阿 星 の 苦 悶 は 如 何 に


05/07/14 南方週末  傳剣峰 成功














 農民臨時工が殺人事件を起こし、本紙記者に勧められて自主

 7月8日、現在20才の臨時工の阿星が小さな村の工場主を殺した。
 これは単純な事件にも思えるが決してそうではない。その裏にある大きな、農民臨時工という立場の矛盾をくみ取って欲しい。この矛盾の解決無しに社会の協調があり得ようか。

 「傳さん、私は人殺しをしてしまいました」7月9日夕方阿星は本紙記者の傳氏に震える声で電話をしてきた。その番号からすると発信地は深せん(土偏に川)だった。
 阿星は広東籍の農民で、これまでいろいろの所で臨時工として働いてきた。
 
「傳記者さん、こちらへ来て貰えないでしょうか。あなたと一緒に自首していきたい。
 いや、それともいっそベトナムの方へ逃げたい」等という。
 傳記者はその時北京にいた。それで広東の本社に電話をし、そこの記者が阿星と会うことになった。
 阿星は新聞記者と会うことで真実が報道されれば自分はどうなっても良いと覚悟を決めたようであった。
  
南方都市報の記者4名が深浅の電話ボックスの傍にいる阿星を見つけ、近くの喫茶店で話を聞くことになった。
 阿星は背が高く痩せていて頭髪は相当伸びていて、まだ子供の様子が残っている。汚れたズボン、泥だらけの靴、その姿で聞き分けよい子供のようにして記者に説明を始めた。

 阿星は何も食べていないようで空腹そうであったが、メニューを見ても何も注文しない。 彼はメニューにある美味しそうなものは食べたことがないと言う。そこで記者が米粉と適当なものを注文した。
 その場で阿星は2時間ほど掛かって殺人に至った理由を説明した。

 彼が殺したのは潮陽市峡山村の製袋工場主、鄭柄栄である。
 最近のこと、故郷の習慣に従って「満月酒」を飲み翌日工場を休んだ。すると工場主が「もう来なくて良い。たまった賃金もカットする」と言う。これまで貯めた2000元の預金の内600元だけを返すという。7月8日夜の9時、宿舎を出る用意をしていた時、工場主が来て彼にさんざんと悪態を突いた。かっとなった阿星は宿舎の台所に走り包丁を持ち出して工場主の首に切りつけた。阿星は工場主のポケットから400元を探し出し工場を出た。
 
 工場を出たところで阿星は今地元で問題になっている「ナイフ窃盗団」の採訪に来ていた北京の「青年報」の記者に会っている。
その後本紙の傳記者だけが「この世に信じられる人唯一人」と考えて電話したという。
 公安に入って、記者の要求で最初に阿星は頭を洗い、そして彼は気持ちが少し楽になったようで椅子に腰を掛けた。
 どういう訳か、記者の一人に女性が居て、阿星は彼女の手を掴んで「しばらく此処に私と一緒に居てもらえないでしょうか」と言ったので、女性記者が真っ青になって泣き出す場面があった。
阿星はまたもう一度傳記者に電話したいと言ったが、電話が通じず、そのまま監獄へ送られた。

 話が少し複雑になるが、ここで今地元で問題になっている「ナイフ窃盗団」について触れておく必要がある。

 昨年の末頃からナイフを持った窃盗団が街に頻繁に出没するようになった。特に04年12月17日には17人が集団で通行人を襲い、一人の右手を切断するという、驚愕の事件が起こった。
 彼等の出身地は温江村で、仲間は約40名、深浅を始め周辺の大都会に出没して年末に数名は警察に捕まっている。
 彼等は共に農民出身、小学校も途中退学して都会へ出稼ぎに来ている。その後仕事を探すのも困難で、有ったとしても賃金は極めて低い。深浅に集まった青年達は次第に不満を持って「窃盗団」を作り金集めをするようになった。
  この事件を追う中で本紙記者「傳」氏が阿星と知り合いになった。この事件を追いかけた新聞の中に北京の「青年報」もある。

