先生、ごめんなさい

04/03/18 南方週末 テレビ放送から

 1967年の秋、林大龍等50人の子供達は北京市の中学1年生の第9組になった。生徒の見るものは何でも新鮮に見えた。教科書も、学校も、徽章も、服装も、空気や日光さえ新鮮に見えた。今、学校の鐘が鳴り、授業が始まろうとしている。

 林大龍:私たちの担任の先生は「唐文潔」と言いました。美しい顔、優しい声、威厳のある振る舞い、しかし親切そうな笑い顔、これらの印象がとても強く全ての生徒の心に残り、先生の服装や身に着けているものまでが光っているように思えました。
 先生の担当は国語で、私達は誰もその授業が好きになりました。林大龍先生は一心不乱に教えているのが解りました。生徒達は先生の咳の音さえ漏らさず聞こうとし、先生の本を読む声に聞き入りました。
 この甘いような想い出の中、あっという間に月日が経っていきました。
 しかしこの頃から授業時間が次第に消えていき、「革命」の会議時間がそれを埋めて行きました。それが「批判闘争」です。次第に「批判闘争」へ引き出される先生が増えていきました。
 ついに私達のクラスも「批判闘争」をするようにとの通知が来ました。勿論批判する相手は林大龍先生です。会議の様子は、もう誰もうっかり発言できず、重苦しいものでした。でも学校の命令に反抗できる生徒は居ません。
 しかし「走小資派」(小ブルジョワ)として批判されるべき先生は、当時妊娠7,8ヶ月の身重でした。
 批判する私達は皆10歳そこそこの子供です。先生に罵詈雑言を何とか浴びせることは出来ても、その身体に攻撃を加えることは誰も出来ませんでした。
 ある日の「批判闘争」で私達生徒が終生忘れることの出来ない場面、それは次のような情景です。
 先生は教壇で頭を垂れて俯いていました。そのまま静かな時間が流れ、ついに数人の生徒が泣き出しました。本当に頭を下げたいのは先生ではなくて私達生徒だったのです。
 翌日から教壇上に先生の姿を見ることは出来なくなりました。毎日、先生は大きなお腹を抱えて便所掃除をしていました。
 私達はとてもその姿を正面から見ることは出来ませんでした。誰も本心はすぐに「先生ごめんなさい」と謝りたい気持ちで一杯でした。でもそれは当時には不可能でした。
 やがて先生とは一言の挨拶もなしに、その姿を見ることは出来なくなりました。
 歴史が流れ、去る2000年の国慶節の時、私達は30年ぶりのクラス会を持つことになりました。クラス会では誰もが、唐先生はどうしたのだろうか、と言う話になりました。
 私達が中学に入った時に担当してくれた先生。でも私達の力では、先生に加えられた免罪を晴らすことが遂に出来なかった。ああ、先生は今どこにおられるのだろう、それが皆の気持ちでした。
 
 1969年唐先生は北京「金頂中学」を去り、先生の職を捨て、愛した生徒達を捨て、また他の先生達に災が及ばないように、全く誰にも別れの挨拶をせず北京を離れ上海に行きました。
 上海で、軍人家族用に創られた「上海電子管」に採用され、工員として働きました。当時「工員」は栄えある身分でした。工員が社会を支配すると教えられました。先生は教職の身分を捨て、身体を使った労働に参加しました。
 先生は工場で十数年働き、先生の細い手にはタコが一杯できてしまいました。
 1984年、工場は知識階層の価値を認めるようになりました。

訳注:文革は1968年から78年まで。
 
先生は工場の教育課に配属され工員達の文化と技術の教育をするようになりました。
 先生が立つのは学校の教壇ではなく、先生の前に座っているのは若い子供のような中学生ではありません。工員の中には全く学校へ行けなかった人達も居ます。教育そのものが否定されて長年月が経ってしまいました。先生は教育が見捨てられた期間を想い、また昔の子供のような生徒達を想い、心に深い感慨が沸き起こる日々を過ごしました。
 先生は、自分もかっての生徒達も、黄金の歳月が過ぎ去ってしまったことに深い悲しみを抱くのでした。
  
