静まりかえる「虎頭」

05/07/14 南方週末 王遠昌

 1932年、日本軍は中国東北侵略の拠点としてウスリー河南岸に巨大な地下要塞を造った。場所は北緯46度、東経134度、海抜500メートルに位置する。地名は「虎頭」と言う。周囲には虎北、虎東、虎西、虎囁等の山脈が連なる。その頃はウスリー北岸、イマン市にはソ連の軍事基地があった。
 地図上でも此処は探しにくい地点となっている。
 
 永久の要塞とするため日本はハルピンから鉄道を引き、ウスリーや黒竜江に沿って地下軍事基地を造ろうとした。主目的は対ソ連戦にあった。
 1939年には基本工事完了、飛行場や戦車基地、宿舎などは1945年に完成した。

 工事計画担当者の話によると、地下は2重3重に層があり、蜘蛛の巣のように連絡通路があった。最上階でも地下10数メートルの深さが有り、最下層では100メートル程度の深さがあった。地下通路は車が通り、タンクや大砲を運ぶ道幅があった。
 全体は鉄筋コンクリートで構成され、壁の厚さは3メートル有った。最下層には指揮所、弾薬庫、燃料庫、兵舎、医院、発電所、食料倉庫などがあった。

 2000年以来、中国日本合同の地下要塞調査団が組織され、これまでに3度の調査が行われた。残された構造図と同じものが確認されている。
 地表は沼や森林で覆われ、幅約16キロメートル有り、通信室、発電所、上下水道、将校休憩所、40ミリ口径の大砲なども確認されている。大砲は当時アジア一の巨大なもので、東京から運ばれた。射程は20キロと言われソ連の極東鉄道やイマン鉄道の破壊を狙ったものだ。
 当時日本側はこの要塞を「世界一現代化された攻撃基地」と称していた。

1939年の基本工事完了後、関東軍の122個師団、約8000人が投入された。司令官は倉持周蔵少将。1941年の最大陣容時には1万2000人が配備された。
 1944年になって南方の戦場が米軍から攻撃されるようになって兵力がそちらへ回され約2000人に減っている。このころ倉持少将は厭戦気分に陥り、毒入りの酒で殺されている。西脇大佐が役を変わった。
  
 近辺の住民は全て強制疎開させられ、基地周辺には紅ペンキで立ち入り禁止区域を表示し、昼夜警備の兵士が立っていた。

ウスリー河で漁業をするものは日本軍指定の服装を着、一カ所に停止することは禁じられた。有る農民が山に柴を取りに入り、日本軍に斬り殺され、遺体を焼いた後、見せしめに路上展示された。

 専門家の推計によるとこの巨大な基地造成には毎年数万人の人手が必要である。そして分かったことは工事人は遠方から連れてこられ、200人単位で一つの簡易宿舎に寝泊まりし、朝3時出発、夜9時点呼して帰還という工事が強行された。受け持ち部分の工事が完了すると、彼等は薬殺された。
 殺人現場付近には500台のモーターバイクや火薬庫があったと付近住民が言い伝えている。
 最近付近の住民がこの辺りに鉄屑を拾いに入り火薬に点火し、馬車もろともに飛び散った。
 この基地にいた日本兵士”岡崎哲夫”は生き残って「日ソ虎頭決戦秘録」を記録している。その記録の中に「連行された中国人は山東省が多く、彼等は労働が苦しくて不満が絶えず、ウスリーが氷結したとき対岸のソ連へ逃げようとした。が、途中で日本軍に見つかり大半は射殺された」と書かれている。
 さらにその書には「昭和18年、要塞完成記念の宴会が開かれ、強制連行者にもその旨が告げられ、彼等を騙して山の中の窪地に集めて集中砲火で殺し、埋めてしまった」とある。

  虎頭の探索

 1932年、日本軍がハルピンから虎頭に鉄道を敷くのを知って抗日連合軍は疑問を抱いた。付徳海という抗日戦士が気狂を装って要塞近くのお寺に住み込み情報を中ソへ送った。ついに日本軍に逮捕され過酷な拷問を受けたが証拠が掴めず、20日後釈放されている。
 その他に3名の戦士が手品師や左官に化けて要塞に潜り込んでいる。その内2人は5年の偵察活動を全うした。
 李松春という人も牛乳売りとして日本軍に近づき、言葉が理解できない風を装って多くの情報を得ている。
 
