西部農村を知る

04/01/15 南方週末 記者 閔家橋

甘粛省の青年が自転車で6年間36万キロの旅程を旅し、写真と記録に残したものを、北京に持ち帰り、展示して回っている。
 彼はその後の人生を西部の農民教育に捧げると言っている。

 尚立富は今年26歳で、甘粛省の農家出身。昨年西北師範大学を卒業した。
昨年末の2ヶ月間、北京のあらゆる高校に頼んで写真展を開かせてもらった。
 その場に準備した「感想記」には、「泣けてくる」とか「この故郷は私の故郷です。写真は見慣れたところ。でも涙が止まりません」というような文字が見える。
 尚立富は言う。「私の希望は多くの人達が西部の農民教育について考えることです」と。

 彼が19歳の時西部への旅を開始した。しかし初めは目的は無かった。周りの学生たちは入学直後でうきうきし、また将来の理想を語った。しかし彼にはその頃まだこれというものは決まっていなかった。
彼は農家出身といっても子供の頃に両親と共に農村を離れ都会に出かけている。そして西部の農村を旅行することに決めた。

 都会を知った彼が、大きくなって実際に自分の目で 西部の農村をみると、その荒涼さ、極貧さは彼の心を震えさせた。大昔シルクロードとして栄えた西部全体が、現在は至る所が荒れ果てている。
ある真夏の頃、小さな1泊6元の旅館に泊まった。浴室で身体を洗おうとして衣服を脱ぐと、近くの人達が逃げるように浴室から出て行った。彼が湯船に入ると、なんと、出るわ出るわ、彼の身体から埃や油が湯船いっぱいに広がる。これが西部の旅で必然的に身に付く”おみやげ”だった。
 半年後の冬休みにも自転車で西部に行った。彼は師範大学の学生である、将来は教師になろうとしている。そしてその考えでいくと、西部と東部では何故こうも教育環境が違うのだろうかと考えるようになった。
 99年6月東部への旅行のためにアルバイトをして金を貯め、9月に東部へ旅行をした。
 こうして全国を見て回りながら、彼の考えは西部の教育のあり方を根本的に考変える必要を感じるようになった。
 02年からは1年を賭けて自転車旅行をした。そうして彼の人生は「西部教育」へとはっきりと固まりだした。
 
西部はいかなる教育が必要か

 彼が旅で出会う子供達は何かを求めて食い入るように見つめる目、眼をしている。その子供達を見て、彼の目はいつも涙が流れた。
 寧夏というところで厄介になった家では、12歳の女の子が4年前から食事を作る役目だという。その家には4人の子供がいる。彼女は上から3番目。一番上の兄は下の子供達を学校へ通わせるために小学校を卒業する前から学校を辞め、都会へ出稼ぎに出かけている。しかし実際は下の子供達も年間数10元の学費が完全には払えない。
 その娘は夜暗くなってから部屋の片隅で宿題をする。壁には灯光で娘の陰が揺れている。
 西部では子供達だけが貧しいのではない。学校の先生も同じだ。
 農村近郷には民営学校があり代行教員がいる。彼らは年間を通してほとんど無報酬だ。
 陜西省のある民営学校では、17年間教師として働いている人の賃金は100元以下だ。
 毎月賃金を受け取るとき、その教師が記録するが、現在までの未払いの額が1.7万元になっている。しかしその人は教師を続けている。
 西部への旅行で多くの人から熱い訴えを聞いた。その声は「もっと政府に教育予算を出してほしい」と訴えている。
 確かに予算が大切だ。だが本当に問題はそれだけか。
 甘粛省の会寧で、教育の現場を見たとき、彼はこの問題を突きつけられた。都会から離れた辺鄙で貧しさの極限のような地方で、すでに500人を超す修士や博士が誕生しているという。
 ある村で、その日を過ごすのさえ苦しい貧しいところで、ある兄弟が博士号をとっているという。その村の70%の人が汽車もパソコンも見たことがないのだ。だが博士は見ているのだ。
 内モンゴルの村では、学校の環境はとても恵まれていた。映写機も録音機も設置されていた。だがそれらはすべてビニールのカバーが被されているままだ。教師達は使い方を知らず、また使う必要も無いという。
 本当に必要なのは金だけではなく、教育に対する認識ではないか。
 農村での生活を見ていると、本を読むということが全く必要がないといえる生活である。そう、農民も教師達も考えているようだ。
 青海のある県で、中学校長が彼に、「もし生徒が受験に落ちたら、それでもまだ勉強しなさいと言えるだろうか」と語りかけた。
その県には職業学校はゼロだった。
 その校長が言うには、「学校教育の目的は文化的で労働ができる人間を育てることだとされている。しかし中学校を卒業しても生徒に文化といえるものはないし、生活のための技術さえ全くない。これが現在の教育の実態です」と言う。
 校長の言いたいところは、現在の教育は大学を目指すための教育で、しかしその教育は農村の生活には全く触れていない。このことが農民達には敏感に認識され、農民に自分の子供達を学校へ送り出す意欲を欠如させているのだという。
 これまでの教育は部分的な面にのみ重視し、大きな面からの理解が欠けていた。
農村の人にとって大学へ子供を送る必要などどこにあるというのか、それが整理されていないのだ。
 彼、尚立富は農村教育の目撃者にしかすぎない、と考えている。
 だが多くの人が西部の教育の実態を知ってほしいと望んでいるが、ただ、現在行われている、進学のための教育という点からの比較だけで西部を見て欲しくないと考えている。

