山崎朋子:朝陽門外の虹

04/03/04 南方週末 王寅

 山崎朋子と名詞を交換したとき、彼女は中国語で自己紹介した。71歳の彼女は花模様の長いスカートで、頭の髪の毛を柄の布で巻き付けていた。私たちにケーキとコーヒーを出してくれて、応対の時の足裁きは軽々しかった。
 彼女の家は目黒区にあり、そこはマンション群の一角だ。

20年前に中国では彼女の「望郷」が上映されて有名になっている。97年には彼女の「サンダカン8号娼婦」「サンダカンの墓」「望郷」が中国語で出版された。また彼女の自伝「望郷への旅路」も師範大学から出版されるところだ。

 彼女の「朝陽門外的彩虹」は日本の「世界」に19ヶ月に亘り連載され、これは昨年単行本としてすでに出版され、日本の読者の関心が高く、すでに7回の重販を出している。
 それは1921年から世界大戦までの、在中国の日本人夫婦の物語で、学校へ行けない子供達に教育の機会を与えようとし、北京に崇貞学園を建てた。これは現在、北京の陳経倫中学となり、崇貞学園は戦後日本へ移り、桜美林大学となっている。

 「朝陽門外的彩虹」の名前の由来を聞くと、そこは以前は北京の貧民街であり、そこへ日中有効の架け橋を造りたい、との目的で、この名前を付けたという。
 その学園を作った「清水安三」夫婦もまた当時は貧しかったが、中国の少女達に何かをして上げたいとの希望で苦労を重ねたという。しかし学園が始まると人気が高まり、また世界的な注目をも浴びるようになった。
 だが、清水安三の妻は38歳で結核を患い、3人の子供を残し亡くなった。彼女は亡くなるとき、位牌を北京の学園に埋めて欲しいという希望を残していた。
 清水安三は彼女の位牌を持って北京の学園に来てみると、学校前の通りは黒装束の人で埋まっていた。彼は何事かと驚いて学校の先生に聞いてみると、位牌を埋める話を聞いた近隣の人達が服喪の姿で待っているのだという。それはまだ戦争の真っ最中で、中国人は誰も日本人を心の底から恨んでいる時であった。これを知って清水安三は感動の極みだったと言う。
 中国で清水安三が教えた学生達は現在すでに7、80歳となる。その元生徒達が寄付を集め桜美林大学に記念碑を建てた。同時に北京の学園跡にも記念碑を建てた。そこの現在の中学校長は「おそらく戦争中に日本人を偲んで建てられたものはこれだけであろう。日中文化交流史上でも他にはないのではないか」と語っている。

 記者が、朝陽門外的彩虹の作成の苦労に話を向けると、山崎朋子は「この小説を書くために私は10年の歳月を賭け、韓国、アメリカ、中国を訪問し、採訪した数十人の人達に最低3度会い話を伺った」と言う。
 彼女は「朝日新聞」からも同じような質問を受け「自分の全身を賭けて書いてこそ、読者を感動させることが出来る」と答えたと言う。
 例えば1人の中国人を採訪するために、東京で一度、中国で一度、さらにまた北京で一度その人に会いに行ったという。
 その人は初め両親と朝陽門外に住んでいた。朝陽門外というのは特に貧しい人達が住んでいた。結婚して彼女は朝陽門内に移った。やがて日本軍の侵略が始まり、門には鍵が掛けられ出入りが出来なくなった。彼女は両親を見舞いに行くことが出来なくなった。仕方なく、時々家にある品物を親へ仕送りした。数年して彼女が両親を見舞いに行くことが出来るようになり我が家に戻ってみると、母と弟が家で餓死していた。
 この様な悲惨な話を、相手は日本人の山崎朋子には話したがらない。この話を聞かせてもらうのに、3度目にして初めて相手は山崎朋子を信用するようになって口を開いた、という。
 この話を聞かされた山崎朋子は日本人として謝りながら、涙が止まらなかったという。

 彼女は初めに北京へ行き昔の学校の卒業生を近隣を歩いて探し、またその人の紹介などで次第に採訪者を増やしていき、そして10年が経ってしまったと言う。

山崎朋子は具体的な計画を立てずに翻訳者を連れて中国を訪れることが多かった。時には朝になって靴を放り投げ、その向いた方向へ出かけたりした。翻訳者はこれでは困ると随分ぼやいた。やがて北京でのホテル代も無くなりかけてきた。翻訳者はついに「もう手当なしで協力しましょう」と言い出す始末だった。でもとにかく日・中の一つの歴史上の事実を記録することに自分の仕事の意義を感じ、書き上げたという。

記者は、中国で山崎朋子の小説がテレビ化されて放送されたことを取り上げ、おそらく日本でよりも中国で彼女はより有名になっているのではないかと質問した。さらに彼女自身、日本と中国とどちらがより身近に感じているのかを尋ねた。
 彼女は「中国が次第に経済を向上させているのを見て、お金や経済のことだけで中国を見ようとしています。しかし私はこの様な見方をしていません。どこの国も発展過程でこの様に経済面だけを取り上げられます。中国はその規模が大きく、日本人とはもののとらえ方も違います。私は中国に来るたびに一種の気分の休まるのを覚えます。日本に帰ると緊張します。これは日本人が神経が細かいことに関係していると思っています。私の作品はどちらかと言えば大ざっぱです。これは作品を英語に翻訳するとき、特に日本人は細かい神経であることを感じました。私は中国に適していると思います。

 ある時北京でタクシーに乗っていたら、周囲は車が一杯で止まれる状態ではないのに、私が山崎朋子だと判って、運転手は車を止め私に握手を求めサインをする紙を出しました。さらに運転手は後ろでプープー警笛を鳴らしている運転手達に向かって窓を開けて”ここに乗っているのは山崎朋子だ”と大声で叫びました。すると後ろの車もまるで歓迎の意を表明するかのように警笛を鳴らし手を振り応えました。しかもこの運転手は、絶対他の運転手にサインをしていはいけない、交通が麻痺するから、と私に言いました。」

 記者はまた、彼女の作品の登場人物が全て女性でありながら、しかし文章は女性的でないと尋ねると、「日本は島国で日本人はかなり繊細です。女性も例外ではありません。しかし例えばアメリカの女性作家はかなり大胆、大作りです。
 私が描いた女性達は最下層の人達で、日本やアジアの女性が多く登場します。彼女たちを描くには大まかで大胆であることで表現が可能になると考えました。
 日本人は中国に侵略したことをほとんど忘れています。しかし細かいことを忘れようとはしません。私はこの逆で大きいことを忘れず、細かいことを忘れます。
 小説に描くときも、どんな厭なこともそのまま書きました。これは一般の日本人とは異なっているかもしれません。翻訳を担当してくれた人は私に”貴女は混血児ではないか”とさえ聞きました。私が北京に居たとき、”鉄女”と呼ばれていました。私はその頃8人の中国人を相手に口げんかをしたことがあります。でも、言いたいことを全て言い合った後すぐに仲直りをしました。その人達は日本にまで会いに来てくれ、何でも話し合える間柄です。中国の諺に”言いたいことを言えば仲良くなる”と言います。日本では”言いたいことを言えば一生仲良くできない”と言う面があります」と語ってくれた。


 訳者注:山崎朋子の書籍は次で検索できます。岩波書店から「朝陽門外の虹」(¥2000円)で出ています。

http://kaimono.chu.jp/books-jp/1094392/5801