”気狂い様” の 李俊民と同類の集合


05/08/04 南方週末 鞠靖

  

      

 山東省利津県の李俊民は今では”気狂様”として有名である。
 
彼が小学校に上がったとき耳たぶが一つしかなかったので、皆に笑われ差別された。自尊心が強かった彼はそれが嫌で直ぐに学校を辞めた。そして精神病になり入院した。直ぐにそこを飛び出して連れ戻されたことがある。病院には半年居た。

 1995年、彼はゴミのプラスチック回収と加工を始めた。それが上手く行って数人の社員も雇うようになった。今では村一番の成功者と言われている。
 そして結婚し2人の娘が出来、今彼は意気軒昂である。
 かって”気狂い”と言われたことで、他の精神病者達を哀れむ気持ちはとても強い。

 1997年の師走、彼は一人の聾唖者を家に連れてきた。彼の妻、韓樹霞は驚いて大反対した。夫婦の言い争いは半月続いた。聾唖者が「出て行きます」と意思表示したが、しかし李が押しとどめた。
 だが結局唖は出て行ったが、2年目に戻ってきたとき、李はまるで兄弟に出会ったように歓迎した。唖が昔の汚れた服のままで居るのを見てすぐに李は新しい服を買いに行った。
 そしてまた夫婦喧嘩が始まった。隣人の取りもちで何とかその場は収まった。
 それから次第に「精神病」「流れ者」「気狂い」等と言われる人が李の家に集まりだした。
 
 多いときには68人の”流れ者”が住み込んでいた。
 朝には彼らと一緒に公園で体操をし、彼らとともに食事をする。
 彼らの晩ご飯は饅頭二つと茄子の炒め物である。夕食が終わると古いテレビを買ってきて”カラオケ”大会もやる。

 02年に村の新聞記者が採訪に来たとき、妻の韓は驚いた。「あれ、今日の”流れ者”は綺麗な服装だ」と叫んだという。
 00年頃から逆に正規の社員が「こっちが馬鹿になる」と言って退職しだした。

 村の党幹部はこのことをよく知っている。「ぼろを着ていても良い。彼等を家に引き受けるのも良い。”流れ者全てが馬鹿でもないだろう”」等と言っている。
それに対して李は「私は耳たぶが1つしかないことで皆に馬鹿にされた。学校にも行けず、何も仕事が出来なかった。そしてプラスチックのゴミ回収で金を貯めた。現在は中国全土から取引がある。
 もし私が彼等を養わなかったら、きっとそれは社会に有害な事になるでしょう。私が助けなければ村や町にとって良くないでしょう。私は馬鹿だからこんなことも平気です」と党幹部に返事を出した。

 近隣の人が苦情を言うこともある。
それに対して李は「私はこれまで貧しくて、なにも食べるものがないことを山ほど経験しています。でもやっとぼろ回収でここまでやってこれました。国にお金を請求したことは1回もありません。でも彼らに食事を与えることができて私はうれしい。きっと私は土台が馬鹿だからできるのでしょう」と言い返している。

 ”流れ者””乞食”達は廃品の山の中に座っている。中にはうつろな目で空を見つめている。ぼろを抱いているのもいる。ぶつぶつ何かつぶやいている人もいる。
 だが誰も大声では話さないから工場は静まり返っている。
だが実際問題として彼らは仕事には役立たない。ただ食べるばかりである。

近年では近くに同業者が現れて、利益率も下がり、帳簿にはっきりと問題が現れるようになってきた。
 05年の現在46人の面倒をみている。1日の饅頭だけで150元はいる。そのほかに副食代などを考えると、仕事からくるお金だけでは不足が考えられる。妻の韓さんが帳簿を預かっていて、彼らを何とかしたい気が渦渦だが今のところ方法がない。
 李はこの苦境を抜け出るために「禁煙」をしている。この苦境を抜け出すには”流れ者”が自分の家に帰ることが一番の望みだ。
 しかし工場にたむろしている人たちの殆どが自分の名前さえはっきりと判らないという。近隣の人が自分の家の”気狂い”をそっと李家へ送ってくる人もいるらしい。
 
ある時妻の韓さんが「あなたの居ない内に全員を放り出すかも」と冗談口調で言ったら李は「そのときは俺も出ていく」といい返したという。

 李氏の母親は彼のやっていることを「馬鹿」だと言う。ただ李が子供の頃を考えると、今の李が元気でいることがそれがうれしい、とも考えている。
 
 村の党書記、劉孟峰は「李のやっていることはとても良いことだ。乞食を集め食事をさせ、寝床を与える。とても感心なことだ」として李に予備党員の資格を与えた。

 ただ党幹部としては不安になることもある。それはそこに集まった乞食達が”不穏な行動を起こすこと”や、伝染病を持ってくること、また、火災を起こしたり、犯罪者が紛れ込むなどのことを心配している。
 
 県政府民政局局長の魏登山氏は「李氏のやっていることは本来は政府の仕事であろう。 だが05年の現在、中国にはそれに関する法律はまだできていない。最近、このことが全国に知られるようになり、李氏の人気が上がる一方、当局に対して圧力をかける人がでてくるなど困ったものだ。李氏の家庭も実状が苦しいようだが、その辺は充分に考えて無理をしないようにしてもらいたい」と言っている。
 
 ところが李は「まだ彼らを養って数年です。これからも続けたい。もしこれが続けられなくなったら、そのときは私も乞食になります」と割り切った風に言う。

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訳者注:
 中国のような社会主義が福祉に関しては全く無縁・無能な社会であることがこの記事で解ります。政府も党も自分達の役割りを住民福祉に関しては全く理解していません。「党員資格」を与えることでお茶を濁すなどと言うのは、全く”お笑い”です。彼等は不穏な事態が起こらないように警戒し、権力を如何に維持するかだけを目的に存在しています。李さんを救援するよう求める住民の声を「政府に対する圧力」として”困ったものだ”と考える辺り、このような国家は正に「独裁」と呼ぶべきなのでしょう。
 
 李さんの事業が上手く行ったのは1992年に登小平が「金持ちになれる者から金持ちなろう」と言う標語で企業生産や個人生産を認めたため、このような事業が可能となりました。社会主義強固(?)の時代は自主生産は一切認められなかったため、廃品回収は不可能でした。
  
 
朝ご飯 の準備
  李俊民と韓樹霞
 毎日早朝公園で体操