農民の死に様


05/01/13 南方週末  張立

 □ 出稼ぎに行った農民の一人が
死亡。仲間が遺体を背負って汽車に
乗り、1千キロの道を経て故郷へ向か
った。公安がその遺体を見て愕然とな
った。
この話を聞いた人は、ある人は鳥肌が
立つと言い、ある人は愚昧だと言う。又
ある人は実に忠義の気があると言い、
感動して涙が止まらないと言う。記者
はこのニュースを追った。

04年11月27日 湖南省衡陽市雁峰区
のある村。李紹為さんが田植えをしてい
たとき、同村のおばさんが走ってきた。
「うちの人から電話が入っているよ」とい
う。 電話の内容は「場所は福建省で、
簡単な穴掘りの仕事で1日60から70
元の仕事がある。来ないか。食費支給、
送り迎え付き」というものだった。
 電話の主はこのように村人に臨時工
の仕事を紹介している”封其平”と言う
者だった。 条件が良いので李紹為さ
んは了解の返答をした。彼は現在61
歳で、正月まで3ヶ月有り、食事は大食
いで、まだ力は充分あると自覚していた。
彼は電話を置いて、”左家平”と言う気の合う人の家に行った。
 
 これまでも左は文字が読めず賃金を騙されることが多く、そのため稼ぎに行くときは李紹為と同行することにしていた。左は話を聞いてすぐ同意し、妻が手伝って旅支度をして二人は出かけた。
 食費も通勤費も出るという話で、二人は身軽で着替えのみ用意し、身には李が50元、左は20元しか持っていなかった。汽車に乗るところまで1時間かかるので、モータバイクに乗せて貰った。一人5元。バスが1元だった。そして駅に着いた。
 駅には二人以外に街へ出稼ぎに行く農民が14人居り、固まって汽車を待っていた。
 李紹為はこれまでも出稼ぎに10年以上の経験があるが多省へ行くのは初めて、しかも福建省は遠い、左を連れて行くのも責任が重い。考えるだけでも胸がどきどきした。
 広州までの汽車賃が一番安い「硬座」で44元。そこで又他の出稼ぎ者に会った。
 彼らに何処へ行くか聞くと、李紹為とは違うらしい。彼らが言うには李紹為の行く仕事は支払いが悪いという。これを聞いて同行の人達は慌てた。
 李紹為は家へ戻ろう、と提案した。それを聞いて左は怒った。「もう既に70元も使った。何で今更他人の戯言を聞くのか」と。
 李紹為は後に後悔した。この時決心して帰宅していれば災いを招くことがなかった。
 だがの時は、同郷の仲間が大勢いるのでまさか騙されることもないだろう、と考えた。
 そして現場へ着いた。だが仕事を始めて、後悔が募るばかり。現場の土は石ばかりで、とても掘りにくい。「図られた」と思った。しかも支払い条件が変わっていた。掘削の深さは適当と言っていたのに、土の部分で80センチ、石の部分で50センチ以上だという。
 最初の出来高は10メートルで、10時間以上働いた。誰の手も腫れ上がっている。 その日の夜出稼ぎ仲間は相談した。出来高を上げない限り全員で帰省すると談判した。
 交渉の結果は単価を3.5元上げることになった。  
 そこへ多省から19人の出稼ぎ者が到着した。全員で30人になった。だが数日して帰省組が続出して残るのは10人ほどになった。
 李紹為は再度思案して帰省したくなった。「こんなに疲れるのなら、もう止めたい」と。
だが帰省する金がない。二人で70元持参して今の残りは40元だ。7日後残ったのは9人。彼らは誰も帰省の旅費がないから帰れない。夜集まって相談する内、李紹為と一緒に泣き出す人もいた。

 
 その仕事を紹介した者達の間で言い争いが起こった。一人が車を借りて全員で帰省しようという人、だが絶対それは駄目だという人。 それは今そこで帰れば賃金が貰える世話人人と貰えない人の条件の差があった。
 世話人頭はすでに全員の費用に数千元支出していた。とにかくそれを取り返すまでは誰かを捕まえておかねばならない。
    
