科挙と八股文


05/10/09 南方週末 猛湯
 


1907年、外国から帰国した留学生達に対してそれまで行われた「科挙」の試験は廃止されていた。その年新しい制度で受験した学生は1388人になる。

今年は科挙が廃止されて満100年になる。そこで中国及び7つの国から学者達が集まり「科挙」とその試験で使われた「八股文」について討論会が3日に渡って開かれ、賛否両論が展開された。

1.”八股文”は人類史で最も悪劣な知識の  足枷であった。
1.いや、公平な試験をするために有効な試  験制度であった。

 ほぼこの両論に集約されるだろう。
 
 2004年発行の「中国科挙史話」には、八股文は「犬吠」のような愚民産物だ、と書かれている。
 その説によると、八股文は”出だしから終わりの構成、中身の書き方、等あらゆるものが形式でガッチリと束縛されている。一つの言葉の使い方まで形式がある。そこには如何にしようとも創造性がない”という。

この説に強く反対したのが浙江省の何教授で、「当時受験生は全国に散らばり、言葉も違い、新しいニュースさえ届かない地方の人がいた。地方の辺鄙な人が都会の受験生に混じって試験を受けるとすれば、出題の中身と回答方式等全てに形式を与えることで公平なものに出来た。現在の試験制度を見てみれば解るが、学生達は先生の言葉と文章を必死になってノートに記録し暗記している。これは人材を圧迫していないだろうか」と主張した。
 これに同意した意見で「当時、科挙に登録した人は数千万人に昇った。この採点に当たって、限られた少数の採点者故に、何か基準を決めておかなければ、必ず不公平になるのではないか」と言うのがあった。
 これら両論がお互いに激しい意見が闘わされた。だが双方譲らず、結局会議は平行のまま何時か再開することを約して終わった。
 
 アメリカのプリンストン大学教授のイヤーマン氏は「アメリカでは初めは記述式試験も規則は自由だったが、次第に学生の数が増えた結果字数を制限することになった。受験生が多くなるとこのような規則は有る程度仕方ないことだ」という。

八股文
 
 1370年、明太祖の朱元樟は科挙の「八股文」を制定。 (樟は土偏)
 それは「四書」「五経」から全て出題。
題目、経過文、結論、言葉使い、全てが形式として規則されている。文章の構成に八つの条文を超えては行けない規則があり、それが”八股文”の由来となった。

 1901年8月、清朝政府は廃止を決定。後に八股文は「陳腐で低俗」と酷評されるようになった。「無意味で陳腐な言語に満ちている」、とも言われる。
 20世紀になって改革が叫ばれ、教育に及んだ。そこでは、軍事技術者、工業技術者、政府管理者などが必要となった。八股文は技能については及んでいないので、社会の要求に応えることが出来なくなった。八股文は有害ではないが有益ではないと言うことになった。八股文を学べば、形式人間となり、封建道徳家になる、と批判された。
 
 アメリカニューヨーク大学の李弘教授は「儒教は中国においては日常の思想となっている。毎日の生活を安定したものにしてきた。しかし外国勢力が入ってきて、そのままではやっていけなくなった。そして実用的な知識が必要であると考えられるようになった。だが実際はその認識があまりにも時代から見て遅すぎた感がある」と指摘している。

即ち、1840年代に外国によってもたらされた2度の「アヘン戦争」の敗北。清朝高官、康有為は実用学問が必要として「科挙」廃止を提案。しかしその後も「科挙」の中に「経済特科」を追加したりして時代が過ぎ、やがて廃止を迎える。

 「科挙学導論」を書いた劉氏は「中国では八股文と纏足、弁髪、阿片戦争、これらの言葉がひとまとめで記憶されている。
 だが、その試験制度を作ってきた政府高官の誰も、中国の若い優秀な人材を愚民にすることを目的にこの制度を維持してきたわけではない。反対に優秀な人材を広く全国から、その人の出身と身分に関係なく、選抜するためにこの制度が守られてきた。
 アメリカの現在の試験制度でも、出題頻度を狙って学習するものが多く、それでは真に有能な学生を育て見つけ出しているかというと、問題があると言える。」
 そして今後とも人材選抜方法として、各種の試験制度が、不十分な面があっても、採用されるだろう。

 以下は世界各国に見られた影響

 英国 

1835年、中国に住んだことのある英国人、コールスは「中国人の発明したものの中で、科挙は印刷術・火薬と同じように重要なもので、欧州にも大きな影響を与えた」と称している。

 1847年、やはり英国のトーマスと言う人は「中国日記」を書き、その中に「この科挙の制度の全国民に参加を開放している面を絶賛し、この制度によって大英帝国の水準を上げ、団結を高めることが出来る」と述べている。

