故郷に帰り、祭礼を見る

05/06/23 南方週末 葛青(広州)

新暦4月初めのお墓参りを一般には「掃墓」と言っているようだが、広東では「拝山」と言う。
 私と夫と2才の息子「熊熊」が連れだって夫の故郷の「拝山」に出かけた。
訳注:中国では小さな子供を呼ぶ時、名前から一字を取って重ねて呼ぶ。「明明」、「蘭蘭」とか。


 雨の中、朝早く出かけたが到着したのは午後一番だった。
 おじいさんお婆さんの家は昔のままで、土地も少しあり、今でも畑に出かけている。その収穫の内少しは自分達で食べ、他を売りに出している。
しかし村のほとんどの耕作地は昨年地元政府に収容された。昨年の旧正月に私達家族揃って来た時は収容の直前で、村道には葛が植えられ、所々に水牛が見られた。明るく太陽の照る下でのんびりと散歩が出来、それは本当に「牧歌的」の言葉がぴったりだった。
 お爺さんはトラクターを指さし、「あれが全ての畑を工場にしてしまうのだ」と言った。 その代償として農民達は一人1万元を貰った。お爺さんにとって、人生の全てだった土地を1万元で引き渡すことが良いことか悪いことか、心は複雑であったと思う。私の「熊熊」にとっては、もう一生水牛に会え無くなるのかも知れないことだった。

 お爺さんの語るところによると、既に都会に住み移った人達も収容の話を聞いてたくさんの人達が戸籍を村に戻したようだ。少しでも「収容代」を貰うためだ。
 今年の正月には既に村の至る所に工場とその関連施設が建っていた。出会う人達の言葉は地元の方言ではなくて、臨時工として働きに来ている広東地方の人達の方言だった。
 私が都会に出る前に大切にしていた柿の木や野菜の畑も、もう全てアスファルトで固められていた。
 これまで墓参りに返ってきた時は、お爺さんお婆さん共に畑で忙しそうだった。だが今年は仕事が無く、家でテレビを見ている。70才を少し超えたお爺さんは少し”ぼけ”が見える。
 
 やがて親戚一同が墓参りに集まった。この村での「拝山」は大層なことで、何しろ全村の半分が「劉」の姓なのだ。つまり500年前に祖先がここに来て住み着き、それから次第に子孫が増えたと言う訳だ。
 1年に1度、こうして全親族が集まる。私が結婚した時も此処へ来た。男達は祭礼の道具を揃え、「鞭炮」(爆竹)を鳴らす。女達は「水瓶」を持ち果物や菓子を並べる。それはまるでピクニックのようだった。全員揃って村はずれの墓場まで歩いて行く。その途中に何カ所も祭礼し、爆竹を鳴らし、供え物を置いたりした。墓に着くと周囲を掃き、爆竹を鳴らし、やがて全員揃って帰宅となる。
 その時村の人は私に「こうして全員が揃うと皆さんの健康と繁栄の様子が分かる」と言った。その話を聞いてから既に8年ほど経つ。あのときおむつをしていた赤子が既に学校へ行っている。その間にさらに別の子供達も生まれていることだろう。今日は村のどの家も生気が満ちて賑やかだ。 

今年の墓参りは例年通りには行かない。というのはもう墓は姿・形がない。整地されてその上に陶器工場が建っている。それで行列も簡単になった。墓には行かず、親族の3軒を回るだけになった。お供え物は「焼き豚、鵞鳥、米、お菓子、果物、お茶、お酒、紙製の飾り」等だった。これは例年と同じ。
 「熊熊」は墓参りが始めてで何を見ても新鮮らしくうれしそうだった。
 私はと言うと、私の両親は墓参りのようなことを迷信としていた。家には古いしきたりは何もなかった。だがその両親とも今は亡くなって数年になる。だからこうして夫の墓参りにだけ出かける。でも皆で墓参りに行くことが楽しい行事だという気持ちはある。自分自身の身体に伝わって刻み込まれている祖先の痕跡、それはどこかに少し残っていると感じている。

子供の頃は世間の古い習慣を断固廃止してみせる、と言うような考えがあった。しかし学校へ行っていろいろと本を読むようになって知識も増え、考え方も廣くなったのか、墓参りの習慣も受け入れるようになった。
 誰にもその人なりの生活方式があっても良いのでは、と言う程度の感じに変わった。

 ところが夫の両親の墓が全く消えてしまったのを見て、すこし心は穏やかではない。両親の安息所、心のよりどころ、やがて両親達が埋葬されるべき土地、それらが消えてしまったのだ。今年、墓参りの場所が無くなった。来年はどうだろうか。きっと毎年その行事は簡単化され、単純化されて行くだろう。
 やがて墓参りそのものが無くなるのではないだろうか。やがて「墓参り」があったこと自体が人々の頭から消えてしまうのではないだろうか。
 私達の祖先とはどこから来たのか、私達の祖先はどのような人だったのか、私達は将来どのようになるのか、これらを具体的に考えることは不可能となるだろう。
 