 阿星は15才で隣町、東莞に来た。彼がそこで就いた仕事は、毎日12時間労働で正月の6日以外休みは年間2日だけだった。賃金は月に300元で、この低賃金を彼は人に知られたくなく、また正月が来ても両親に何も買えないことをうつうつと悩んでいた。
 
 阿星が働いていた工場には同じ村の青年が15人ほどいた。仕事が終わっても仲間が一緒に遊ぶこともほとんど無いくらい、彼等は睡眠不足で疲れていた。
 阿星の希望は1日8時間の仕事で、賃金は500元くらい欲しいと言っていた。だが自分は学歴が無く、それはとても無理に思えた。

 訳注:深浅は広東省の大都会で、中国では一番か2番目に賃金水準の高いところ。市民の平均所得は月1500元くらい。

 彼は自分の働いている工場の仲間を見て「これは人間の姿ではない」と、いつも思っていたという。だが誰もどうしようもなかった。 時々他の都市から同村の仲間がやってきて「何か良い仕事がないか」と聞きに来る。その姿はまるで「流浪の民」のようだった。
 工場の管理は極めて厳格で、仲間を宿舎に1泊させることも不可能であった。
 同郷の知っている人が尋ねてきた時、阿星は8元ほどの小遣いを遣り繰りして米粉を買ってきてやるのだった。それを食べる彼等の姿はまるでオオカミのようにガツガツとむさぼり食べた。
 阿星の低賃金のことを知っても、そのような仕事さえ探すのが大変なことを彼等は充分に知っていて暫くは「ナイフ窃盗団」に入れとは言わなかった。 
 
 そのような同村の仲間が次第に集まり窃盗をするようになった。一度上手く行くと、すぐに2度目の機会を狙う。こうして仲間を呼び合って、阿星の所に誘いが何度も来るようになった。
 15歳の時、阿星はその窃盗団の数人に食事を作る役目をしたこともある。
昨年は阿星の仕事が無くなって彼等の頭領にしばらく住まわせて貰ったこともある。
 その時彼はナイフで脅迫する場面を目撃したという。彼はそのような仲間に入らないと心に決めていた。しかし彼等との関係を断ち切ることが出来なかった。なぜなら阿星が職を失ったとき、この世に頼れるのは彼等しか居なかったからである。
 そこで彼は広東を去ることを考えていた。どこか知らないところで仕事を見つけ、8時間労働で、1周に一度は休め、500元ほどの収入があることが彼の最高の希望だった。

 傳記者が、「ナイフ窃盗団」の採訪をするようになって阿星と知り合い、傳記者もその希望を何とか叶えたいと思った。そして山西省の法院に勤める衛彦虎という人が何とか努力しましょうと言ってくれるところまで行った。
だが阿星には携帯電話を買うことが出来ず、衛さんと連絡を取るのが難しかった。ある時「思い切って山西省に来ませんか」と衛さんが電話したとき、阿星は「私はこれまで汽車に乗ったことがありません。汽車は怖いです」と断った。
 その後も傳記者とは何度か会っている。阿星はもし余所で仕事が探せたら、そして余裕が出来たら、そしたらいつか商店を持ちたい、と言う。 阿星の父は商店を開く金があったら結婚しろ、と言っていた。だが阿星は一生臨時工として暮らすのは嫌だった。どこかでこの人生路を切り替えたかった。
 田舎にいる父はその辺のことが理解できないようだった。
 同じ村の同年齢の友達に阿賢という人が居る。彼も都会へ出て臨時工として働いている。 最近コックの職に就くことが出来、多いときには2000元の賃金を貰っている。
 阿賢は帰宅後はテレビを見て寝るだけの習慣を通している。同郷の仲間と出会うのが嫌だからと言う。阿星にはそれが出来ない。
 阿賢が言うには「同郷の奴らは都会人には極めて強い憎しみを持っている。傷害を与えても平気だ。だが逆に同郷のものには極めて親切だ。このような両極端な人間は珍しい」
 
