教授が村役人に


04/07/08  南方週末 李梁

 南京にある東南大学の定年退職教官、名は張栄亮が、故郷の陜西省の村へ戻り、そこで村役人の主任に選出された。いま「教授役人」と言われて有名になっている。
 彼は理想に燃えてその役を全うしようと努力し、お陰で各種の恫喝や殴打を受ける等の障碍が後を絶たなかったが、それでも帰村後早17ヶ月が経ち各種新聞のトピックスとなっている。

  教授が村へ戻ったのが02年秋、その村は現在開発中で、教授の父の墓にガソリンスタンドが建つと言うことで移設する必要が出来、村へ帰ることにした。当時これは錦を故郷に飾る、と賞され、村役人も大いに歓迎した。
 村の人口は380世帯、1400人で、中国では経済的には平均よりもかなり低い。村人の考え方は保守的で、この地から大学生が出たことはない。
 教授は南京にいたときの知り合いを経て、幾つかの企業を呼ぼうとした。すると村役人はのらりくらりの対応を繰り返し、持ち込まれた資金を直ぐ遊びに使ってしまう。
教授は地域の俯瞰図を見て、この場所が農業にも住居にも適した素晴らしい場所であるのに、何故このように閉塞し貧しいのか不思議に思った。そして役人の対応を見て以降失望して、自分が村役人にならなければ、と考えるようになった。
そして市の民生課に行き、自分が役人に立候補する資格があるのを確かめた。
 しかしこれが直ぐ噂となって、彼の人生は波瀾万丈の始まりとなった。

 そして03年春になって村役人の選挙が告示された。旧正月の5日目、猛烈な寒波の夜、教授は死に直面する恐ろしい経験をした。
 夜の9時頃数名の農民と村委員会の部屋で選挙について話し合っている時、建物の外に大きな怒鳴り声が聞こえた。村主任、劉広文が息子2人を連れて殴り込みに来たのだ。「出てこい、けりをつけてやる」外では主任が石のブロックと鉄棒で周囲をたたき壊している。簡単な入り口の鉄門は直ぐに壊されたようだ。そして家の門も又壊された。がんがんとか、ばしばしとか言う音がする。主任が部屋に入ってくると酒臭い臭いが漂う。張さんの妻、馬慧艶が恐怖に震えながら「貴方逃げて下さい」と叫ぶ。
 教授は窓から外へ飛び出した。外には大勢の農民が集まってきていた。しかし誰も主任の暴行を停める人は居ない。教授の妻、馬さんも大学福教授であった。彼女はハラハラと泣くばかり、このような暴力的不正行為は見たことがないのだ。その夜教授は自宅には戻らず信用できる農民の家で泊まった。
 これが暴力事件の始まりであった。これ以降村の主任選挙と共に暴力は継続した。

 02年10月、農村の入り口に「村の経済的発展検討会、提案者”張栄亮”」と言うポスターが張り出された。
 教授は初め農民達は毎日地面を見て暮らしており、この集いには4,50人も来れば大成功だと考えた。ところが会場の小学校に集まったのはなんと200人も居た。教室は小さく、2人用の椅子に5人も座る様子、廊下にまで溢れていた。
 教授は産業を増やし工業も呼び寄せ、生活地域を設定し、何時かは南方の最発達都市「華西村」と並ぶ村に出来ると、訴えた。
 この話を聞いた農民達は興奮しだした。特に若者は「やがて俺たちは土地を耕さなくてもよいのか、俺は労働者だ」等と冗談が飛び出す様であった。
 2回目からはより多くの農民が参加できるように公道上で行われ、開始の合図に爆竹を鳴らす勢いになった。3ケ月の間に5回の検討会が行われた。
 教授は慣れた演説で農民を引きつけ、農民達は新しい言葉を次々に理解し、しかも理想を持って生きると言うことを理解しだした。 ついに教授は市まで行ってスピーカーを買ってきた。農民達は椅子や机を持って会議に参加し、照明を準備したりした。
 村の主任選挙には教授以外に3人が名乗った。現主任の劉広文とその親族2名。村の党書記は選出の見込みがないと言って届け出なかった。3人は共同して教授を追い落とそうとし、村人の取り合いを始めた。
 劉らは自宅へ大勢の農民を招き食事や酒を提供した。そして帰り際に「お前が食べた食事、飲んだ酒は何のためか」と念を押した。
有る農民は酒席を喜び、有る農民は「自尊心が壊された」と真剣に怒った。
 更に劉氏は農民が請け負っている土地代を軽減しようとまで言い出した。
 これに対し大喜びする人も居たし、激しく怒る人も居た。
 やがて次のような噂が村に流された。「教授の頭は毛が全くない。彼は本当は大学の食堂係だったのだ。また娘2人をアメリカへ送っている。そのため金が要るからこの村へ稼ぎに来たのだ」というものだ。
 03年2/13日、予備選挙が行われ、教授は一番得票が上だった。その4日後正式選挙が行われることになった。誰が見ても当選確実に見えた。
 その夜も大勢の農民が教授の家に集まりわいわいと議論した。そこに見慣れぬ農民が一人いた。
 そしてその翌日から雰囲気がおかしくなった。何時も挨拶する人達が何かよそよそしい。その中の一人が教授にそっと内緒だと行って打ち明けて、「私はどうしてもあなたの傍に近寄れません。貴方も充分用心してください」という。
 ついに異常事態が発生するようになった。最も教授を熱心に支持していた張という農民の野菜類の収穫棚が全て破壊されていた。他の農民の農機具なども盗まれ、見つけた時はすっかり壊され、河に捨てられていた。その人達も教授の熱心な支持農民だった。
しかし教授はまだその時点では農民達の支持は彼に充分向けられていると確信していた。

