田亮:(アテネとシドニーで高飛びで1位)
  
不 自 由 な 青 春

05/02/03  南方週末 李海鵬

 05年1月30日、記者は上海の
飛行場に降り立った田亮氏にイン
タビューした。かれはこれから杭州
の服飾関係の宣伝業務に行く途中
である。

 アテネオリンピックが終わって半年、
田亮は中国国家による最初の除名処
分を受けた選手である。
 この処置の根拠は96年発布の
「オリンピック選手の無形資産は国家
に所属する。国家運動員が宣伝広告
に出る場合組織の許可を受けること」と
言う通知による。これに反し田亮は香港
の企業「英皇」と契約し広告掲載に応じた
 アテネでは中国の選手50名が金メダル
を得た。彼らのほとんどは国家の規制を守
っている。しかし数名は企業広告に出ている人もいる。では田亮との差は何なのか。
 彼の仲介者、劉氏の話によると、「田亮は他の選手よりも国民的人気が高い。そのような個性を持っている。これを宣伝に生かさない手はない」と考えたと言う。
 中国には高跳びの選手でレベルの高い人は多い。だが彼はその中でも飛び抜けている。

 現在26歳の田亮、既にその道の人間としては若くない。だが、次の北京オリンピックも彼の入賞は期待されていた。だがオリンピック直後すぐに前褐企業との高額の宣伝契約が行われた。つまりヨーロッパサッカー界の「ベッカム」になったのだ。
  香港企業「英皇」との契約は3年で1千万香港ドルである。この金額は企業にとって組みやすいものだったようで、他の企業もいくつか名乗りを上げている。有る体育娯楽企業は1500万香港ドルで呼びかけた。
そこまでの経路はベッカムと全く同じであるが、違いはその先にある。ベッカムの無形資産は国家でもサッカー協会でもない。ベッカムを幼少から育てたのは彼の叔父である。国家は何も関係していない。
田亮はオリンピックが終わって後4ヶ月の間に30個の宣伝活動に応じた。その数は他の選手と比べ1桁多い。
 05年1月26日、中国水泳協会の李主任が「田亮氏の行動は規約違反」と発表。他の選手との差は、彼のみが上納金を納めていないことにあると言う。
 規約によると宣伝等の報奨金の収入の70%以上を納めること、およびその他についても国家の指導を受けること、となっている。

彼の個性を買う方の企業の言い分は違う。ベッカムやその他欧米で宣伝に引き出されている人の「理由」はオリンピックの成績もあるが、一番大事なのはその「美しい顔」にある、という。最大に価値を引き出しているのはその「顔」らしい。その顔が街頭に出て、商業的宣伝に役立つ、との主張だ。

 香港で「田亮」を宣伝材として買ったメディアの楊氏は「田亮の笑顔は輝き、純真爛漫だ。誰もが寄りたくなるすてきな顔だ」と言う。
 だが、国家水泳協会では如何なる外部の仲介人などとの接触は許可していない、としている。 実際にはこれまでも他の選手は仲介人を通して外部と接触している。だがそれは黙認されてきた。その非を咎められたのは田亮が最初だ。

だがこれ以降の進展は田亮にとって不幸に動いた。田亮の仲介人の一人、劉氏は元モデル界の人で、今も自分の宣伝は自負に満ちている。その劉氏が田亮に「私の人格は国家のものではない」と発表させ、これが国民の反感を買った。
 また昨年末、東南アジア津波が来たとき、被災者が多数続出している同じマレーシアの海岸で写真集を作る旅にいて、インターネットに「非人道的」などの非難のメールが集中した。だが現場は震源地から2千キロ離れていて、災害は見られない地点であったという。
 
 田亮は自分を社会的知名人と考えているようだが、それは違う。我が国は挙国体制の国である。田亮は国家という枠の中の人間だ。 昨年10月侠西省で小学校建設資金募金の活動に田亮も参加した時、彼はある「服装会社」と同行した。当人は善意のつもりだったが、それは水泳協会の大きな批判を受けた。
 1/26日水泳協会の主任は「田亮は自分を有名人と思っている。しかしその為に必要な自己を厳格に管理することが出来ず、社会に大きなマイナスの影響を与えている」と公表した。
 ここまで国家と対立している以上、彼の態度は従順になるか、或いは自己の道を進むかのどちらかだろう。