 05年になって阿星は隣町の潮陽市に移った。それは「窃盗団」から逃げるためだった。しかし新しい工場には同郷の仲間もいて、一緒に窃盗用のナイフを準備している。
 
 6月になって阿星は傳記者に電話を入れている。「ああ、私の従兄弟が窃盗団にいて逮捕されました。広東に相当数の警察が投入されて40人ほどの仲間が逮捕されました。この半年だけで100人ほどが逮捕されました。その他100人ほどが他の都市へ逃げて行きました。私の仲間達の将来はどうなるのでしょうか」と切ない気持ちがにじみ出ていた。傳記者は「とにかく今の仕事を一生懸命やりなさい」と言って慰めるのが精一杯だった。
 
衛法官の方も仕事が忙しくなってしばらく阿星と連絡が出来なかった。阿星の方から衛法官宛に「衛おじさん、もう私を相手にしてくれないのですか」という手紙を書いている。 それが阿星が何かの希望を掴みたくなって懸命に書いた文であったことが後で解った。

 7月6日、阿星は傳記者に「私は潮陽市の仕事を解雇されました。他の仕事がなければ私も窃盗団に入るかも知れません」と言ってきた。
 傳記者は慌てた。たまたま北京「青年報」の記者”何” 氏が窃盗団の採訪に現地を訪れているのを聞いていたので、何氏と連絡を取って、”第2世代の臨時工達が如何に苦痛の生活を余儀なくされているか”の記事を作成することで、阿星に少しの金銭的援助をお願いした。7月7日、何記者は阿星と彼の弟阿海と会っている。

 何記者は最初ホテルのロビーに2人を連れて行こうとした。すると2人ともそこへ行くことを断固拒否した。ホテルは見ただけで高級な感じがする、そこで働く人達が阿兄弟を見る目は明らかに”怪しんで”いる目だ、と言う。
 その時の阿兄弟の服装は決して農民には見えない都会らしい派手な服を着ていた。しかしそのホテルの高級感が彼等兄弟には受け入れがたい圧迫に感じたのだろう。
 阿星は何記者に淡々とこれまでの経歴を語った。都会に来て彼等兄弟を助けてくれた人は一人もいないこと。都市市民は高層の建物に住んでいる。我々農民は毎日帽子が下に落ちるほど下を向いている。農民の目には人の住む姿さえ映らない、と言う。
 阿星の弟阿海は18才で阿星と同じ工場で働いている。朝7時半から夜の12時まで働きっぱなしだ。睡眠時間が短い。月の賃金は1000元になる。「でも、」と弟が言う。
 「賃金は600元ほどで結構です。1週に1度の休暇が欲しい。1年中休みがありません。そして宿舎の仲間の観察もしろと言われています。正月休みは抽選で休める者を決めます。誰もが私が兄より老けて見えると言います。でももし、私に10日の休暇をくれればきっと私は兄より元気な顔に戻ると思います」 
 その兄弟は常に両親のことを思っている。もし2人のどちらかが20万元も預金が出来れば、そしたら例えどちらかが倒れても、その金で両親を養います、という
 会見が終わって最後に阿兄弟が何記者に尋ねた言葉、「何さん、私達兄弟はやっぱり都会人と一目で違うと見えますか」だった。

 7月8日、事件が起こり阿星が北京在中の傳記者に「殺人」を漏らした。そこで傳記者が現地の「青年報」の何記者に電話を入れ、「何とか見ていてくれ」と頼み、何記者が阿星に工場を出たところで会った。
 阿星は「何さん、私を助けてください」と言う。何記者は異常事態が起こったことをその雰囲気で感じ「刑事事件以外ならどんなことでも援助しましょう」と答えた。
阿星は「解りました。何もないです」と言って記者と離れてしまった。去るとき阿星は「2日後には全てはっきりするでしょう」と言い残して。
 阿星の弟、阿海は言う。「あの工場主は短気で私が預金5000元を引き出そうとしたとき、彼は出してくれず、私を脅迫して殴りました。多分このままだといつかは私が兄と同じことをしたかも知れません」
 
