中国人民大学に「國學院」設置

05/06/09 南方週末 薛涌

 昨年、中国人民大学に「國學院」が設置された。それは学長、紀宝成が本紙「南方週末」に「国学の価値」を掲載発表し、それが国内に大きな反響を呼んだ結果創設されたものだ。
 私、薛涌は「国学」の研究に反対する者ではないが、しかし中国の学問について、特に国学は中国古来の伝統を強く持った学問である故、その領域を国内に止めることなく、外国との比較など広く研究して行くことの必要性をここに述べてみたい。
 
 大学長の紀先生が本紙で述べられているのは20世紀初めに広まった学問として述べられている。しかし実際は17,18世紀の日本で既に「国学運動」が起こっている。
契沖、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤などが有名だ。初め彼等は儒学から入り、それが仏教研究となり、次第に全体が「古事記」へと移り、「日本書紀」「万葉集」へと進んだ。 彼等は日本の文化は中国より高かった、と認識した。これまでの日本の社会に各種混乱が現れたのは外国の汚れた文化が入ってきたからと考えた。「古事記」ではまだ日本文字が無く、漢字を使ってその発音を借りて表記している。全てを漢文で書いた「日本書紀」より前記の「古事記」が優れていると考えた。和歌は漢詩より優れ、「源氏物語」のリアリズムは朱子学の道徳説教より優れていると考えた。
 日本は”陽の出る国”で、神が宿り、世界の中心で、世界的に進んでいる、と考えた。 つまりこれらの人達は江戸時代の文化人で、日本文化は”漢の国”から伝わったが、その原体を抜け出してより進んだものになった、とすることに努力を払ったのだ。
 だがこれらの国学運動は同時代の人によって批判を受けている。上田秋成は本居頼長の「大和魂」の概念について批判し、”井戸の中の蛙大海を知らず”だと言った。西洋人が作った世界地図の中では日本は小さな木の葉に過ぎない。インドや中国の文化の豊富さを見よ、どうして日本の文化を自慢出来ようか、と言った。
そうなのだ。本居宣長は文章を書くに漢文を使っていた。彼の仕事は漢学医であった。彼はまた中国文化を攻撃したが、孔子については高く崇めていた。つまり彼自身中国文化から抜けきれなかったのだ。

 それでもこれらの「国学運動」は大きな成果をもたらしている。その成果は2つ有る。一つは徳川幕府が推進した「朱子学」が御用学説としてその役を全うしようとしたとき、それに対し批判を加え文化の”反逆””解放”の役割を果たした。
 その2は、国学派が外国の文化の研究を進めたこと。
 国学派の本心は中国文化の巨大さに舌を巻いていた。だが当時の中国は既に進歩を止めた”自封の境地”にいた。中国は外国文化を拒絶していた。国学派はオランダを経由して欧州外来文化を学んだ。江戸時代に日本は鎖国制度を取っていたが、オランダだけは例外扱いとなっていた。そして日本中心的思想でありながら、オランダを通じて欧州の文化を受け入れ、総じて日本から文化が発生しているように論じた。

 明治になると日清戦争に勝ち民族主義が台頭した。そうなると国学はその意義を重要視された。第2次世界大戦となり国学は軍国主義を大きく称揚した。
 紀大学長が述べられた20世紀初頭の国学は、正にこの頃の日本伝統の国学と民族主義の台頭の時代を指摘している。この時代に多くの中国学生が日本で学んでいた。彼等が帰国して現在の中国を支えている訳だが、当然彼等は日本の影響を大きく受けている。

 現在中国で高唱されている国学運動と日本の運動とは全く関係がないかというとそうではない。
現在中国の国学を研究している派は、外来の文化を受けたから中国が危険な時代を迎えたので、純粋に中国独自の文化・学術の創造が必要だと主張している。中には中国文化は「君子文化」で外来文化は「小人文化」と言う言い方もされている。
 この言い方、自国を大文化、他国を小文化という言い方は日本の江戸時代に相似している。紀校長が「国学は日本の影響から抜け出ろ」と主張しているのはこの辺のことを指している。国学派が中国の独自性や優越性を強調すると、現実離れとなる。希望だけで先走り、進歩を受け入れない。
 日本の加藤周一という人は10年前注目に値する文章を発表している。「日本文化は雑種文化である」というもので、純粋であることは不可能な性格だという。
 中国ではどうであろうか。先ずこの「国学」と言う”文字”は、「物理」や「化学」などと同じように日本から持ち込まれたものだ。
 多くの中国の現代文学は日本への留学生から生まれたという言い方が成り立つ。魯迅、周作人、郁達夫、郭沫若などの経歴を見れば、日本の影響を否定することは出来ない。 

