作曲家”李劫夫”と文革


04/07/15 南方週末 陳益南

「我々は大道を行く」「革命家は何時も若い」「牛飼いの歌」等中国ではかって誰もが知っていた曲の作者”李劫夫”。
抗日戦争時代から彼は作曲を初め、建国後はその全盛期を迎えた。そして突然文革の中期、彼は微妙な状態に置かれ、人々の口から彼の歌が歌われなくなった。その理由には”林彪”とちょっとした繋がりがある。

 李劫夫の本名は李雲龍、抗日闘争に参加し、青島に逃げ、そこでかれは音楽と絵画で抗日戦争に参加することになった。その偽名が李劫夫である。
 建国後1966年周恩来と偶然近づく機会があり「貴方の歌は大好きだ」と言う賛辞を受けている。この時李劫夫は「父や娘と言えど毛沢東には及ばない」と言う曲を作っている。
 彼は党員であったこともあり、曲が政治的なものに偏って行った。かれは芸術も政治活動に奉仕すべきという理論に従っていた。が美的感覚という面では飛び抜けたものがあり、「毛沢東語録」と言う歌も人々に愛され長年月歌われた。
1968年 8月審陽音楽院革命委員会主任となった。
 この後下記のような問題が起こり、1979年11月、「重大な政治的誤り」を犯したと党に宣告された。その理由は彼が作った曲「林彪主席に従って前進」が決定的である。
 彼自身は唯中国のため、党のために働いたが、しかしその結果は思わぬ結果をもたらすことになった。彼の人生の中で最も脂の乗りきったと見られる歳に作曲の道をたたれ、生命の道をたたれた。
 1976年12月17日心臓病で、改造所で命を絶った。63歳であった。
 
 彼はもともと音楽の方面には極めて突出した能力を持っていたが、政治方面にはハッキリ言って幼稚な面があった。特に政治方面の人間関係ではその裏を見抜く力が欠けていた。彼は政治的な人間関係の中での悲劇に数多く出会ってきた。そこで彼は政治活動には恐怖さえ抱いていた。その恐怖が彼自身に襲いかかった。
 審陽音楽院に居たとき、1959年に始まった「反右派闘争」が彼を巻き込んだ。彼は音楽第1、政治第2の姿勢があったので、「右傾の機会主義者」と言うレッテルを貼られた。だが幸いなことに、党の宣伝部長に多くの信頼を得ていて。ことは重大になるのを避けることが出来た。
 そして問題の文革が始まった。当時の党幹部、その数は1千万を超すと思われるが、彼等と同じ運命、江衛兵による批判闘争に掛けられた。彼は江衛兵のなすがままであった。 そして家財を没収された。その後も「走資派」のレッテルが貼られたが、しかし当時の江衛兵には2派があり、1派は「打倒、李劫夫」と叫び、他派は「抗日時代からの活動を見る」として彼を擁護した。だが擁護派は勢力が小さく、その争いを避けるために彼は北京に匿われることになった。
 北京の匿われた場所でも造反団が勢力が増し、彼は批判大会に出されたが、江青などが彼の曲「我々は大道を行く」の曲が革命路線に従った良い曲、と言う評価を得て審陽に帰ることが出来た。
 戻った審陽で武装闘争が始まり、彼が再び批判大会に掛けられようとしたとき、たまたま北京で人民日報による「延安文芸座談会」に出演する話が出、彼が北京に呼ばれ、一難を逃れている。
 
 北京で「中央文革委文芸活動」に参加することとなり、「毛主席語録賛歌」を作曲。この歌は中国の全国で数億の人々に歌われた。現在でもカラオケ店に行けば彼の「毛主席万歳」の曲を見つけることが出来る。

 こうして更に名声の上がった李劫夫は此処北京で有名人と交流する機会が増え、そのことで暗黒の落とし穴が待って居た。
 
 1968年総参謀長に抜擢された黄永勝と李劫夫は抗日時代からの知り合いで、黄の子供を審陽音楽院に預かったりしたこともあり、両家は深い交際をすることになった。そのことが江青の不満をかった。

1968年の初め、黄の妻から林彪の息子の連れ合いを探して欲しいと頼まれることになった。その連れ合いは幹部の子供では無い方が良いという条件であった。
李劫夫が適当と思われる娘を捜し、林彪と会うことになった。
 林彪との面会は極めて普通に行われた。林彪は彼の曲を賛美し、幾つかの贈り物を出し、毛沢東語録と毛沢東の写真をも添えた。また李劫夫への心臓病の薬も渡された。
 当時林彪は「副総統」であり、彼と面接することは容易でない出来事とされた時代である。
 李劫夫夫婦は帰宅後直ぐに丁寧なお礼状を書いた。即ち「毛主席、林彪副主席に永遠に忠心を誓う」と。
 この手紙が後に犯罪の証拠とされた。
 更にまた、1987年林彪から掛け図を貰い、その礼として「再び井岡山に登る」の曲を書いた。この曲も罪状の一つ。この直後6月、彼は心臓病が悪化して入院した。
 入院見舞いに来た黄、葉群などの要人の前で彼はこの歌を歌った。臨席した人達はその歌の勇壮さに感嘆し賛美した。このことも彼の罪を一層深くした。