 世話頭の劉という人が翌日もっと仕事の困難なところへ移動させた。そして宿も廃屋のような所へ移った。仕事はほとんど進まなかった。
 記者は後にこの宿舎なるものを見に行った。壊れ掛けた煉瓦積みで、家の中を歩けばぐらぐら揺れた。嫌な糞の臭いが充満していた。寝床は椅子を並べただけ、窓の破れに紙切れが当ててある。床には空の酒瓶が転がっている。
 ぼろ箱の上には不自然にトランプが綺麗に重ねられている。
 臨時工達は毎日10時間休憩なしに働いた。出来高は1日10元だった。仕事は進まず日のみ経過した。
 12月31日臨時工達は年末を祝うため酒と肴を買ってきた。左は黙って飲むばかり。その夜は異常に冷えた。朝起きたとき、また左は残り酒を飲んだ。
 翌朝劉という頭領がジープで仲間を集めに来たとき、彼らが酒に酔っているのを知って怒鳴った。「なに!元旦だから祝い酒?元旦だから火に当たって働かない!おまえ達は帰れ」と。
 劉頭領は皆を急き立てジープに乗せた。現場へ着いて車を降りようとして、左が動けないことが解った。左脚が動かない、右脚が震えている、声が出ない。慌てて頭領が救急車に電話した。30分して救急車が来てすぐに酸素吸入をし、近くの病院へ送った。
 担当した医者の話だと、この時既に瞳孔が開いていて光への反応がなかった、とのこと。
 医者は脳溢血と判断した。左はこれまでも高血圧と言われていたが、お金が無く、治療を受けたことはない。
 時間は午前の11時頃。その場は病院に100元を渡し、病人を預かって貰って、仲間は現場に戻って相談した。頭領は「李紹為が連れてきた仲間だから、もし亡くなったらおまえが連れて帰れ」と命令した。
 夕方6時、病院へ仲間が行くと病院の説明では「脳内が破裂している可能性がある。手術しても回復の見込みはあまり無い。とにかくまずお金を払って入院手続きをして欲しい」と言うことになった。
 仲間は相談して手術を止めることにした。李紹為が左の様子を見ていると、輸液管内の液は全く動いていない。
 病院としてはこの場合、治療中止するには親族の署名が必要だ。その署名に李紹為が適当かどうか検討した。退院を許可するには費用を1585元払うことが必要だ。病院の推測では退院後3時間ほどで死亡するだろうと考えた。だがそうして病院と仲間が話しあっている内、医者がふと病人を診ると、ベッドから消えていた。

 千里を背負って逃走

 仲間達は手分けして病人を背負い、エレベーターを使わず下の階へ降り、臨時通用門から病院を抜け出した。
 そのままモータバイクで駅まで走った。駅構内に入るときは毛布で左を包み、酒を吹きかけて泥酔い状態に見せた。
 車内は幸いにも人がほとんどいなかった。
李紹為としては次第に左の身体が冷えていくのが解り、どうして家族に顔を会わせようかと考えるとその夜は涙が出て眠れなかった。
 翌日早朝広州東駅に到着した。そこから広州駅までバスに乗った。仲間は5人居た。バスでも幸いなことに人目を引かなかった。
 故郷への汽車の切符を買う段になって、問題が出た。全員のお金を集めても5人の切符を買えない。
 駅のはずれにレールをくぐって構内に入る道を一人が見つけそこから進入することにした。だがもう一つ問題が出てきた。左の遺体を背負っていては客車に入れないことである。
 そこで手分けして箱や縄を探し、遺体を包んだ。その作業が終わったときに公安に見つかった。公安は病院へ連絡を取り生きているか死んでいるか確かめることになった。
 その作業が始まった頃は周囲に人の山が出来ていた。
 彼らは派出所へ連行され尋問を受けた。最初の病院へも連絡が取られた。刑事は「おまえ達は何という馬鹿なことをしてくれたんだ」と怒鳴った。

 1月2日、左の故郷にも連絡が行き、妻の陸淑梅の知るところとなった。左には二人の息子が居り、二人とも広州で臨時工として働いていた。だが、彼らは誰も父の働き場所を知らなかった。彼らとその他の親族がそれぞれ広州駅へ向かった。
家族は遺体に面会し、事情を李紹為に聞かされた。
 遺族達は、このことが働いていた職場の責任問題に関係しないかを考え、責任を問うことにして数人が福建省に向かった。会社は最初の紹介屋に聞けと言って、車で逃げ去った。
 紹介者の劉も「俺は実際お金はスッカラカンだ。公安の検死も終わった。完全な病死だよ。誰にも責任はないよ」と言う。
遺族達は工事現場に行ったが、そこでツルハシをふるって働いている人達は、誰も元請けの会社の名前を知らない。誰もが紹介者の名前だけで働いている。
 しかも彼らの言い分は、すぐにでもこの仕事を辞めて帰郷したい、だが出来高を払ってくれない、これまでに貰ったのは95元だけ。それでは故郷への汽車賃にもならない、と言う。
 家族は病院へも行った。病歴には午前11時から夜の8時までは手をつけず放置したことになっている。病院の説明は、既に脳内出血しており、手術そのものが危険で回復の望みはほとんど無く、手術には家族の同意が必要だったが、それを得ることが出来なかったからだ、と言う。
 家族達はこの空白の9時間にもし連絡を受けていれば、お金を持って飛んできていただろうと、誰もが押し黙っている。
 家族は現地の公安と労働監督局にも行った。しかし何処も無駄であった。公安は「それは広州で扱っており、ここは関係ない。弁償に関しては、公安の仕事ではない」と逃げた。
 労働局は「もう既に死亡している人の仲裁は当局はできない。これは民事問題で、争うなら司法に行け」と言う。
 だが法廷に持ちこんで争うことは、中国ではほとんど不可能なことだ。
 すぐにも故郷へ帰って葬式をせねばならず、彼らは諦めた。
最初に紹介した劉と名乗る人の住所が解り、そこへ交渉して、やっと少し効果が出た。劉は葬式代として2000元払うという。
 遺族達は相談した。もしこれが仕事上の事故なら10万元の弁償金が貰えるだろう。現場監督の責任を問えるなら、5万元は出るだろう。だが左は現場責任者の顔を見ていないで働いていた。仕事の責任系統が全く不明瞭である。そのことを考えると要求額はどんどん下がり、ついに2000元で落ち着いたのだ。
そして家族達は広州を離れ故郷に戻った。
 