孫莉: 私達の担当をしていただいた唐先生を上海に探しに行きました。それは案外簡単に事が運びました。上海政府の事務所で聞くと、すぐに相当する名字が見つかりました。
 先生の住んでおられる村へテレビカメラを持参して訪問しました。私達がテレビカメラを持っているのを見た村人達は、きっと先生が宝籤に当たったに違いないと考え、大勢の人が外へ出てきて取り囲みました。
 先生は年齢こそ取っていられたけれど、まだ美しいおばさんという感じでした。部屋は貧しいけれど清潔に整理され、中でも目についたのは本棚でした。文学書がびっしりと並んでいます。本の背びれには筆で書名が書かれています。本棚の横のテーブルに先生の若かった頃の写真が貼ってありました。長年の苦労にもかかわらず、先生の身の回りはいつも清潔にされているのが判りました。

 テレビ番組「真実」の中で、30数年ぶりに出会った先生と生徒達は肩を組んでカメラの前に並びました。皆、もう50歳を超えています。誰もが泣いています。
 この場へ来られなかった生徒達は、北京市の外れで、何れもが深々と頭を下げて「先生ごめんなさい」と謝っている姿が別の画面に映し出されました。またガンを患い病床に屈みながら、「先生何時までもお元気で」と、手紙を書いている姿も映し出されました。
 
 唐文潔:
 そのとき私は感動の極みでした。その生徒達のことは、本当に心の底にその姿が焼き付いていて忘れたことはありません。彼等はどんな自責や申し開きをする必要はありません。彼等が若かったからではなく、あれは歴史そのものが悲惨だったのです。その歴史に彼等は何の責任もありません。
 これからも、短い人生かもしれませんが、しかし有意義で楽しい人生を過ごしていって欲しいと願っています。太陽系には500万個の星があると聞いています。どの星も自分の軌跡を持って動いています。地球上の彼等元生徒達も、自分の人生を健康で着実に歩みを続けて欲しいと願っています。
 図は林大龍と唐先生。



訳者注:
 私はこの原稿を訳すことが出来てとても嬉しい気持ちです。日本人の私でも、文革の話は本当に涙無しには読めないような気持ちになります。まして、中国の人達はどんな想いでこのドラマ(実録)を見たのでしょうか。
 毛沢東が死んで25年になります。今やっとその頃のことを、党が許可して、語られるようになってきたようです。
 しかしここに登場したのは、実害の比較的少ない人達です。(党が公認する程度の)
 この程度の被害の話から歴史が語り始められていると言うことでしょう。
  
 私が大連に着いたとき、99年春、29歳の青年が「中国には政府公認の、党主導の大衆運動」しか無かった、と語り、日本の大衆運動をとても高く評価していました。その時、私はその意を充分には理解できませんでしたが、翻訳をしていくうちに、中国の実態が判り、中国では民主主義が育たなかったことが、人権が全く無視されていることが判ってきました。如何なる世の中も上からの命令で大衆が動かされている限り民主主義も人権も育たないでしょう。まして、間違った思想の下では。
 ここでハッキリと書かれているように文革は上からの、学校当局からの命令であったのです。しかも非科学的で、非人道的なものでした。
しかし当時の日本では、文革は資本主義価値観を超えた、古い支配階級の価値観を破壊し、高い次元の文化を築く、等という見方が一部にされていました。
 しかし実はここに描かれているのが「真実」だったのです。
 小説「上海の夜」では、当時の中国の青年が、激しい政治的流動の中で、極めて個人主義的利害を追求する「ずるがしこい人間」に変わっていく様が描かれています。

 文革のことを、悲しみではなく、怒りで語られる時代が来ることを!