 人民大学國學院が中国の伝統的文化の研究を使命としているが、中国文化の範囲をどの辺に括るか、それが問題だ。
「新京報」は国学の成立を報じて、国学の定義を記している。  
それは「教典」「史書」「孟子孔子」の研究が主で、中国民族の特徴と品質等を討論し、儒学・法家・墨家・兵家などに及ぶという。更に当然として仏教、モンゴル、チベット、満州族などにも及ぶだろう。

 この研究に小さな制限を設けては行けない。
 近代文化の誕生以来中国の学者達は中国文明が主で、周辺民族の文明を従としてきた。外来民族に中国文明が如何に伝わったかだけが主要とされてきた。これを「漢化」と呼んできた。
 中国文化は本来高度に発達した農業文明から生まれた複雑な「漢字」を持ち、確かに独特の優秀な文化であった。だが軍事方面では周辺国との対立を上手く処理出来なかった。
唐時代は中国文化の最高峰であった。だがその構成員を見ると他民族混血の文化であった。その社会制度はそれ以前の長期にわたる他民族文化との融合である。

 それ以降は外来民族に、その数に於いて中国の数パーセント、ときには1%の民族に征服されている。漢族の脆弱な軍事思想は何故か「兵家」思想を学んでいないのだ。そして阿保機やジンギスカンやヌルハチの支配を受けるようになった。

   訳注:阿保機やジンギスカンは10世紀から14世紀の魏       王朝、金王朝と元王朝。ヌルハチは17世紀から20       世紀までの清朝を指す。

 北京は確に長く政治・文化の中心であった。だが遼、金、元、清王朝と異民族統治が続いた。その中でただ明王朝の200年だけが漢族の支配であった。その明朝時代でさえ北方の外来民族の影響を止めることが出来なかった。
 「蒙古」や満族の「清」は政治と軍事に於いて漢族を凌ぐ高度な技術を持っていた。だがこれら異民族の支配中でさえ漢族は異民族に文化的に圧倒したと考えてきた。
 アメリカの歴史家F.w.mote は遼時代を分析し、遼は一つの国家であった。その時南方に生き続けた宋は国家と呼べる形態をなしていなかった、と指摘している。遼は帝国として中央アジアの中心であり国際秩序の核心であったと言っている。
  当時仏教が栄え、その言語である漢語がアジアの国際語となった。その結果仏教がアジア全体に広く拡大した。
 F.w.mote はまた次のように指摘している。遼は「1国2制度」を取り入れた最初の国である。遼は南院・北院制度を採用した。南院で漢族を統治した。そこで漢族の農業を主とした経済生産を生かし、そこからの税収入が遼の帝国を支えた。だが遼は漢民族の軍事が劣っていることを熟知していた。
 北院では北方民族を統治した。そこでは遊牧民族の特長を生かして統治した。両方の院を使って異なる民族の文化を生かし自分の優位を保った。南方に小さく生き続けた宋では考えも及ばない政策であった。

 現在までの中国はこれら異民族支配を、支配されながら支配者に漢文化を受け入れさせた、として考え「漢化が成功した」と教育してきた。
 だが実際は異民族が漢文化を越え、多元的文化を取り入れて異民族の統治を可能としてきたのである。

 例えば蒙古のフビライは中央アジアだけでなく、西欧の文化まで許容し、受け入れ、キリスト教も受け入れた包括的統治者の名にふさわしい支配者であった。全地球規模の統治者であった。フビライは西欧の文化を取り入れ、白銀を貨幣とし、蒙古の軍事技術を使い、イスラムの世界から貿易商人の才能を使った。これに漢族の南方の商人に彼等と取引させた。このような政策は既存の漢文化では考えも及ばないことである。当然漢文化では地球規模の統治は不可能であった。
漢文化は常に自己中心、自己保存本能で歴史を歩いてきた。

   訳注:モンゴル統治の時代になってイタリヤからマルコポ        ーロが蒙古帝国に入ることが許され北京にまで         行っています。彼は兄弟親戚と一緒に子供時代に        隊商を組んで出発しますが、モンゴル帝国に入る前       に兄弟らは全て殺されます。彼一人モンゴル帝国に       入りシルクロードを通行する手形を貰います。蒙         古が日本を攻撃した鎌倉時代のことです。
       マルコポーロは北京(当時は開封)で日本は黄金の       国という噂を聞きそれを伝記に記録します。
       黄金の御殿とは日本の東北の藤原氏の御殿と(現       存)と言われています。当時藤原氏は砂金を掘っ         ていた。金閣寺が出来るのはその後100年ほどし        てから。

 中国の歴史家は周辺諸国が中華文明へ貢献したという言い方もしてきた。しかしその考え方の基本にあるのは「漢文化」中心で、漢の文明が如何に周辺を「漢化」したかが重要な視点であった。周辺から何を学んだかは注目されなかった。
 現在中国は地球規模で成長し、関係を持たざるを得ない。そこには「1国2制度」を適用している、香港・廈門・台湾などの問題がある。そこでは違った文化・統治形態を許容しているが、そのやり方はこれまでの国学、史記のやり方を越えたものであり、中国伝統の考え方「中華」の範囲を超えた広いものにして初めて可能なのだ。