 李紹為はそのご病気がちだ。咳が出、風邪気味の熱が出る。頭が痛い。
左の家族達にとって見れば李紹為の責任を問いたくなるが、彼が泣き崩れているのを見ると、それも出来ない。李紹為は「俺は左の一番の仲良しだった。その俺が左を騙したり、悪いことをするわけがない。左が俺を恨んだりするはずがない」という。一緒に広州駅まで行った仲間はいつの間にか消えていた。
 李紹為は1千キロも遺体を背負って苦労したことを思い返し、反省しきり。「これからは何があろうと、自分のことしか考えないぞ。たとえ出稼ぎの良い話があっても、俺一人で行く。仲間を誘ったりはしない。これが俺の得た教訓だ」と語っている。


そしてその後の李紹為は以前の陽気さを失い寡黙の人となった。又突然「毛沢東がこう言った」等と言い出すこともある。
 この事件を新聞で見た深浅の阿という人が感激のあまり涙が止まらず、李紹為を哀れと思い、彼に1月500元の農地作業を提供しようとした。ところが李紹為は阿さんを単なる「仕事の紹介屋」と考えてか、500元を600元に上げろ、と要求した。阿さんは李紹為さんに老後の為に適した簡単な作業を与えようとしたのに、その意義を理解して貰えず残念だと、苦笑している。
1月9日李紹為はその現場で働くことになった。記者が尋ねると、草取り中で、そこで働くようになって、幾つもの新しい経験をしたと言って喜んでいる。初めて携帯電話を見た、初めて寝床を見た、初めてシャワーを浴びた、初めてテレビカメラを見た、等と愉快そうだ。
 「私は故郷の人だけが信用できると思っていたが、余所でも良い人がいることが解った。あなた方南方週末の新聞記者も信用できます」と顔中を皺だらけにして話してくれた。上を見た顔は菊のように明るく記者は初めて彼の笑顔を見た。

 1月8日、左さんの葬儀が行われ、108元の死体衣装代を払い、460元の骨壺代を払い、家族が静かに見守る中、火葬の後、骨壺が紅布で包まれた。
葬儀直前、家族は左さんの生前の写真が一枚もないことに気がついた。遺体の顔写真をデジタルで撮り、それを加工して息子の開いた目を入れ、目を開いた生きた顔にした。
 その写真は事情を知った専門店が無償で作り、これらを合成して遺影にした。
 それが左さんの人生での唯一の写真となった。

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訳者注:
 中国での平均的賃金は都市で1月1000元前後。農民は正規の労働者になれないので、その半額くらい。これから李紹為さん達の賃金の高低を想像してください。(お金を公安に積んで都市住民権を買うことは出来ます)
 中国での労働条件は、これまでの50年間規則がなかったので、(全て国営だった)又法規国家を目指したのが90年代末なので、まだ元請けの責任系統や宿舎などがはっきりしていません。

この記事のように農村から出稼ぎ者を呼んで働かせる「紹介屋」というのが現在の中国の大きな経済発展を支えているのでしょう。
 それが出来るのは責任と義務が法規的に決まりがないため、無責任に請け負えるからです。
 又他方、都市労働者は都会で働く農民を見た時、90年代初めまでは「分配」制度で、国家の名前で就職しており、誇りが高く、農民を、他の職場の人さえ低く見るという社会主義的意識が強い。

 公安や労働局は農民が訴える前に、自らがこのような労働現場があるかどうか調査するのが本来の役目ではないでしょうか。
 だが彼らは党員が主で、民衆の上に座っているだけ。まじめな党員学生が就職して半年で賄賂で動く人間に変身。

 司法制度は大衆の救済を目的にしていないので、国家の安定を図る、ほとんど一般大衆にとっては無縁のようです。

 農民は現在でも政府の保険制度が適用されて居ず、最近は少しお金が有る人はアメリカの保険会社に個人として加入しているだけなので、この記事のように、重大な手術は農民には受けられません。逃亡有るのみ。
 結局農民達は政府から公的な援助は全く受けることが無く、葬儀さえ有料で、反対に無名の市民が善意の提供をしている。これが中国社会主義の50年という長い歴史の成果です。
 1日働いて10元。(150円)この金額を頭に入れておくと中国の農民の身分がよくわかります。同時に党幹部が賄賂で貰っている金額の巨大さが理解容易です。 
 貴方はこの金額の尊さを知って1日800元(1万2000円)ほどの旅館に泊まれますか。
 
広州東駅の遺体
人民病院に立つ
李紹為さん