********************

 訳者注:
 深浅は香港の向かいに位置する矛盾だらけの大都会。
 そこには社会主義故の古い世界と市場経済で豊かになった人達が混在しています。
 社会主義の古さとは、計画経済の身分制が未だにあり、また人権擁護の法制度がないため、弱者は何処までも弱い、と言うものです。

 1980年代には数百人しか居ない寒村。それが改革解放後台湾やタイからの華僑達の投資が始まり、登小平の「金持ちに成れる者から豊かになろう」と言う標語をこの街の真ん中に大看板にして起て、現在は1000万人近い大都会になっています。そこに住むのは近隣から来た若い農民達が多く、年寄りの居ない街です。 
 香港の向かいに位置し投資しやすく、しかも安い人件費が可能という条件でこのように急速に発展したのだと思います。
 この記事にある都市市民を阿星達が憎しんでいる、と書かれていますが、実際は「成り上がった農民」も多数居ます。
 大きなマンションの所有者が農民だとも聞きました。
 一方この都市のすぐ近辺にいる農民達が貧しさを抜け出すため、講を作り、代表を日本へ密入国させているのでも有名です。
 党幹部が後ろ盾となって農村の娘を奪い、太平洋沿岸都市に売春婦として売り出しているのも此処です。
 「蛇頭」も此処を根拠地としています。
 
 内陸部の農民が何故日本へ来ないかというと、おそらくこの世に豊かな世界があるというニュースさえ届いていないのだと思います。
 そして追いつめられた農民と都市民との調和出来ない衝突が生まれています。
 そのことの真相を掴み改善しようとするのが正に此処に登場する2つの新聞社です。
 北京も現地も、政治家、党は無関心です。

 次は傳記者が書いたもので、問題の本質を追究しています。



第2世代農民臨時工達の夢
   
  
05/07/14 南方週末 傳剣峰

 阿星は「ナイフ窃盗団」と関わりたくないと言う気持ちがありながら、だが結局彼等と同じ運命の、公安に捕まるという道を選んでしまった。 
都会へ出たときは誰も善良な若者でありながら、しかしまるで宿命のように悪の道に入って行く、その背景には何があるのだろうか。

 阿星の場合彼が殺人に至までに、長くそして少しづつ蓄積されていく心理上の要素が働いている。彼は小さいときから都会のテレビを見て育ち、15才には父親に連れられて働きに出ている。そこには当然気持ちの上では都市の青年と同じ感情・価値観が育っているはずだ。同じ境遇の農村の若者達はもう農村に戻ることは出来なくなっているだろう。
 彼等は決まって言う、「もう農村には戻りたくない、絶対都会で生きるんだ」と。
 彼等はいつも都会人と自分達とが見分けられないか、気にしている。私は阿星の弟に何度も「私は都会人に見えますか」と尋ねられている。このような気持ちは彼等の親の代とは完全に違う。親の代は最終的には農村に戻ることを希望している。
 深浅の「現代研究所」の劉開明氏は「第2世代臨時工達は唯”金を貯めるため”に働いているのではない。都会人として生きていく道を探している」と言う。
それ故阿星は臨時工であることを嫌い、商店を持つ等して都会人になりきる人生を夢見ていた。
 それに対して彼の父は、お金を貯めて農村に戻り嫁を貰う、そして元の農民になる、そう期待していた。殺人事件を起こすきりぎりまで、親子の間では人生の選択で激しい口論が取り交わされていた。父の希望を打ち消しながら、しかし阿星は自分の言うことが実現には大きな困難があることを知っていて、完全には父を説得できないでいた。そこには彼の心に深い悩みが蓄積しつつあったと思う。
 先述の劉開明博士が深浅工業地帯を調査したとき、一つの工場で経営者が口汚く臨時工を罵ったとき、それが元で数百人が工場を出てしまった事件を目撃したという。これは彼等若者に大きな心理的鬱憤が積み重なっており、ちょっとした刺激で爆発することを示している。
政府の方でこれらの解決の手段を具体的に準備できないとき、彼等青年の爆発は市内の至る所で危険な方法で発生しうる。
劉開明博士は「問題の根本は、この20年改革開放で経済面は飛躍的に発展してきたが、しかしこの農民という戸籍が社会に2局構造を造っていて、経済的発展の成果を受け取れない階層が有ると言うことだ」と言う。
 阿星の父は懸命に働いてきたが、しかし息子達に教育を受けさせることが出来なかった。中国全体では多くの社会的蓄積が生まれたように見えるが、農村では子供達は小学校を途中退学して都会へ出て働いている。
 この状況を農民達が抜け出そうとしても、その壁は時代と共に高くなっているのではないか。
 一つの社会で経済的発展が生まれ、その成果がそれなりに社会各層に分散されていけば、その社会は各階層が協調可能な社会と言える。
 1950年代から1970年代に掛けて韓国・日本・台湾には黄金的発展期というものが生まれた。彼等の社会ではその間、都会に出ればそれなりの分け前を受け取って、都市人口が拡大してきた。同時に公平な教育制度があって、過去の身分差・地位の差と言ったものが狭くなって行っている。そしてそこに安定した社会が生まれている。

