農夫が死んで 

 
04/0701 南方週末  師欣

 家庭内で争いごとがあると、農婦はどうしても直ぐ死を考えてしまう。農村での複雑な人間関係があり、女性では何事も解決できない。そのまま生活は継続し、何事も変わらず、やがて気持ちも少しは緊張が和らいでいく。
 
 農婦の何敏秀は身長が低く髪は耳当たりで切り揃えている。記者にこれまでのことを語り始めると、涙がどっと溢れてくる。
 彼女の夫、景長発が自殺した時は46歳で14歳と9歳の子供が居た。
 何の家は周囲が壁で、家の中には家具らしい物はなにも無い。記者が彼女に会えたのは夜の9時頃で、いつものようにその朝も4時には起きて麦刈りに行き、暗くなってから帰宅している。
 「以前夫が生きていた頃は、毎日これから何を何処に植えたり、刈ったりするかを相談するのが普通でした。しかし今は誰にも相談できず、誰も援助してくれる訳でなし、、、」
それでも、とにかく鋤や鍬を持って畑へ出て、簑で篩っては風に任せて麦を撒くこの頃である。遠くを見ると何処の畑も男手が畑へ出ており、それが目にはいると、彼女の気持ちは悲しくなる。自分の力では麦を刈る時の高く放る力も少なく、途方に暮れることしばし、、と、ここまで言って彼女はまた、はらはらと涙を流している。
 続けて数日麦刈りに出た時は、彼女の腰は痛みで曲がらなくなる。

 何処の家も今年は収穫は終わり例年並みのようだが、女手一つの彼女の所はまだ終わらない。
 景長発が死んだ時、自分の田の真ん中に埋めた。当地の習慣で自殺は「無念死」と言う扱いで、土葬が許されている。
 やっと全ての麦が刈り終えて、周辺を見れば畑の真ん中に小さな土の盛り上がりが見える。それが夫の墓である。土の上には草が生えている。
4年前2人が新しく家を建てた時、まだ引っ越しをしない内に夫は農薬を飲んで自殺した。家を建てることがもめ事の発端を造った。それまでにも怨念のようなものが積み重なっていた。

 夫の兄は街の党幹部である。姉も妹も居て、共に街に住んでいる。そのことで、夫の両親は何時も口癖のように、農村に住む2人をなじった。夫の兄弟姉妹も夫を攻めた。それが彼女には堪らず、夫に何とかして欲しいとせがんだ。そのような神経の疲れる日々が続いた。
 新しい家が完成する時、長兄が100万元出してくれた。夫の姉には1000元借りた。がこれらが苦痛の種を広げた。力関係が以前に増して際だった。彼女達2人の姿勢は低くなるばかりだった。
 特に姑の毒気のある不平がしばしば届けられた。夫はますます卑屈に黙るばかりであった。夫が自殺する前日、彼女と舅と小姑とがちょっとした揉め事から叩きあいになった。夫はいつものように黙ってみているだけであった。子供は唯おろおろするばかり。その夜2人は相談して近所の人に1000元を借り、先ず姉に返すことにした。
9/14日、夫が自殺するその日の朝、彼はどこかから金を借りてきた。夫は帽子をかぶり、草鞋を履き、新しい家へ向かった。彼女はその後から付いていった。夫はこの数日機嫌が悪かった。顔色は真っ白だった。夫は新しい家の天井にある梁を見上げ、じっと何もせず黙り込んでいた。彼女が「何をしているの」と聞くと「何も言うな。俺は解らなくなってしまった」と言うと静かに泣き出した。彼女は夫に「しっかりしてくださいよ」と言い残して古い方の家に戻り朝食の準備を始めた。子供が学校に行くので食事を待っているのだ。
 直ぐに夫が戻ってきた。「もう一度子供に会いたくなった」と言う。そしてそこでまた泣き出した。彼女は何かその調子に異変を感じた。後で解ったのだが、その時既に夫は農薬を飲んでいたのだ。そしてそこでもう一度水を飲んだ。
彼が倒れて直ぐに医者へ運んだ。途中彼のお腹はぐるぐると音がして激流が走っているようだった。汗も激しく吹き出た。「男には面子というものが有るでしょう。村の生産大体の会計を受け持つ身でありながら、どうして一家を支えられないの」と彼女は文句を言った。
 医院で4時間ほど医者が奮闘してくれた。しかしそのまま夫は息を引き取った。 
「私達2人は、夫の服のボタンは私の服に掛かり、私の服のボタンは夫の服に掛かっている。全て2人でやって来ました」彼女はこう言って声を殺して泣いた。
 「それまでの想い出を絶たないと何事も始まらない」と考えて彼女は夫の写真を全て焼いた。そしてとにかく生活はこれまでとはすっかり変わってしまった。
 子供達は時々「お母さん、私に夢でも良いからお父さんに会わせて」と頼みに来る。「お父さんは新しい家にはもう来ないの」などと聞いてくる。
 彼女は子供達の前では決して泣かなかった。只一人田に出て地面に伏して泣いた。彼女は母一人の手で2人の子供育てればきっと、将来問題が起こるかも知れないと恐れた。 実際彼女が出来ることは何もなかった。よその家と同じようには出来ないと悟った。日が暮れると直ぐに家の門の鍵を掛け、誰とも会わない日が続いた。
農村での人間関係は複雑で閉鎖的である。大人が世間話をする時、周囲を見渡して少し腰を低くして話す。彼女には子供以外に話し相手になる人は居なかった。
 彼女は子供達に「学校では先生の話を良く聞くんだよ。余所様は父親が居て、勉強を助けてくれるかも知れないが、我が家には居ないでしょう」と注意した。
 彼女が田畑を歩く時は他家の畑を踏まないように細心の注意をした。もし畑を踏んだりしたらもめ事が起きて大変なことになる。
  夫が死んで1年が経った時、それは大雨が降っていた日だった。豆を取りに行って帰ろうとした。豆は雨で濡れて重みが数倍に膨れあがった。手押し車を懸命に押す彼女。やっと隣家の前を過ぎたとき、ちょうどその家の主人が顔を出した。しかし向こうは丸で何も見なかったように、そ知らぬように反対に行き過ぎた。彼女も顔を背けて、ただ懸命に車を押した。今ここで誰にも頼ることは出来ないものだと、自分に言い聞かせるのだった。誰にも援助を受けられない身にいつから成ったのか、本当に悲しかった。

