毛沢東時代の美術を回顧する


05/05/12 南方週末 遠蕾

 20世紀の中国美術史上、1942−76年の毛沢東時代を無視することは出来ない。彼が1942年に発表した「延安での文芸座談会講話」として発表され、美術構成上の重要な指標とされ大きな影響を及ぼした。
 それ以降当分の間は芸術関係の人間にとってこの講話が芸術作成の基本理念とされた。 
 それは新中国誕生後の共産主義や社会主義へ向かっての基本精神と見なされた。それは現在は「毛沢東時代の独特の形象」と言われる。

1942年以降はこの「講話」が全ての文芸の指導方針として国家の政策となり、その時代の芸術がどれも「講話」に沿った独特の形式を備えていて、いまその研究がされようとしている。
それは芸術の内容と形式、その発展と普及までもが対象とされ、その形式での民族化が追求された。
 その根本的思想は「芸術は労働者農民に奉仕すること」で、このことが現在と如何に相異があるのかが研究の課題となっている。
 と小平も毛沢東死後「彼の思想系統の影響無しには何も考えられない」、と言っている。

 5月29日まで広東美術館で「毛沢東時代の美術」が開かれた。そして、それを企画した3名の美術家が「ここの展示は毛沢東時代の域を一歩超えた」と評している。
 
 「毛沢東安源へ行く」の絵を書いたのは”劉春華”氏で、毛沢東はモデルになることを嫌ったので、この作者は毛沢東に会うことなく絵を完成させた。
この絵は当時非情に重要な芸術画と評価された。「労働者階級の指導者が安源へ行く」として、その意義を充分に表現していると見なされたのだ。

 この絵を描くために、安源では如何に絵を構成するかから討議が行われ、一つの「組」が組織され、各種討論を経て、先ず現地の背景の場所の選定から始まった。そしてそこへ毛沢東像を立たせた絵の構成をすることになった。
 その場所は「周囲が開かれていて、遠くまでよく見える。毛沢東が向こうの低い地点からやって来て、一番高い地点に立っていることで、毛沢東の革命的信念の強さを現すことが出来る」とした。また同時に「天上の雲が当時の政治闘争の複雑さ困難さを”風雲変幻”に暗示している」として書き込むことになった。
この絵が完成すると展覧会がひらかれた。それは1ヶ月続いて評判を呼んだ。更に延長が要求されたほどだ。参観者の伝言板には「大衆が毛沢東に期待している気持ちの大きさが充分現されている」と好意が記されている。 評判が高まり、この絵を「人民画報」に載せることになった。しかし急な決定で印刷が間に合わず、この絵をすり込みとして、本に挟んで発行された。
 後日この絵が北京の毛沢東に届けられた。毛沢東はこの絵を見て「私が履いているのは普通の草履で、布製のものではない」と言った。
 
1952年創作された「開国大典」には各方面の批判が起こった。
衣服は簡略を基礎とし色は質素とすべし、と言うことが強調された。
 こうして描かれたが、1979年になって2度書き換えられることになった。
 
訳注:毛沢東は1976年死亡

 筆を付け加えられたところは、明るさを増し広がりを付け、額の周囲も明確にした。原作の額周辺は描かれていなかった。また民族的特色を出すように改作された。 
 
広東美術展を計画した一人のツオさんによると、毛沢東時代の美術は初めは建国までのもので、主として木版画だった。それは戦争に適したもので何度でも書き換えることが出来た。それを大量に紙に刷り込んで複製出来た。それは多くの部隊や農村に送られた。それは言い方を変えると一人の記者のようで、当時の革命の要求を各地から吸い上げてくる事が出来、また各地の状況を絵にして伝えて廻った。それは「中国共産党が英雄的に闘っている」と農民や兵士に感じさせるのに役だった。 

 この版画の作成に最も力を注いだのは魯迅である。彼の革命的精神に多くの画家が影響を受けた。当時多くの芸術家が「延安」に行きそして革命的になった。その中でも魯迅は飛び抜けていた、と言われる。