 ここで述べている問題は中国文明の範囲を何処まで広めて考えるべきか、それだけのことではない。
 日本の国学派が日本の純粋の学問を追究したが、結局中国からの影響を無視することは出来なかった。同じように中国の国学派も外来の影響を無視することは出来ない。中国の純粋の文化を追求するからと言って、古来の教典、史記、孟子・孔子のみに限定する事は出来ない。現在中国は市場経済を取り入れて国家の再生を図っているが、その制度の発生はアダムスミスなど西洋の中で生まれている。国家を守る科学技術も世界的規模で作り出されたものばかりだ。

 これまで海外から中国を研究することを「漢学」と呼ばれてきた。何故「中国学」ではないのか。それは「漢字文化」と切り離せない、或いはそれで括られるからだろう。だが現在中国は世界へ広く進出しようとしている。私の考えでは、このような時代だからこそ「国学院」ではなく「中国文化学院」が相応しいのではないだろうか。国学院という言い方は、自国の内部を意識過剰にする要素を持っている。日本でも国学派は最終的には民族主義に強く傾倒して行った。
 
 現在中国は長期の伝統という枠にこだわっている。文芸復興の時代とも言われている。
 だがこの時、外来文化を正当に評価することが難しく、自国優越の狭隘化に走りやすい。だがもし封鎖的に中国文明を研究するならそれは文芸復興ではなく、中国文化を博物館行きにするだけだ。
 
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訳者注:
 先ず「南方週末」の掲載された記事が動機で「国学院」が設置されたと言うことは驚きです。それはこの新聞が中国でとても大きく評価されていると言うことでしょう。ここに書かれた内容もまた評価に値するものと私は感じました。建国以降停止していた学問的動きを感じます。
  
 報道機関や学問が新地を切り開くような見解を発表することは社会主義では先ず無かったことです。社会の発展法則、すべての矛盾は「マルクス主義」で開明しつくされたと言明してきました。
 報道の役割は党の宣伝のみです。社会の発展は党が指導し全ての機構がそれに協力するというのが社会主義思想の原則です。
 これは今でもほぼ全てのマスコミで有効です。だからこの「南方週末」だけが特別扱いとなっています。それは上から与えられた特権ではなく、この新聞社が自分で培って創りだしたものです。「青年報」というのも少し独自性を出すようになってきました。

 今中国では4000万人が大洪水の被害を受けていますが、そのような状況さえ10年前には報道されなかったのです。

 ついでですが、6/26安徽省で1万人の暴動があり、それが6/29日の「ヤッフー中国」に掲載されました。同日、日本の産経新聞にもそれが紹介されました。
 暴動の原因は通行人をはねた運転手が車から降りてきて、被害者に暴行を加え、見ていた人が次第に増え、1万人以上となりついには群衆が交番と消防署を襲撃し、ス−パーも襲撃した、というものです。
 日本でこのようなことが起こったら全てのマスコミが報道するでしょう。でも私が追いかけたときには何も検索することが出来ませんでした。

 話を国学に戻しますが、中国は現在もほぼ全ての人が此処に書かれているような「中華民族の優秀性」を信じています(学校へ行った人)。
 他民族の支配を受けながらしかし言語や文化などで支配民族を「漢化」していったと学校で教えています。でも中国は多民族国家なのに良くそんな独善的な理論がいままで受け入れられてきたのが不思議です。国家の名前で教科書を作れば真実みを帯びるのでしょうか。逆に言えばこの記事を書いた人は党から睨まれるのではないでしょうか。
 この学問が可能なら台湾の歴史も研究して欲しいものです。

 建国直後チベットを侵略するとき「君たちを解放する」と宣言しました。これなども間違った教育がされていたのでしょう。

 日本について言えば、日本の歴史と現状の特徴を客観的に掴むことは、学問としてどのような「部門名」で行われているのでしょうか。
 その統一した研究成果が現在の学校教科書に載っていると言うことでしょうか。
 学問の研究成果とその国民的共有の在り方は難しい事と感じました。
 社会主義のように国家として上から統一見解を押しつけられても困ります。その方法では学問の進歩というものが無くなります。
 日本の戦前は明らかに東南アジアを蔑視する教育がまかり通っていたようです。
何故そのような間違った教育が国民から受け入れられたかというと、当時の日本人の平均的文化が低く、視野が狭かったかったからと思います。特に海外との関係に無知でした。戦前日本に外国人がいたわけですが、彼等は日本人の野蛮さや無知に驚愕したでしょう。
 これらから見ると、自由な研究と国民的教養の高まりで平和が創られていくのでしょうか。私はその中でも特に海外との関係の研究・教育が大切だと思います。皆さんは如何ですか。