 1945年7月19日、中国共産党中央の命令で八路軍秘書長の李克農がソ連に渡り、解放後について打ち合わせをし、ソ連第10先遺飛行隊が虎頭へ攻撃を与えている。
 先遺隊副隊長の安哲民は日本の川辺三郎を待ち伏せ攻撃し、彼の衣服を奪って日本軍になりすまし、要塞内部に入り指揮室・浴室・弾薬庫・発電所・給水庫などを見、無事に虎西山に戻っている。かれはその後の戦闘で要塞に入りケーブルの切断を実行し、これが後の戦闘を極めて有利にした。


 1945年8月9日、ソ連の本格的攻撃が始まり、ウスリー、スンガリなどの拠点を確保した。8月12日には第2次の攻撃が実行され、日本軍の攻撃能力を不可能にした。
 この戦闘で生き残った日本兵士”岡崎哲夫”はこの時の模様を「毎日戦死者は激増し、地下要塞出口や通路等には遺体が積み重なって倒れていた。遺体には血が飛び散った痕があり肉が千切れ、すぐにウジ虫が湧いた」と書いている。
 8月15日ソ連は地上を占領し地下への空気孔を通じて手榴弾を投げ入れ多数の死者が出た。だが日本軍は地下要塞の堅固な構造に守られ、抵抗を止めなかった。

 この戦闘に参加した日本軍兵士”山西栄少尉”は日記に「8月15日の昼頃日本が無条件降伏したとの玉音放送を聞いた。しかしそれが真実とは誰も信じられなかった」と書いている。

 ウスリー河対岸では灯火管制が解除され「反ファッシスト勝利」の叫びがこだまし、至る所で歌い踊る姿が見られた。

 8月18日、ソ連に逮捕されていた日本軍の”虎頭港局長、毛利”氏と中国地下党員”崔老道”の2人が要塞に入り投降を勧めた。
 日本副官、中野利は毛利氏を叛徒、国賊として刀で斬り殺した。日本軍が崔老道に伝えた回答は「日本軍は投降無し、討ち死有るのみ」と言う言葉であった。
こうしてその後1週間、ソ連軍の猛攻撃が続いた。
 当時13才で八路軍に参加した馮氏は「要塞に入ると至る所死体の山であった」と言っている。

 戦闘は17日続き、日本軍死者1380人、捕虜53名、日本軍家族の死者600人。
ソ連側は1490人の戦死。これは中国東北でのソ連戦死者の18%に当たる。ソ連少将ビノクラフコフもこの戦闘で亡くなっている。
 8月26日に地下に隠れていた2人の日本戦士の遺体が見つかり、要塞の攻撃は完全に終わった。
 2004年10月、元国家軍委副主席の遅浩田が激戦地の跡に「第2次世界大戦此処に終わる」という記念碑を建てた。

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訳者注:
 虎頭地域に関するニュースが日本のマスコミには登場していないと思って翻訳しました。もしどこかで見られた方がありましたら教えてください。
 日本の大陸での軍事行動について書かれていますが、あくまで事実に基づいて冷静に記述されていると私は思いました。(反日感情を露骨に描写することも出来る内容にもかかわらず)
 中国大陸での軍事行動について日本側で何処までが報じられているのか良く分かりませんが、この記事はずいぶん身近な場所で身近な人達で戦争状態が有ったことが理解できると私は思いました。

 「中国東北」を侵略するとき、日本政府は「5族協和」と言う表現を使って、大陸に多民族共同の平和な社会を築くという宣伝文句を使いました。しかし建設当初から山東省という現場から1千キロ以上離れた所から中国人を強制連行したわけで、日本政府の実行の内容と宣伝文句が全く関係なかったことがこの記事でわかります。
 図書館でたまたま見た戦争前の写真によると、ウスリー河の向こうにロシア人が街頭でダンスをしたり、男女が交ざって泳いでいるのがありました。当時の日本人が見たら本当に驚く景色ではなかったでしょうか。
 そして終戦が来て河の向こうで万歳を叫ぶ姿をこの記事が書いています。

 今年になってこの大河の近辺で、中国・ロシア両国の未確定の領有地を確定する協約が出来たことが中国の新聞に載っています。
 敢えて言いたいことは、日本も中国との政府間で両国が信頼される間柄になって、その関係の下で貿易や企業活動が行われていく状態に早くなって欲しいことです。政府のトップが信頼されないで、ただ企業活動だけが黙々と進行するのは、本当に望ましい日本外交でしょうか。