 警備担当だった「陳兵武」さんは毎日何をすべきか解らず悶々とした日々が続いた。ある日彼が王光美に対して思わず同情の声を掛けたため、それが発端となって主席夫婦にさらに大きな重圧がかかった。
 ある日、それは酷暑の日で太陽がかんかんと照っていた。王光美が庭掃除をしていると4人の監視役の女性達が王光美の目の前にさらに余所からゴミを持ってきてばらまいた。王さんは当時健康状態が思わしくなかった。彼女はそのゴミを掃くのに懸命になり、汗みどろだった。
これを見た張さんは、思わず声を掛けた。「少しづつしなさい、一度に無理をしては行けません」と言った。

 その夜副中隊長がやって来て、「お前は昼間王光美に何を話したのか」と聞きに来た。 そして隊長は「お前は自分の立場が解っているのか、敵に同情するとどうなると思っているのか」と恫喝した。張さんは情けなくなって怒りと悲しみで一杯になった。しかしその隊長は何度も張さんの所へ脅迫に来た。
 その後中央政府の副主任、王東興が調査に来た。事情を聞き副主任は「誰もが過敏になっているのだ」と真実を理解してくれた。
 その直後、王光美は中南海から他へ移された。

 劉少奇を厨房に立たす

 67年5月、劉少奇同士は厳重な誤りがあった、と言う決定が下り、18年間厨房で働くと言う労働改造命令が出た。 中央隊長の命令によると、張さんを厨房班長とし、劉少奇を厨房で働かせる。この命令は中央からのもので”その後の改造の様子を見る”政治的判断だという。
 劉少奇は半熟の卵が好きで、張さんはこれを作るのが得意であったので、出来る限りそれを上手く作り劉少奇が喜ぶ顔を見たかった。
 この任務に就いて以降、劉少奇の健康は日に日に弱まっていった。毎食にこの半熟卵と果物一品があったが、それだけを食べて、他のものは口に入らなくなっていった。
 張さんはその様子を見て慌てた。自分の責任でもあった。そこで張さんは上級に頼んで卵と果物を追加して貰った。その要求は許可された。
 こうして張さんは68日の間劉少奇と一緒の生活をした。そこで中隊長が張さんと交代の人間を寄越し班長とした。その人は”馬”と名乗った。

 晩年の劉少奇は床を立てず

 長期の軟禁生活で劉少奇の精神的苦悩が蓄積していったのだろう、健康が急速に悪化した。
中国建国に巨大な貢献をしたこの劉少奇国家主席が倒れるときが来た。劉少奇は妻にも息子・娘にも会うことが許されなかった。頭だけは冴えていたようだが、やがて床から立てなくなった。目も開かず口も閉じたままの日が続いた。やがて劉少奇は食事も拒絶するようになった。
 中央は「様子見」の彼に倒られるのも困るということになり、医者をよこした。中央政府所属の医者と、上海医学専門家など数人が検診に来た。その結果は糖尿病と言うことだった。北京人民医院から二人の看護婦が来た。

 劉少奇は素裸で床に入ったままの日が続いた。流動食を鼻から入れる日が続いた。
 劉少奇は自ら健康法として瓶を両手に持って上げたり下げたりしていた。
 ある時看護婦がその瓶をそっと隠してみた。すると劉少奇は両手でそれを探し、ニコッとした。その笑顔は、この数年の深い陰鬱な表情の中に始めて見せた笑みだった。

 悲惨な別れ

 69年10月のある日、上からの指示で張さん以外誰も居なくなり、そこへ警備大隊長と名乗る男が来て「中央の指示で劉少奇を移動する」と言う。そして「このことは絶対他人に漏らすな」と言った。張さんは劉少奇の運命を考えて涙が出てきた。彼らは寝台ごとワゴン車に乗せて連れて行った。
 その時の劉少奇の姿は、頭髪がぼうぼうで、身体は痩せ、顔は真っ青、目だけは上に向け口は堅く閉じていた。ワゴン車は埃を立てて突っ走っていった。その24日後、張さんは河南省開封で劉少奇が亡くなったことを知った。69年12月、劉少奇警備隊は解散した。

 今でも張さんは劉少奇のことを想い出せば涙が出てくるという。誰もが普通にはあり得ない方法でこの世を去った。かっては人生を奮闘し、中国のトップに登りつめた良き日々を残し、このような形で去っていった。

**************************

 訳者注:
(この新聞は私が大連にいたとき買ったものです。) 
  
 これが中国国家主席が如何に世を去ったかの顛末です。即ち、如何に国家が転覆されたかの顛末です。 
文革の始まる前の1959年、毛沢東は「大躍進政策」で道路から鉄釘を拾い鉄鋼生産大増産を呼びかけます。農民がもっともこれに忠実に従い農業の手を休め鉄拾いをします。又同時に「共産主義」に早く近づく方法として共同生活を強制します。これにもっとも忠実に従ったのも農民です。
 こうして年末から餓死者が続出します。農民の餓死者が最大ですが都市部でも子供達の顔が膨れていたことが記事に出てきます。道路から拾った鉄釘は役立たないことを毛沢東もやがて知ります。そうして餓死した人は4千万人と現中国政府も認めています。
 この巨大な政策上の失敗の責任を取って毛沢東が国家主席から降り、劉少奇がトップに立ちます。

 がこのように毛沢東は「文革」の名を借りてクーデターに成功します。
 国家主席が当に死を迎えようとしているとき、すぐ横の家に住みながら、同じく中国の独立のために闘ってきた同士をこのように平気で死に追いやります。最後に河南省に瀕死の病人を車で搬送させる機密命令ももちろん毛沢東以外に誰も出しようがないでしょう。
 これが劉少奇の生命を抹殺する最後の手段だったのでしょう。
 中央政治委員の林彪は危険を知って毛沢東に従う風を装い、モンゴルへ逃走途中飛行機で墜落死亡。

 建国10年目の「大躍進政策」の失政で新生中国は崩壊の寸前まで行きます。
そして27年後の「文革」で再び崩壊への道を直進。
 1972年にアメリカと国交回復しますが、それは20年に亘る「経済計画」で生産が全く発展しなかったことと、「文革」で生産が止まったため、中国そのものの崩壊に迫られ、生産を立て直すために周恩来などが提案したものです。
権力を取り返した毛沢東はしかし林彪の墜落死を知って急速にもうろく。72年のアメリカとの国交回復の時には呆けています。76年毛沢東死亡。

 毛沢東の「造反有理」は既成の権力に反抗するにはそれだけの理由がある、と言う意味です。これはマルクスの「階級闘争が社会発展の原動力」と言う考え方から出ています。逆に言えば毛沢東はマルクスの言葉を利用したのです。この指示を全国に出します。最も積極的に動かされたのが学生でしょうか。
 上手く毛沢東に利用された学生達もやがて75年頃から「階級闘争よりも”民主”がさらに大事ではないか」と言うことに気づき、その壁新聞を張り出すように変わっていきます。その学生達は登小平によって「反マルクス主義」として逮捕投獄されます。
 

 何と言うことか、中国政府は「文革は毛沢東の妻、紅青ら4人組の責任」と言う形で終了します。これほどふざけた歴史の塗り替えも人類史では他に例がないでしょう。