 彼女は学校へ行っていないので、字が読めない。その彼女が今回北京に行き、NGOの組織に参加することになった。そして多くの先生の講義を聴いた。講師達は懸命に彼女を勇気づけるために苦心した。
「人からこんなに親切な援助を受けたのは初めてです。もう家に帰りたくないくらいです。今は気持ちが明るくなって来ました。頭もすっきりし、これからの困難に何とかやって行けそうです」と彼女は語る。
 同村に住む、張金霞という農婦が記者に「何敏秀さんとは同じ村です。でもこれまでは話をしたことがありませんでした。これからは時々会っていろいろと世間話もしてみたいです」と語った。


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 訳者注:日本にも戦前の農村は閉鎖的で何事も秘密にした時代があったのではないでしょうか。
 中国の場合、この家庭の苦痛の根本は、都市と農村の身分の差が、直”人間の上下”になっているところにあります。
 まして長兄が都市の党の幹部なら、同じ兄弟と言ってもその身分差は天地の差として世間から見られるのではないでしょうか。舅姑は常時「長兄を見習え」と毒舌を吐いているのでしょう。なんだか私にも聞こえてきそうです。
 長兄が都市に住み入党できたと言うことは、多分大学に行ったからでしょう。卒業時親が農民でも都市で就職する権利が生まれます。大学を出ていれば入党できます。試験がありますが。
 その長兄が弟の家の新築に100万元を出したというところが凄いですね。私は記事の数字が間違っているのではないかと吃驚しました。都会でも30万元で家が建つのではないでしょうか。これは多分都会に近いところで、西洋風の豪華な住宅でしょう。
 それだけの大金を党の幹部が持っているのも、日本人なら何かの間違いのような気がしますね。日本なら暴動になりかねないでしょう。

 今から10年前までは党に入党することは中国人誰もが”一生の夢”でした。
 私が99年大連にいた時も春には入党者の名前が校内に張り出され、学生の羨望の的になっていたようです。
 最近は、農村ではまだこの記事のように党が威張っているのでしょうが、都会ではかなり明確に党を軽蔑する人も居ます。「卒業して半年もすれば賄賂で暮らす人間になる」と。
 (私の大連日記参照)