 田亮が国家から体育界を閉め出されたことは、2000年頃からの大きな流れとして現れている。運動選手は次第に商業演出面で大きく取り上がられるようになってきた。
 同時に選手達自身が個人としての価値観と欲望を膨らませてきたのは明らかだ。
 
 だが体育協会はすでに北京オリンピックが迫ってきているこの時点で、金メダルを数多く取ることを至上命題として科せられており、如何にしてもこれに応えねばならない。

 選手の無形資産の「国家管理通知」が発せられて以降9年、事態は変わり、しかし人の意識は変わらない。これまでは選手が広告に出たとき、大目に見ることで事態に大きな波が立たなかった。01年、中国サッカー団が世界大会の決勝戦に出たとき、選手の多くが宣伝に登場した。だがどの選手も協会に相談しなかった。
 体育局の有る高官は「このような商業時代に入った以上、少し国家の側も態度を再考慮し、管理をゆるめ、商業広告と共存する方向を見つめるべきではないか。実際上水泳協会は長年の古い考えを今や改変する時代になったことを理解し、田亮も協会と話しあう態度を示すときではないか」と言う。
また別の人は「無形資産」の意味する範囲、境界をより明確に規定しなければ、このような問題は続出するのではないかと言う。
 運動選手が国家に育てられているのは明確で、それは今後も変わらない。だが、では選手の人生全てが国家に従属するのか、その辺の区切りも選手の人格を考慮した契約の考え方を取り入れるべきではないか、という。

 この事件は今後中国が運動の世界で発展していく過程の一つの曲がり角を意味しているのではないか、と指摘している。
 田亮と契約している「英皇」は契約続行を強硬に宣言した。

 国家体育局総局副局長の李富栄氏は「運動選手の才能は訓練が3、管理が7で作られる。常に管理が必要だ。オリンピックが終わった中間期も管理が重要だ。そこで必要なのは隊としての規律で、スターなどは何の役にも立たない」と明言する。
 1984年にオリンピックの飛び込みで金メダルを取った周継紅は上記の考えに同意し、現在も21年前も環境は何も変わっていない、毎日毎日競技への努力、これのみだ、と言う。



(以下は国家の除名を受ける寸前に記者に    語ったもの)

”私はアテネから帰国して、この10数年の疲れを癒したいと思っていた。それまでの私の人生は朝6時に起きて10時に寝ることを義務づけられていた。だが今は全く自由に何処にでも出かけられる。宣伝のために全国に出かけている。これまでは旅行などしたことは無かった。
 私には童年というものは無かった。友達と遊んだことはない。教室で一緒に学んだこともない。全て教練の先生と1対1の訓練の人生だった。水泳の訓練で会う隊の仲間と普通の友達とは違う。隊の仲間とは、私が一歩進歩すれば一歩仲間と離れる。世界的水準に達したとき、それは孤独の頂点だった。
 私が有名になったとき、私の文化的水準は普通の青年と比べてあまりにも遅れていた。隊の青年達は誰もこのように自分を卑下しているだろう。このことは今初めて私には解った。家庭生活の知識は全く持っていない。それは私が馬鹿だからではなく、私の青春の全てを一つの事業、体育に捧げたためだ。
 もちろん私の幼少の頃は知識の豊富な風格のある人間になりたいと考えたものだ。でもそれとは違う道に私は連れて行かれた。
 でも、オリンピック後は食堂に行って、料理の名を覚えた。それまでは料理の名前は聞いたことがなかった。ホテルも数多く知った。汽車の切符を買うことも知った。買い物では「値切る」ことも知った。人と人の間には「心が通う」ということも知った。隊の仲間とは理解し合うということはなかった。人と話しているとき、その人が気持ちよく聞いてくれているのかどうかも解るようになった。
 最初の撮影会が有ったとき、群衆の要求するままにポーズを取ることで精一杯であったが、今はそれにも慣れた。

