李信副市長の息子が語る


05/07/07/ 南方週末 編集者
















     李玉春                     李信  

 昨年7月「跪いて謝罪する副市長(李信)」が逮捕された事件。

http://www31.ocn.ne.jp/~k_kaname/text/05/hukusityou.html

 05年7月14日、450万元の賄賂を受け取ったとして無期の刑が出された。
李信の収賄工作に巻き込まれた、同名の女性李玉春の裁判は継続中だが、その弁解に対する証拠物件が無く、現在不利な判決が出そうだという。
 李信が李玉春家に送った暴力団と闘いその一人を殺めた李玉春の弟、李登峰は死刑(執行猶予付き)の判決が出た。
 
記者は今回、李信の一人息子、李昆と会って話を聞いた。博士課程の26才。

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 両親はとても仲が良かった。私は特別恵まれた生活条件であったが、しかし子供に対しては質素に生きるよういつも注意された。
 父はあまり子供のことに口出しはしなかったが、しかしとても厳格で、こちらは父の言葉を疑ったことは一度もない。私の学校の成績は普通であったが父に叱られたことはない。中学の時、休みの日に何度も父の友人を連れてきて私に紹介した。どの人も極貧の出で、きっと私に「人生は努力次第で成功するものだ」と言うことを私に感じさせたかったと思う。同時に父は私の将来に大きく期待していることも解った。
 父と始めて衝突したのは私が就職して半年した頃、父が外国へ行けと言って、私が絶対嫌だと反論した時だ。ところが友達の間では「李昆はオーストラリアへ行く」ことになっている」と言う噂が流れていて驚いた。その噂には「父の権威を使って洋行」と言う言葉が付いていた。その言葉を聞くのが嫌で私は親元を離れ北京の大学へ移った。
 父の出世は早かったようで、私の小さい時既に副市長で、両親の不在の間に訪問者が来て私のポケットに大金を押し込まれたこともある。その他各種贈り物が来た時は私はその人達の氏名を記録するのが私のつとめだった。
父の煙草好きは異常なくらいで、酒も大酒飲みだった。父は良く冗談を言ったが、周囲の人達はその冗談の一言一言にも父の機嫌を損ねないよう注意していたようだ。

 03年の正月、家族で田舎へ帰ることになった。それは毎年の行事だった。しかしその年、父は用事が出来たと言って田舎へは行かなかった。
 帰ってきて母は寝室の壁に大きな「ペテン師」と言う文字が切り込まれているのを見つけた。後で解ったがそれが今回犯罪に巻き込んだ女性、「李玉春」さんが父から鍵を借りて、父の居ない間に着けたものだろう。父はそれを知人の「李岩」夫婦がやったことだと言っていた。

 私は家に幾らの金があるのか知らない。大学を卒業して父が外国に行けと言った時、銀行は30万元の抵当を求め、そんな大金は不可能ではないかと思っていた。
 今回父が逮捕されて最初に党の検査を受けた時390万元が出てきたと聞いて、そんな大金がどこにあったのか驚いた。

 父は最近眉の上にも切り傷が出来た。父は上海へ出張に行った時、転んだと言って、母は疑わなかったようだが、それも今回の事件と関係があるのだろうか。
 そんなことがあって母も不安になり出していた時、家の門に「皆殺しにしてやる」と言う落書きがされた。さらに女の声で電話が来てすぐ切れたり、03年の10月には李玉春の名前の手紙が来た。その手紙には父と玉春さんの並んでいる写真があった。また別の写真には父とある女性の結婚届用の写真もあった。その女性の顔の部分は削り取られていた。
 さらに父が跪いて居る写真も送られてきた。母は私にはその写真などを見せたが父には見せなかった。

 父が出張で出かける時毎回携帯電話の番号を変えた。父は以前の電話を落としたという。 だが父の不在時に電話が来て、それはいつも女性の声だったが、それは玉春さんからだと後で解ったが、こちらの電話機には父が持っていた携帯電話の番号が表示されて、父の電話機だと解った。

 03年の正月が終わって北京へ向かう途中また私の携帯電話が鳴った。それは父の番号を表示していて、「あなたの父と私は上海で会社を経営しています。一度お話を聞いてください」と言ってきた。私はその頃その人を知らないし、何となく不安を感じて断った。 03年の正月以降父は酒の度が急速に増し、泥酔いしないと寝られなくなっていた。私が酒瓶を隠しておくと、父は必死になってそれを探してまた飲んだ。  

 04年5月インターネットに「李信」の名前を攻撃する李玉春の文章が出るようになった。でも私はまだ父の方を信じていた。
 04年7月22日の「南方週末」を偶然読み、私は自分の目を疑った。
それ以降私は不眠症になり精神不安定にもなった。自分の腕に傷を付けたりもした。何とかして父の犯した罪が小さいことを願った。やがて党の検査が始まった。そして罪が小さくないことが解った。  ””