老兵は死なず只消え去るのみ

04/04/22 南方週末 呉晨光

 04年4月15日、ローマ法の権威学者、周喃(なん)が亡くなった、96歳。
 人生の大半は大変な苦難の連続で有った。
 1928年ドイツ留学、政治外交学の修士を取得。後、法学博士。この学位が授与されたときは会場が割れんばかりの拍手に迎えられた。当時中国には博士号を持つ人は10人を超えなかった。
 ローマ法は2000年の歴史を持ち、「万法の原典」と言われる。エンゲルスはかって「商品生産が社会に最初に生み出した法律」と称した。1934年帰国、上海や廈門の大学で教授、学長を務めた。この時33万字の「ローマ法講義」を記した。
新中国建設の前後、台湾政府から招請を受けたが中国に留まった。
 建国直後政府から仕事を依頼されたが、当時の中国は「古いものを全て破壊した後に新しいものを築く」、と言う思想で、ローマ法は拒否された。52年中国は156種の法律書を発行したが全てソ連のものであった。
58年家族とも西部奥地の西寧に左遷。当時の左傾の思想から、ローマ法は無視された。
家族が食べるものは青い果物で、気候の乾燥もあって鼻血が絶えなかったという。
 やがて文革時代となり、彼が図書館に置き忘れたローマ法が行衛兵に見つかり「資産階級の宣伝」をしているとして、頭に「資産階級言論」と言う帽子をかぶせられて、何度も糾弾大会で吊し上げられた。
 やがて農村へ追放、馬の世話をすることになった。
 1972年定年となったとき、周囲の人は「お前なんかに教授ができるか」と軽蔑されたと娘が振り返って言う。
その累は家族にも及んだ。教授の娘は成績が優秀であったが、大学受験の権利が与えられなかった。助け合ってきた妻は生活の困窮で西寧で亡くなった。
 これら苦難の長年月を教授は想い出したくないと、漏らしていた。当時は知識階級はすべての迫害を忍ぶしかなかった。
 父は行衛兵が家捜しに来るとき、死を犯してローマ法関係所を麻袋に入れて土に埋めた。そしてそのまま土の下で腐敗し消えてしまった。中国には「ローマ法原論」は長く存在しない。こうして人生の一番大切な時を、あたら無駄に送らねばならなかった人達が中国にはなんと多いことか。

  人生は70から

 70年代後期になり、世間が彼を見直すようになった。
     訳注:文革は66年から76年

 上海へ回され、失業の日々を送っていた彼に、著書「囲城」が注目され、講演を頼まれるようになった。1980年安徽省大学が彼を招請、「法律と民法」を教えることになった。後に安徽省大学の基礎を固めた人と考えられている。
 83年政府中央司法部と大学とでローマ法研究を開始、ここから多くの法律学者が誕生した。
 87年、安徽大学は彼の論文集を発行することを決定、7年後「ローマ法原論」が遂に完成した。
 彼はこの後も研究に極めて情熱を注ぎ、講演などもこなしたが、しかし身体が自由を聞かず、学生に助けられて身体を動かす日々になった。しかし収入面ではほとんど何もなく金銭的に明らかに不自由をしていたが、学生達の援助を受け入れることはなかった。
 80年代になって「中国大百科事典、法律の巻」を編纂。85年中国の民法関係の学者が集まって「民法通則」を完成。この時の作成委員長、澎真氏は「中国にこの様な立派な人が居たことは知らなかった」と語っている。97年、89歳の彼が「英米法辞典」を校正。この仕事には報酬が無く、辞典に名前を載せることもなかった。  
 この後5年、彼は一路法律辞典の校正に努力した、しかしこの頃には手が震えて字が書けず、2代目の妻の手を患わしていた。
 上海に出てからの彼の住まいは50平米の古い建物で、壁が崩れることもしばしばあった。安徽大学が新居を提供することを決めたが、それは生前には実現しなかった。

 4/15日昏睡状態となり、静かに息を引き取った。
 彼の遺体は赤十字に提供され、残った著書類は安徽大学や高校に寄贈された。
 
90年代になり多くの博士が亡くなった。彼等は共に理想と情熱とそして孤独との闘いであった。そしてそれらが今静かに寂しく昔を偲ばれている。アメリカの国歌は言う「老兵は死なず、只消え去るのみ」と。そしてこれら中国の学者達もまさにこの言葉によって見送られるのが適しているようだ。

訳者注:
 この記事は新中国建国後、人権や科学を如何に扱ってきたかを証明する事実を述べています。その程度と時期とを。
 もし中国が建国直後から「人権」と「科学」を尊重していたら、地球は遙かに平和で豊かだったでしょう。特に日本に対して良い影響を与えていたと思います。
しかし現在も国家体制としては「人権と科学」を尊重することは出来ません。それはこれまでの翻訳の事実が物語っています。
小説「老鬼」では文革終了時、主人公は幹部ににらまれ大学受験ができず、彼の恋人は彼を裏切ることで党幹部におもねって、大学を受験し北京へ行きます。彼は今アメリカにいます。
 この小さな記事一つでも、中国人はあらゆる人生の苦痛を、心に刻みつけられた苦痛をここから読みとることでしょう。
 しかし社会の底辺では確実に人権と科学の尊重が芽生えているのも事実のようです。
 中国の法律・行政関係では21世紀の時代を考えるとき、極端に時代遅れで非近代的です。
 で、日本はこの中国の大きな悲劇から何を学ぶべきでしょうか。