 延安時代、日本軍は中国民間伝承の「年画」という方式を使って政治宣伝をしていた。 中国の画家もこの形式で描ける人を集めた。それは作成以来大きな成功を収めた。彭徳懐もそれを知って絶賛した。

訳注:彭徳懐は共産党軍事最高指導者

 この頃の絵画の内容は美人と革命的な題材とを結合したものが中心であった。1938年になって上海や杭州から美術を目指す若者が多く延安にやって来た。だが彼等の傾向は西洋的な教育を受けていて、それは「輪郭が明瞭ではない」と言う理由で受け入れられなかった。絵画の目的は「農民労働者に受け入れられやすく、彼等を革命戦士に変えていくこと」であった。

 1949年7月、第1次党大会が開かれ、文芸思想についても毛沢東の文芸理論を全国に広めることにあると決議し、今新しい時代を迎えているとして、確認された。

訳注:建国宣言は1949/10/1

 どの文芸学院でも「毛沢東文芸講話」が中心に教育課程が組まれた。古来の「山水画」「花鳥風月」にも毛沢東理論の適用・改造が試みられた。
 その結果「山水画」は社会主義的農村を描き、山や村を背景に革命の生地”延安”を描くことに行き着いた。延安の変わりにその他の開放地区が登場することもあった。
 中国古来の山水画は”虚と幻想”が中心だと考えられ、それを取り除くことが討論され、重要視された。
 毛沢東が若い時代を過ごしたのは、南方のやや低い山林だった。東北から参加した画家達はその毛沢東が育った山林を背景に描こうと努力したが、彼等は急峻で雄大な高い山しか見ていないので、芸術的な表現に改造が求められた。
 また古来の山水画は「墨色」を主としたが毛沢東は「朱色」を好み、緑がそれについで好まれた。漆黒は厳禁とされた。

毛沢東の戦略は山里を行進し、「農村が都市を包囲する」という理論付けされていたので、当然描かれた絵は「山水」を背景にしたものが多かった。「山」は革命の代名詞のようでもあった。「山水」を克服すること、即ちそれが革命を暗示しているとされた。
 ”田”を描いて「社会主義的農村」を暗示させ、人間を小さく描いて、労働の成果、ダムや電柱、その他の建造物を大きく描いて、労働の成果を強調することが正しいとされた。

”花鳥風月”も見直された。それらは古来は文人の趣味として愛好されて、精神的内面的な代物であった。これを革命的に見直すことになり、「祖国万歳」「収穫万歳」など物質的なものを登場させることで、人間の生活を想い出させ、そこから社会主義の成功を期待させることになった。
 筍はそれまでは「風格」や「道徳心」を暗示するものとして画に登場していたが、これを筍の収穫が多いことが、中国が資源に恵まれていることに思い至ることを連想するようにした。

 菊の花の側には軍用壺が置かれ、軍事訓練を表現した。
 こうした結果文人の陰鬱、感傷的様子、などは健康と光明と向上に取って換えられた。 どの絵を見ても新中国が光明の時代に入っていることを表示すべきだとされた。

延安の「毛沢東講話」では芸術は大衆に奉仕することが求められた。その方向で芸術を高め、広めることが重要とされた。最終の目標は「芸術は如何に政治に役立つか」が根本とされ、そして将来は芸術がこの傾向を持続しながら発展することが必要だとされた。芸術家は「大衆の生活に深く入り」、同時に「政策に役立つことを主とする」と確認された。こうして芸術と芸術家の生き方・任務が確定され、このことで大衆の歓迎を受けるだろうと「規則付け」られた。
 
