北京陳情制度の改革

 記者に訴える人達     陳情村 


04/11/04 南方週末  趙琳

 建国以来、中国の陳情制度は社会の安定に大きな役割を発揮してきた。しかしこの制度が現在では一般庶民も党の最高幹部も誰もが改革の必要なことを認めている。
これまでの統計が示すところによると、北京への陳情でその成果を上げた例は、千分の2である。
 90.5%は、ただ「お上」に知って貰う程度であったし、その88.5%は地方政府に「一言声を掛けてもらう」ことであった。

 今年の8月胡錦濤総書記は改革の会議を設立した。

 陳情の役割は「国民の口封じ」なのか、一般民衆が意見を言うことを制度として設ける事が可能なのか。これらのことが今廣く論じられている。
 最も重要なのは国民の要求・救済を実現出来るかどうかである。それが司法制度として権威有るものにしなくては意味がない。

  吉林省長春から直訴に来ている李玉芳(仮名)は現在北京に来て1ヶ月が経つ。毎日ゴミを拾って生活を支えている。

彼女は現在70歳。北京の寒風が吹く中で直訴の受付を待っている。
 彼女の息子は会計の仕事をしていたが、突然理由もなく解雇になった。その後ずっと息子は職に着くことが出来ない。
「このような理由のない差別を受けて私は何とかして上の人に知ってもらいたい」。記者にこう言い出すと、その母親はもう涙が止まらない。
彼女は毎朝国務院と人民大会陳情所の受付に来て順番を待つ。受付事務係は何時も「家に帰りなさい」と言うだけの反応である。
 午後4時頃受付から逐われて出てくるとゴミ拾いが始まる。その中から売れそうなものを買って貰う。そこから1時間半歩いたところが、直訴集団の居住する”北京南駅”近くに衆団村が有る。ここに住んでいれば1日3元で宿泊出来る。人々はここを「直訴集団村」と呼ぶ。
 これまでの統計によると昨年1年で直訴に来た人の件数は1千万件を超える。国家陳情局局長によると、1993年頃から陳情数は激増し続けているという。
 1995年に「国務院陳情制度条例」の一部が改革されたが、その後の調査でこの制度は根本的に改革が必要だという点を上から下まで誰もが認めるようになっている。もし適当な改革が出来ない場合、社会的に重大な問題を引き起こす、と政府調査も結論付けている。 
この制度が出来た本来の意味は誰でも政治に対して意見を言えると言うことであった。しかし実際は庶民の「最後の救済制度」としてのみ活用されてきた。
 現在の司法制度で国民が頼れる唯一の救済制度である。
 中国政法大学副教授の応星氏は「この制度は次の3点という変化を得てきた」と分析する。
 1951年から1979年まで。
 これは大衆動員の形式で、政策の問題提起がここで受け付けられた。
 79年から82年は 「政治の安定志向」期で、それまでの建国以降文革や左派糾弾で不当に追い落とされた人の救済機関であった。このときの陳情数は歴史的にも前例のない膨大な数に上る。
 82年以降から現在まで。
 この機関の役割は政治が安定した後の紛争の救済であった。
 
79年から82年までの陳情は「政治的免罪」への訴えであった。が現在は合法的な侵害を受けた「一般庶民の事件の救済」である。

 政府の調査によると、一例として632人の北京へ上京した農民達の詳細を見ると、それらは全て個人の権利侵害を超えて遙かに大きな政治問題である。
 彼等の内401人は地方の司法へ提訴している。その43%が告訴自体を受け付け拒否されている。司法が取り上げた内55%が農民の敗訴となっている。従って農民達はこの陳情機構に「清潔な司法」を期待してやって来ている。
 全体の90%が「とにかく”上”に知って貰いたい」という要求がある。その全体の76%が地方政府に正しい政治をするよう「声を掛けて欲しい」と訴えている。
 これらが農民達の要求の要点である。 
そしてその結果はこの陳情機構では解決され得ないことも示している。
 つまり、地方の司法制度がその権威と信用を失墜していることを示していて、そのために中央への陳情の大洪水が生まれているのである。

 記者が北京へ陳情に来ている東北の農民に聞くと、彼は北京へ来たのはこれで3回目で、毎日受け付けられるまで、道路際に干し餅を食べながら座り込んでいる。訴えの内容は病院で輸血を受けて致命的な病気を移されたことだ。
 地元政府に訴えたが受け付けてくれないので、ここに来たという。「 数日前受け付けてくれるという話を聞いて、また北京に来ました」と語る。
 こうしてそこには陳情の大群衆集団がひしめいている。誰かがここで解決をして貰った、と言う知らせを信じて続々と陳情は続く。だが実際はその確率は千分の2である。