 2000年のシドニーオリンピックで高飛び込みの優勝を得たとき、教練の先生が「広告宣伝」に出たら10万元貰えるぞ、と言われた。10万元は金メダルの倍額だ。アテネで優勝すれば合計10万元が貰えることになる、と考えた。そのころの私には金銭の価値がまだ解らなかった。そのまま多くの宣伝に使われた。宣伝の旅行は切符も食事も企業負担で、しかも私は英雄扱いであった。私はそれだけで「こんな幸せはない」と満足していた。そして貰った「礼金」は全て親戚や仲間に上げた。母は自分の分も蓄えなさいと忠告した。それ以降、私には天文学的な広告協力費が入ってきた。でも私の得意は水泳だ、と考え直し、アテネに向けて練習を再開した。
 アテネが終わって私は又考えた。これからの人生はまだ長い。外面の世界は広い。もっと豊かな経験をしてみたい。
今のところ、今年9月の国内全国大会までは高跳びに集中したい。
 だがスターとしての生活とその適応性が私には有るようにも考えている。
 スターの道は死にものぐるいで訓練するという必要がない。体育界は少し気を緩めるとあっという間に数十人が私を追い抜いていく、それは残酷なものだ。


     **************************
訳者注:
 挙国体制の国家で如何に選手が育てられ、位置づけられているかがよくわかる記事です。そして05年の現在、その挙国体制の国家にいる人達の世界にも産業が発達し、各人の生きる世界が広がり、自己意識が芽生えてきていることが解ります。
 もちろん北朝鮮の場合まだここまで自己意識が芽生えていないと思います。
それは「北朝鮮の賭博場訪問記」に登場した職員の賃金に対する意識で明らかでしょう。
 「全てを国家のために」捧げる、と言う考えでした。
 (北朝鮮の賭博場は中国が出国禁止したため、営業停止の状態だそうです)

 中国がこのような思想で「国家」の意のままに人間を管理しようとするとき、それは社会の発展がどうしても遅れる、歪む、或いは後退するということになります。人間の可能性は無限であり、管理できる性質のものではないからです。
それがこれまでの社会主義の崩壊で立証されてきたことでしょう。
 
 昨年紹介した中国映画では、農村の校舎さえない小学校にオリンピック選手を見つけるための役員が来て、早く走る子供を北京へ連れて行くところがありました。親にも知らせず、校長までが「これは名誉なことだから親も喜ぶだろう」と言う場面がありました。
 ここまで徹底した挙国体制を肯定する意識がまだ中国には根強く残っているのでしょう。日本の親なら子供を奪われて泣き叫ぶでしょう。もちろん中国には国民の権利を守る司法制度がないため国家を訴える方法もありません。
 挙国体制の良いところは貧しい国で世界に名前を挙げる人を育てる方法です。特殊的、一時的な手段でしょう。この方法を常時使われては国民の側にはいつまでも生活が豊かになりません。でもたとえ一時的でも、その選手自体の生活は本当に悲劇そのものです。

「隊の仲間とは、私が一歩進歩すれば一歩仲間と離れる。世界的水準に達したとき、それは孤独の頂点だった。」
 これが意味していることは、中国社会主義の目指しているものが人間の幸福とは全く関係ないもので、まさに「砂上の楼閣」を築いていると言うことす。築けば築くほど崩壊の速度が速まると言うことでしょう。
 
 この記事を書いている人はそのことを理解しているのかどうか解りません。矛盾する言葉が出てきます。(挙国体制を肯定しています)
 
 ただし戦前の日本にも音楽家を育てるために自分の子供を小学校に行かせずバイオリンの道に進ませた人がいることを先日知りました。もちろんそれは親の責任で行われていますが。(私のHPの趣味その他」(バイオリンの話)に記録しておきました) 

 なお今回翻訳途中止めた記事に「四川省副局長李達昌が1000万ドル以上の、官職を利用した横領事件発覚」と言うのがありますが、中国記事の「腐敗は、きりがない」という意見を聞いていますので紹介を止めました。