 昨年彼は大学を卒業した。順調に行けば彼は甘粛省の銀行のトップの秘書となることになっている。その生活はたいしたもので、彼が1回の食事で食べる費用が、近隣の子供達の数十人の学費に相当するのだ。そのことを思うと彼はいたたまれなくなる。
 彼は銀行への就職を断り、北京の街をぶらつく生活をしばらく続けた。そして写真展を開き、彼が西武を廻ったとき学校へ行きたいが金がないため行けない子供達280人分のお金をカンパする有志を募った。
「西部は何を求めているか」と言う看板を掲げ彼は自分が何をすべきか、考えている。
 彼が当面求めている、学校へ行きたい生徒のための金は約15万元である。それを工面してくれる企業はまだ現れない。
 彼の今の希望は、多くの賛助者を集め西部に民営職業学校とその教師になる人の学校を建てることだ。
 これまでの彼の旅行は全く一人の孤独なものだった。そして今追求しているのも孤独な事業だ。
 農村の静かな道に立って山に向かい大声で叫んだとき、山はもっと小さなこだまを返してくる。しかしその孤独の中に小さな勇気がわいてくる、美しい勇気が、遠くへ広がる勇気が。
 尚立富は北京の出版社で生活を支えている。そしていつか彼の理想を実現すべく眼は未来を見つめている。しかしそれが何時のことになるか、皆目わからない。

 訳者注:
 農村の子供数:中国の漢民族は原則として一人っ子とされていますが、法律では農民は初めの子供が女ならもう一人生む権利があります。つまり多くても子供は2人のはず。しかし現実はここに登場するようにもっと多い。きつい労働を続けるため男手が必要です。
 他方都会では党の幹部には子供が複数居ます。お金を出せば許可されます。親の面倒を見るために(男の)子供が必要です。中国では男の子が結婚すると親と同居し、その子供夫婦が親の将来を見ます。
 私が中国にいた頃、2000年、日本では若者の結婚の条件は「親と別居」だと言ったら、中国の若者は驚いていました。
このため統計上、中国では男子の出生率が女性を5%ほど上回っています。(実際はもっと多い)WHOから注意を受けているとのことです。

 教育投資:建国後数年して農村にも社会福祉や教育に投資をしましたが、毛沢東による各種大衆闘争で経済が破壊し、最終的には10年目の(1959)大躍進政策ですべてが破産したままになっています。
 その毛沢東が死んで約30年が経ちます。だが農村への政治的財政的援助がないのは何故でしょうか。それが党組織のあり方に関係していることが、一昨年の翻訳で描かれていました。
 農民1人に対して管理する政府と党が数倍に膨れているからです。
 日本では明治の初めに学校教育が始まっているのを見ると、政治体制でこうも違うものかと驚きます。
 ここに登場する民営学校は出稼ぎのため違法に都会へ出た農民のために創られたものです。公的資金の援助がないため、このように教師の賃金も出せないことが多い。
 それでも昨年末、中国政府は数年で就学率80%を目指すと発表しています。