 国民と政府の矛盾

 62歳の福県省農民”許永”さんは住居を強制撤去されて今年の5月北京へ来た。4ヶ月以上に亘って、可能な政府や党の上級機関は全て訴えて廻った。このほか故郷と北京を行ったり来たり、何度も往復する例がある。
 中国の陳情制度は複雑である。各級の党機関、人民大会、地元政府、司法院、検察院。
 これらの相互には陳情に関し機構としての連携はない。
 中央に於いても地方への強制権は明記されていない。従って北京でもその出来ることは制限がある。

 北京に来ても陳情するところは数多い。国家陳情局、全国人民大会常任委員会、最高法院、党中央規律委員会、公安部、最高検察院、国土資源部、農業部、民生部等々。これらの箇所を陳情者は必死になって訪ねて回る。先ほどの632人の農民調査の場合、平均で6カ所の機関に訴え、最高は18カ所を廻っている。こうして数ヶ月を経て希望を無くして故郷へ帰る頃には、彼等は国家と中央に対して極度に信用を無くしている。

 11月1日、記者が国務院の陳情所を探したところ、そこには中国全土から来た公安の車も多数並んでいるのが見えた。その道に詳しい人に聞くと、地方政府も司法で解決出来ない場合、当事者を公安の車に乗せて、北京の各機関を廻っているとのことだ。これを人々は「逆訴」と呼んでいる。
 現在の各地方政府の司法機関の判断は法的な規則がないため、「随意」的に解決されている。これは各種当局の誰もが「責任のなすりつけ」をもたらすことになる。
 従って良心的な地方政府は陳情によってその信頼を得ようと、公安と共に北京へお参りする「逆訴」が生まれてきたという。

 どの程度の事件、どの程度の問題の時北京へ持ち込むかは、筋道がまだ出来ていず、中には現在の法律を押し曲げて北京へ持ち込む例もあるという。
 
 先述の応星副教授は「この陳情制度は矛盾に満ちているが、しかし本来は地方の官僚制度を糺すために設けられたもので、正常な陳情者が北京の交通を邪魔していると言って非難してはいけない。が他方、国家としては各級の地方で正常に解決出来る能力・制度が必要だ」と述べている。
 何時の日かこの陳情集団の大群衆が消えるという歴史的な場面が見える時が来るのか。


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訳者注:
 この号は「陳情特集」で、このほかにもいくつも記事があります。次はその内の一つの初めの部分。
 陳情者達の生活は、風呂には行かず衣服は着たまま、多くは病気を患い、と言う形で陳情村に住んでいる。北京南駅の傍の広場に仮の小屋を建てて住んでいる人も多い。1泊3元の宿を借りている人もいる。仮小屋は時々公安が着て取り壊していく。
 最高人民法院の受付は午前に5人程度のみ、受付の票は1月のみ有効で、毎日ここに来て面接を待つ。その月に自分の番が来なければ、また翌月票を貰う為に早朝から列ぶ。

 大連から来ている劉さんは息子の仕事上の傷害事件でここへ2001年から来ている。
 最初に訪れたのは人民大会、そこで「関係無い。法院へ行け」と言われ、法院に行くと「人民大会へ行け」と言う。そこで党法規委員会へ行った。そこでは「法院へ行け」と言われた。
 劉さんは大連の法院前で息子と共に座り込んで一日泣いた。
。。。。。と続きます。

 中国はまだ法治国家ではないと一般に言われています。
 中国自身もそれを認め、法治国家になることを人民大会で確認しました。
 しかし現在の実態はどうなっているのか。その具体的な司法面の悪弊の内容がここに描かれています。
 中国社会主義は計画経済の面で国家としては成り立たないことを歴史的に証明してきました。
 悪い面の官僚制度は極限と言える恐ろしいほどの悪い面を今でも持っています。
 この官僚制度と司法の無責任と独裁制度が裏腹の関係で密接に関係し補い合っています。
 これらの悪法、制度の基本に人権無視が存在しています。人権を尊重することを基本としてその実現に法律を作り直すことが必要です。
 これらの矛盾の根本的なことは「独裁を維持する」ために司法に権限を与えていないことです。
 独裁が無くならない限り、これら悪法が改善されることはあり得ないでしょう。

 この記事を読んだとき、まるで数千年昔の規律のない社会を思い起こします。
 何年にも亘って道路に座り込んで「お上」に訴えたいという中国人の生活、法律を貴方はどう思いますか。その可能性は千分の2!その数”年に1千万件”! 
でも何故このような超時台遅れの社会が存在し得たのでしょうか。