1976年に毛沢東が死去すると、中国の芸術が「同じ物、似たもの」が蔓延していること。また偏った傾向のものばかりであることが語られるようになった。
 だがこのような疑問も「文芸講話」に沿うように戻るべきだと矯正された。芸術家は自分自身を講話の方向に自己改造することが求められた。そして山を描き、大衆の生活を描き、その中に英雄を見いだす、これが正しいとされた。
例えばその成功例は李可染と言う人で、「万山紅遍層林染まる」と言う絵がある。彼は初めは墨色の絵で世間に認められていた。だが講話発表後その絵は「紅」を多用することで歓迎されるようになった。
 伝抱石という画家は「清平楽」という毛沢東の姿図とそこに詩を並べた絵を描いた。彼は死ぬまでに同じ様な画を計200枚以上描いて、これは「山水画と革命の結合」として革命に奉仕したとされ、その形式は全国に広まった。だがこの形式の山水画を現在は見つけるのが難しい。

 毛沢東死亡の知らせを聞いた当時24歳の「陳丹青」は、大衆がその死を悲しみ涙しているところを表現し「涙水田に満つ」を描き、一度に彼の名声が広まった。
 
1990年の頃「毛沢東安源に行く」の画は606万元した。それから10数年、今は更に値が上がっているのではないか、と言われる。
 「開国大典」は少なくても1千万元以上するであろう。その2作は改作前のものが残っているが、それらも同額の値が付くのではないか。
 国家から4万元の補助と各地の美術館の協力を得て今回の展示が実現している。
「毛沢東安源へ行く」は今回の展示会を計画した劉春華が描いたものだが、現在の所有者は中国建設銀行本店となっていて、今回の貸し出しには「傷が付いたりしたときの保証」を如何に取り決めるかで、相当揉めたという。

 1990年代になって「革命的芸術品」の市場での売買が始まった。
 劉春華の画は外国へ流れないことを条件に中国建設銀国に渡されたという。
その他国家博物館所蔵のもの、或いは中国美術館所蔵のものなどがあるが、いずれも借り出すには抵当金が高くて展示が不可能となった。
 毛沢東時代の多くの画はほとんどが国家所有となっているが、民間に流れたものも相当数有るという。
 それらも何時か合同して展示したいと、今回の3名が言っている。
 添付の画は「広東美術館」提供

*********************
 訳者注:
 この記事は中国の「社会主義芸術」について見事にその善悪を表現しています。革命前は「星の数」ほど有ると言われたロシア民謡の伝統を持つソ連や中国で何故「文化芸術」が消滅したかの理由を見事に語っています。

 一番基本的な誤りは「政策に役立つ」ことにあるとした芸術論です。
 当時日本の軍事政権も芸術家を集めて中国へ送り出しています。これから見ても芸術が「政策」や時の「政治」に従属することは根本的な誤りです。
 当時の中国が日本の侵略と闘っているとき、芸術家が協力することは個人の同意の下ならあり得るでしょう。許されるかも知れません。しかしこの時でさえ、そこで生まれたものは本当に芸術と言えるのでしょうか。

 中国は建国後もこれを芸術の基本として、党の政治課題に従属させました。
 芸術だけで無く、農業も工業も議会も司法も全てを政治に従属させました。

 現実の農民の生活を改善しなくて、それを「英雄的に明るく健康的」に描く、これほど農民を馬鹿にした話はないでしょう。

 建国後50年経った2000年の革命の聖地延安を電気も新聞もない洞窟のママの生活に放置しておいて、何故画の上でだけ明るく描くべきなのでしょうか。
 大躍進政策で農民を「人民公社」や「砂鉄拾い」に”意気揚々と輝く顔つきをしている”姿を巨大な看板に芸術家達は描きあげ、あの広い中国全体に無数に設置しました。その看板の前で農民達は餓死していきました。(ワイルド・スワン)

 北京から汽車に乗って1時間も行った農村では奴隷状態が存在することを、日本の作家山崎豊子は「大地の子」の中で主人公の妹として描きました。
 この現実を「社会主義を受け入れた作家」は描くことが出来ないのです。

