社会に公平無ければ、調和無し


05/10/20 南方週末 劉慶 (投書)

先々週掲載された農村女性”勾麗”の悲劇物語は多くの人々の良心にショックを与えた。
 彼女が売春せざるを得ない人生の裏には「絶対的貧困」と「相対的貧困」とが読みとれ、その二つの大きな重しが彼女を苦しみ続けさせたのだ。
 勾麗の苦しみは中国に只唯一の話ではない。極端に開いた貧富の差は現実の厳粛な事実だ。
 10月3日の「新華社」電によると、中国第一の高楼(上海金茂ビル)で挙行された”百万元婚礼”は(実際はこれ以上の出費が費やされていた)中国の一方の極であり、他方、安徽省寿県大順仇集村の李さん家族5人の昼食は大根煮の”おかず”だけであった。
 この新聞報道の見出しには「中国社会に公平と調和があるか」とされている。

 今年度行われた党の16中央全体会議では中国には今後「民主と法治と公平と正義が必要だ」と提起された。
 もしこのことが実現されるなら、それはまさに国民大衆の歓迎を受けるだろう。
 
「中国老年報」にも、”中国社会に救助体系を作り、都市も農村も一体化した最低保障の社会福祉が必要だ”と主張している。
 先ず真っ先に、「老人、孤児、障害者救済が必要」と説き、続けて、そのためには「物質的支給」が実行されるべきだ、と書かれている。
 中国がこれを実現するには”お金”の有無を問題にするべきだろうか。そうではなくて、何を優先するかの理念が第一であろう。
 今後党が公平を実現するための政策を作り出すであろうが、私はその実現をこの目で見たい。 

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 訳者注:
 新中国建国後「貧・富」の差がなかったか、という問いに対して、「貧」だけしかなかった、」と言うのが回答でしょう。
 経済的余裕もなければ、発言の自由もなかった。社会保障や医療保障など何もなく、計画経済と階級闘争で国家が破滅しようとしていて「改革開放」が行われ、1980年代から「豊か」な層が出現しました。
 しかし法治国家でないことと国民の発言の機会がないので、行き過ぎに対する”反対”や”自己規制”が起こりません。しかし「豊かになれるものから豊かになろう」が現在の中国国家”公認”の目標です。
 
”「民主と法治と公平と正義が必要だ」と提起された。”
 つまり国家としての根本的欠陥を認識しつつあるという点は面白いことです。