 韓国は1950年代までは農業国であった。その後工業化が計画され、欧米からの投資が始まり、大量の農民が都会へなだれ込んだ。だが韓国には戸籍問題がなかった。誰も制限無しに都会へはいることが出来た。
 都会へ出て働けば以前よりより高い賃金を得ることが出来た。それがやがて子女に大学教育を受けさせることが出来るようになった。1980年代半ばには農民達の多くの部分が都市に入りやがて中産階層となった。これが韓国を安定させた大きな要素である。1980年にはこの中産階層が人口の55%を占めている。この率はその後も上昇をとり続けている。

 日本は戦前に既に工業国となっていた。だがそれでも都市に済むようになった大きな部分は農民である。日本では終身雇用制があり、全面的社会保障を企業が行っている。
 アジアでは最も社会保障が完備した国家である。産業人口の人達で、彼等のほとんどが子女に充分な教育を受けさせている。この教育が1960から70年代の経済高成長をもたらした大きな要素である。

 中国はこれら国家の経験を受け継ぐことが出来ないのだろうか。
 もし中国で農民が都会へ出て仕事に就いたとき、その子女に教育を受けさせることが出来れば、そうすればその人材が中国経済の高度成長の大きな柱となるだろう。
 
 劉開明博士の調べたところ、廈門の工業区では農民達が公立学校を建設し、安価な宿舎も用意している。安価な住居は出稼ぎ農民の出費を減らし、公立学校は都市市民との間に公平感を生み出している。結果として社会の安定をもたらしている。この方法が南方の広東省などで模倣されることが出来ないか、と博士は提案している。これが実現できれば農民福祉であると同事に都市市民の福祉でもある。なぜならそれが実現できれば、阿星達が苦悶している鬱積を社会で爆発させることがないからである。  

 さらに別の角度から考えると、各企業の出稼ぎ者への極度の低賃金と就職機会の狭小がある。このままでは出稼ぎ者も都会に出て傷つき、また同時に都会住民も安心できない環境のままとなる。
 この問題は中国の一部地域のものだけではない。貧困者が居て不幸者がいれば、それは裕福者の不幸に結びつくと考えられないだろうか。農村に貧困者が居ればそれはいつか都市住民に危害をもたらすと考えるべきではないか。今では中国全体が密接に結びつけられた緊密な関係になっている。ここ温江村で起こった傷害事件はすぐに深浅全体に及ぶだろう。貧困に関心を持ち、弱者に関心を寄せること、これは私達共同の道義であり責任ではないか。