私はソ連の「収穫の喜び」と言う歌を知っています。一時は大好きでした。
 ”穂波みは揺れるよ黄金の穂波
  実りの喜び畑に満ちて
  忙しく働く農夫の喜び”
と言う歌詞です。
 でも私は中国の「計画経済」で、全てを中央から派遣さた指導員が現地の農民の気持ちと全く関係なく、「国家の要請に基づいて計画通り命令する」その農業が喜びに満ちたものとはとても想像出来ません。
このことは中国建国直後の農村を描いた「芙蓉鎮」という小説(映画)に詳細に描かれています。
 毎日が地獄に見えます。ソ連はどうだったのでしょうか。同じ計画経済で、労働の喜びが有ったのでしょうか。
 
 悲惨なことは、「政治の優位」を一時的にせよ芸術家が賛同してしまったことです。
 で、強要され、賛同した芸術家はどうなったでしょうか。「労働者農民を主人公に」という思想の行き着くところへ行ったのです。
 彼等は「教養」「学歴」が有る人が多く、文革が始まると敵階級・資産階級として追求糾弾されます。自殺したり、殺されたりする人が続出しした。

 日本で言うと「森鴎外」に相当するような有名な文筆家が居ます。「老舎」と言います。この人は文革が始まると同時に学生達に連日追求されて、ついに遺体が発見されます。その死因は約30年ほどして、家族が「殺されたのではなく、自殺した」と発表しました。でも真因をだれも疑っているでしょう。

以下は「文革中の名士自白集」から抜粋
(内モンゴル人民出版社 上下)1999年。

 文革が始まった直後、1966年8月、学生達が連日自宅に押し寄せ、「4つの大罪」を認めさせます。これは資産階級であること、その思想の下の生活態度を非難したもの。
 その時老舎は69歳、病気の身体であった。学生達は深夜に及んで殴打し、気絶したまま帰宅させることもあった。
 彼は当時の中国では目立って独立した精神、開明な生活をしていて、子供達を普通は「小・・・」と愛称で呼ぶのに、名前で呼び、立って握手した。
 8/24日早朝、彼の遺体が発見された。場所は現在の北京師範大学の南にある「太平湖」だった。老舎は太平湖殉難者の第1人者となった。胃の中に水がないことが確認されている。
 それ以降毎日のように文革の受難者が入水自殺した。1日の入水者は数十人に及んだ。

 ちょうどこの時スエーデンでは老舎を「ノーベル文学賞」に決定し連絡するところだった。

 老舎の昔からの友人、馬松亭という人、これも有名な文学者。この人は建国直後の1957年に「右派」として追放されて遠くに住み貧乏の極限のような生活を強いられていたが、老舎の死の直前に幻影となって現れた姿を見た、と書いています。

 さて、中国が建国後に描いた多くの画が「同じような傾向の作品ばかりであること」で、中国では芸術が感動とは関係ないものであり、政治宣伝にしか過ぎないとして、興味が失われていきました。

 本来は芸術家は「時代の政策」よりも、遙かに広い面で、あらゆる人が、あらゆる年代で、時代の制約を突き破って、「人間的」になろうとしてもがいていることを見つける目が必要でしょう。その人間的な動きは、誰かが常に主人公と事前に決められるものではなく、単なる人間的なものかも知れません。
 その芸術が人々に「何が今大切なこと」か、「何が美しいこと」かを正しく認識させることに大きな力を発揮するものでしょう。
「万山紅遍層林染まる」
原図は墨絵だったが、革命的に朱色に改図された。
 「 開 国 大 展 」1952年に描かれ、批判を受けて2度改作。これは1976年のもの。
  「毛沢東安源へ行く」
 幾つかの原案と仕上げの過程
 「 海 燕 」
1971年制作。湯小銘 作
1943年の木版画。
「租税を下げろ」   古元 作
1963年作版画「黄金の穂波」
 李喚民 作
1972年油絵 「永久に闘う」
 潘嘉俊 作   (魯迅の像)