1854年、英国人マッキンレーは英国議会に「印度文官制度報告書」を提出し、科挙を推薦し、これによって政府職員の水準を上げることが出来る試験制度、と書いた。

1855年、英国で文官試験制度が開始された。1870年には政府部門は全て試験制度で役員を採用することになった。
 
米国

19世紀60年代、米国でも文官の採用に試験制度が開始され、主として英国を真似て作られたが、中国の方式も多く参考にされた。

1848年、ベリマウスという人の書いた「中央王国」と言う書籍の中で、「中国政府高官の多くは敬服に値する才能・知識を持っている。さらにその愛国心、正直、乱れぬ仕事の風習などがあり、それが国家を支えている」と評した。
1870年、スペールという人が「中国政府内の公開された競争の原則は、世襲制のある西欧が見習うべきだ。その試験制度には金持ちや貧しさにかかわらず、あらゆる偏見を排して公開されている」と評している。

1873年、アメリカの文官委員会は「現在のアメリカは荒廃した社会だが、中国では既に千年以上前から”徳”を説いている。彼等は書を読み火薬を発明し、かけ算表を携帯している。もし中国に宗教と帝政がなければ当然アメリカよりも進んだ国家となろう」と記している。

1833年、アメリカで参加が平等な試験制度が開始。

 日本

日本では7ないし8世紀に法律制度が出来たようだ。それは唐の制度を真似たものだ。
紀元730年以後に試験制度が始まった。

 日本では貴族政治で、世襲制度であった。10世紀以降全てを貴族が握った。試験制度があったが、それは学問をなすためではなく、名を挙げるためで、金がものを言った。試験制度も形式化した。
 11世紀に形式上試験制度があったが、受験者は全て貴族の推薦で登録者は全て及第した。
 明治になって人材発掘のために、”維新”が叫ばれ、学者神田孝平が建議書を書き、「中国の科挙を参考に、実用科目で近代日本の官僚採用に役立てるべき」とした。だがこの提案は最終的には実行されず、戦後になって学校制度の中で試験制度が実施された。

  韓国

科挙の歴史は韓国が一番長く内容も完備していた。958年から始まり1894年廃止された。
 高麗の時代に隋や唐の制度に習い、”礼部3場”、”3条蝋燭試験”、があり、毎年春と決められた。
 中国の明になって科挙が始まると、それに習って”4書5経”が科目に入った。口述試験もある。
1894年日本の侵略があり試験制度が停止された。もし日本の侵略がなければ、さらに長期に使用されたかも知れない。

 ベトナム

1075年より1919年まで。内容は中国と大同小異である。1832年に書式も”8股文”を採用と決定された。
 1884年、フランスがベトナムを支配し、試験制度が廃れた。
1906年、ベトナム教育改革委員会が誕生し、儒学に変わる新しい制度を創ることになった。
1919年の最後の試験に登録した学生は23名、科挙の制度が地球上から消えた。

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訳者注:
 明の太祖:中国大陸では9世紀から北方異民族が勢力拡大し”宋”が南へ逃げ、11世紀にはモンゴル族の”元”に国を支配され、14世紀に漢族の太祖、朱元樟が建国します。16世紀になると又北方異民族”清朝”に支配されます。

 日本が官吏登用に公開制度を用いなかったのは、やはり身分制度にこだわったせいでしょうか。
 その点韓国と中国は凄い”割り切り”ですね。ただし500年以上同じ形式の内容にしたため、次第に実用としては役立たない学問になっていました。

 この「南方週末」は中国人向けで、党の支配下にあります。その新聞が「朝鮮」と書かず”「韓国」の科挙”と記しているのは興味深いと思います。

 しかも韓国が科挙の先輩であることを明言する辺りも、この新聞の公平性を示しているように思います。
 私が2000年に学校で見た映画は、「科挙」受験学生が時代に乗り遅れた哀れな姿でした。おそらく40才近くなってまだ試験に受からず、学んだ学問は実生活では応用が効かず、生活費も無くなり、立ち飲みの酒場で盗み飲みし、やがて罰則に足を切られる物語でした。
 又清朝末に中国に開設された西洋の学校に入学する女性を描いた小説を読んだことがあります。周囲の反対が描いてありました。
 
 中国はその後150年も昔に生まれた社会主義思想をそのまま実現しようとして、悲惨な国家になったのも、学問の採用の難しさを物語るのでしょうか。

 又日本に於いて、内容はともかく、受験制度が日本の将来を背負う若者を如何に育てているかを考えると、大きな問題を抱えているのも事実です。
 現実の社会と学問と人間性などの関係は大変難しい複雑な問題です。