 さて時局が一転する。

 1971年9月下旬、李劫夫は外蒙古からの報道の「数多くの重要書類を運搬した飛行機が墜落」と言うニュースを漏れ聞いた。
 何か政府上層部で問題があるらしいこと。毛沢東も病気であるらしいこと、これらの噂が流れた。

 訳注:林彪は毛沢東の暗殺に失敗して国外逃亡途中外モンゴルで墜落死。

 9月の次は10月1日の国慶節である。その式典は従来通りで特に変化は見られなかった。周恩来総理の挨拶も普通であった。李劫夫にとって唯毛沢東が重病ではないかということしか推測できなかった。
  
 彼は再び作曲に没頭し、「林彪主席と共に前進」を作った。この題名を見た彼の妻は吃驚した。彼女の驚きに対し李劫夫は「毛沢東が危篤のようだ。そうすれば”林彪主席”が発表される。その場で直ぐこの歌を披露したい」と言った。
 しかし妻の忠告を聞いて彼はこの歌詞を焼いた。
理屈から言えば、この歌詞は灰になっていて証拠がないのに、しかし後日彼の罪業の一つとして数えられている。

 1971年10月20日、李劫夫の夫婦が改造所に送られた。改造所は正式の監獄ではないが、しかしそこでの審査方法は精神が狂うことを狙って寝させず、数人が代わる代わる尋問を浴びせる方法が連日連夜続けられた。この強烈さは正式の監獄を超えるとも言われる。
 後日談だが、彼の妻は帰宅後の想い出に「丸で何かの薬を飲まされたようで、一つのことに集中できず、精神をコントロール出来づ、幻惑が頭に彷徨う日々が続いた」と述べている。
 この方法は如何なる志操堅固な人でも心中の秘密を漏らしてしまう有効な手段だとのことである。
改造所では彼が林彪と政治的集団を作ったのではないかという罪が問われ、彼と交際のあった人達にも審査が及んだ。
 76年12月彼は改造所でこの世を去った。同じ時、文革4人組が逮捕され文化大革命は終わった。
 
79年11月、党規律委員会は彼の罪は「積極的に反革命林彪の陰謀に協力した。その罪は重大である。しかし既に死亡していることを考慮し、これ以上の追求はしない」とされた。
 しかしこの判決は文革左派の臭いがするという人もいる。
 
 81年7月の音楽祭で、音楽協会主席の呂氏が「今後李劫夫の歌を歌っても良い」と発表。この話は24日の遼寧日報に掲載され、10年間の禁止が破られた。

1997年の香港返還式展でも李劫夫の「我々は大道を行く」の歌が演奏された。
 94年には遼寧省の文化人による遺骨式が盛大に行われた。

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訳者注:
 11年前、1993年のこと、中国から来た2人の青年に今でも毛沢東賛歌が歌われているかと聞いたことがあります。 
 当時は既に社会主義への希望は誰も持っていないときです。何より毛沢東が中国を破壊したのは事実です。「でも特に農民は毛沢東万歳の歌が好きだよ。それは中国の多くの皇帝が農民を痛み着けたけれど今でも多くの人々に偉大だと思われているのと同じだよ」と彼等は答えました。
 毛沢東も多くの皇帝と同じく中国人の頭上に君臨し、一人の支配者として名を残したようです。
 この記事でも林彪の飛行機墜落事件につい
ては、その理由を書いていません。本当のことは中国人は誰も知らないことになっています。真相は何時解禁されるのでしょうか。それこそ中国党の勇気と民主主義が問われています。
 林彪は相当頭の良い人という評判で、建国直後から、毛沢東へ反対意見を述べるのは危険であることを見抜いて、毛沢東にすり寄り、従順であることを示して、打倒毛沢東の機会を狙いました。そして1971年失敗しました。
 周恩来も同じく毛沢東には反論できず、自分の出来る範囲で被害を押しとどめようとして、そのまま一生を終わりました。
 周恩来の葬式には多くの中国人が彼の人柄に惹かれて、文革中にもかかわらず参列しました。が、現在では彼の勇気のなさを人々が知り、尊敬の念が消えています。中国の社会主義が中国に与えた巨大な損害に比べれば周恩来の役割はあまり意味がなかったと言うことでしょうか。
  
 林彪の死を知った毛沢東は急速に耄碌し、(中国の教科書)周恩来などがアメリカと国交回復。(この時毛沢東は呆けています)
 ついで日本と国交回復。その目的は実際上消滅しつつあった中国そのものの回復を狙い、登小平が採用され、経済の立て直しを図ります。
 1982年、農業の自主生産許可。1992年、株式制度樹立、工業・産業の自由化。

  計画経済による生産後退、人民公社による膨大な餓死者、文革による工場や学校の停止、建国直後からの階級闘争による人権無視、その他ほぼ全ての政治政策が幼稚で非科学的、等々の悪政の極で、中国全体が消滅しつつあったのがこの自由化で生き返りつつあります

 建国時は「社会主義では全ての矛盾は消滅した」と宣言した中国。その実は全ての矛盾が拡大発生していたのです。
さらに一言。
 この文は5年前から比べれば、かなり発言が積極的で、言いたいことを言っているように思える箇所が随所にあります。言えないところも随所にありますが。