 こう考えて私は両親を大切にしなければと考えるようになった。彼等が伝えてきた”しきたり”も大切にしたいと。

 私は「熊熊」に「今、お前が爆竹を鳴らしていることは、それは祖先の人に届くようにしているのだよ。やがてお前の子孫がお前に届くようにしてくれるのだよ」と語ってやった。
 上海への帰宅路、「熊熊」が「清明節」を心に刻んだかな、と期待しながら子供の顔を見ている。

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訳者注:
 この記事はとても複雑な内容を持っています。
 一つは人類全体に共通の問題、”お墓のあり方”を考えさせています。他方同時にこの記事は中国独自の大問題、”お墓も政府の都合によって簡単に整地できる”という問題です。

 農民から耕作用地を取り上げて1万元を渡す。1万元は都会での1年分の年収です。それは農民にとって大金かも知れません。しかしまだ若い人はどうなるのでしょうか、都会への出稼ぎしか生きる道はないでしょう。都会へ出れば1万元はすぐ消えるでしょう。
 都会へ出る時「戸籍」は市民と共通にしてくれません。だから法律上は定住できません。隠れて稼がなければなりません。ただこの1年は、都会にいる農民への暴力的収容は記事に載っていないので、国際的批判を受けて自粛しているのでしょう。
 
 さらにこの記事から中国について少し詳しい方は驚く内容があります。それは中国に「お墓参り」の習慣が残っていた、と言うことです。
 新中国建国後、宗教上の習慣は「資本主義的」として決定的に、全国的に廃止されたことになっています。しかし実際は都会から少し離れると葬式も墓参りも残っています。
一時廃止していた農村も1992年頃から復活したようです。
 
 同じ中華系の台湾では、葬式は都会でも大々的に演出します。トラックを並べ楽隊を乗せて市中行進します。
 1日に何回も葬儀の行列がにぎにぎしく行進することがありま。
 勿論4月の「掃墓」も会社が休暇となって皆さん故郷へ行きます。
これは台湾全体で民族大移動みたいになります。だからこの時高速道路は猛烈な渋滞です。

ピクニック(春遊)と言う言葉も意味深長です。建国前はこの言葉がありました。しかし建国後はこの言葉は消えています。人々がピクニックに行く、このような生活は無かったからです。それは「ワイルドスワン」等を読んで貰えれば解るでしょう。常に隣人を気にし自分の子供さえ信用できない社会状態で、貧しさもあり、学校から遠足も消えていました。30,40歳代の人はこの単語を知らない人が多いそうです。95年頃から徐々に行われるようになってきました。小学校と中学校の修学旅行はまだ実行されていないのではないでしょうか。

 少し話が飛びますが、先日中国人との話し合いがあり、日本の女性が「私は”家庭婦人”です」と紹介したら、先方の中国人女性が「中国人と紹介しあう時は”家庭婦人”と言う言葉は使わない方が良い」と言われました。その理由は、中国では学校に全く行けなかった人がたくさん居ます。その人達は文字も読めず、仕事にも就けません。そういう人達を”家庭婦人”と称しているので、それは軽蔑の意味もあるから、と言うことでした。
 
 さて墓に戻ります。このような社会制度を超えて、「墓参り」が時代と共に消えていく、と言う問題をこの記事はすばらしく明快に提起してくれています。
 やはり祖先を偲び自分の来た道を考える時具体的な「墓」が必要ではないかと、この記事が問うています。大勢の親族の健康を確かめ合うことが、各人の生活をも健康にするのではないか、そういう「皆と共に生きている」ことを理解できる子供になって欲しいと言う親の気持ちでしょう。

 日本でもお墓を受け継ぐ人が急速に減っていることが問題になっています。日本の場合は子供の数が減って居ることがその最大の理由だそうで、親子3代下れば墓の守りが無くなると聞いています。
 また、海上に骨灰を撒く、などの方式を採る人も増えています。田舎にお墓があっても、遠くて実際は行けない、と言う人も居ます。

 中国では同姓が多いので家系図を大切にし、血縁結婚を避けます。孟子の子孫とか諸葛亮孔明の子孫とか中国には良く聞く話ですが、この記事のように500年前の祖先を偲ぶことが出来るというのは、、凄い話と思います。民族の歴史、祖先の歴史を具体的に理解できます。 
(台湾で葬式に”陳”姓の人が200人集まったそうです)

 日本の場合教科書から消されつつあるという戦争の事実を子供に教える場が家庭に頼るようになって来ているのでしょうか。
 墓参りで、親とその親の代のことを話す時が具体的な材料になるのではないでしょうか。