 2/17日選挙当日、朝の6時半に農民達は拡声器の大きな声に起こされた。
 「村の皆さん、我が村の将来を決める時が来ました。貴方の貴重な一票をよく考えて投票しましょう。我が村の未来は党によって指導され、私達の労働によって富が蓄積され、飲食の問題は解決されるのです」
 それは張教授がスピーカーを持って村の各方面を廻っているところだった。
 
どの家の門前にも人が飛び出しその姿を見ていた。そして人々の心理にも少しづつの変化が起こったようだ。有る家庭は教授の声がしわがれるのを知って、お茶やお粥を出すところがあった。有る所では彼をそっと家に引き入れ「張さんよ、私は貴方より少し年上で、もう墓場へ行くのも近い。しかし貴方は南京にいれば幸せな生活があったのにこの村に帰ってきてくれた。きっと皆は貴方に投票すると思いますよ」と言うのだった。
 午前から投票が始まった。全村の600人と少しが参加した。張教授の得票432,対立の劉氏は170票であった。
 票の確認が終わると爆竹がならされ人々は手を叩いてその結果を喜んだ。そして大勢の人が集まり教授に花束を贈った。現地のテレビ局が来たが、劉候補はカメラが近づくと逃げてしまった。

この村の名は「方シャン口」と言い錦川に沿った谷間に位置する。土地は肥沃で雨水は充分蓄えられている。しかし近年、耀洲市に近いため次第に都市の開発と共に農地が減り、以前は2300畝有ったのが現在は980背に減っている。
訳注:中国の1畝は日本の約6.7倍

 張教授は川の東を生活区、西を環境保護区と養殖地およびその加工地と計画した。
 村民達はその計画の成功を期待した。
 先ず規約によれば当選確認後直ぐ「村主任証書」を授与することになっていた。しかし元村長はどこかへトンずらし、党書記は「何事も金が要る。今村には証書の金もない。まあ、しばらく待ってくれ」と言うばかり。
 次に村民委員会選挙が行われる予定であった。ところが突然元村長が戻ってきて、「以前のままの役員で何故悪い」と主張しだした。 その委員会の8人の内6人は党書記の言うことしか聞かないと言明。張教授は実際何事も出来ないことになった。
 さらに規則では以前の財務表を15日以内に新代表に渡さねばならないことになっている。しかし旧代表はこれを拒否。村の上部機構「鎮」も知らぬ存ぜぬの態度。しかも村の現金出納を「鎮」が管理すると言い出した。
こうして張教授の仕事は手つかずとなった。

 03年4月、張教授は大雨の中、党書記の家に行った。書記の態度は最初から張教授を侮り、2人の対話は激しく対立し、ついに「こいつ!」と言って書記は張氏の首を殴り教授は地面に叩きつけられた。教授が雨中を外へ逃げ出すと、書記の家族が追いかけてきて、泥道に彼を押し倒した。

 張氏はこれ以降話し合いは不可能と知った。鎮の静止も聞かず、彼は規則に基づき、31名の委員会の選挙を行った。
 その報復が直ぐ来た。5/30日、最初の委員会が開かれ、納税の問題の討議に入った時、前村長が会場に入るなり張氏の頭を柄杓で一撃、更に顔に二度の拳骨。張氏の顔に鮮血が飛び散った。
 前村長は会議のテーブルをひっくり返しコップ類を全て放り投げ、そしてゆっくりと会場を去った。
 この場にいた委員達は誰も停止の手を出さなかった。元軍人の張先鋒さえ何も出来ず、彼は「これでは人生の無駄だ」と言って上海へ臨時工として出稼ぎに行ってしまった。

 6月になると張氏の妻は脅迫電話が数度家に来たことで、心臓発作を起こし南京の病院へ入院。その病院から数度「危篤」の電話が来た。

張教授はしかしこれらの恫喝にくじけなかった。
 03年4月、SARS が流行するのを受けて、その対策に委員会は見事に対策を実施。これが州の賛美するところとなった。州から大勢の参観者が来て会議が行われた。
 5月になり農業税徴収となり、張氏は先ず委員会でこれを先払いし、その後農民から徴収する方法を採った。そのため鎮の19村中、この村は第1の完納となり、鎮から表彰された。
 この2つのことで村人達は一層教授を信用するようになった。
 選挙後3月以内に張主任は免職される、と言う噂が次第に影を潜め、現委員会を期待するようになった。
 しかし道路の補修や電話線開通などの仕事は財務書類がないため実施できず、このままでは委員会は解散となりそうになった。
 張氏は殴られるのを覚悟で決心を固め、鎮の書記の所へ行った。
 初めは丁寧な挨拶が交わされた。そして問題の仕事の話になると張氏は耐えきれず「これまで新委員会と村主任選出がありながら、財務表提出などを阻止した貴方の態度は明らかに犯罪だ」と声を荒げ追求した。「もしこのまま事態解決させないなら、私達は県の書記へ訴えます。そうすると貴方はどうなっても知りませんぞ」と言った。
それまで静かにしていた書記は驚天動地の態度を露わに示し、顔を真っ青にして「解った、財務書類一式持ち帰ってよろしい」と言った。
 直ぐに張氏は農道を改修した。それを見た一人の農婦が錦旗を持参して「本当に村の困難を救ってくれる人です」と頭を下げた。
村の共同井戸開設の請負を契約した前村長は金だけ受け取り工事には手を着けていづ、8月になり気温が高くなり農民達は困った。 前村長は「暴れん坊」で通っており、誰も追求できないでいた。しかし張氏はその契約を解除し、即座に井戸を開墾した。
 この勇気にまた村民は感激した。

 張教授が新村長(村主任)に選ばれたとき、村所有の土地については不正だらけだという話を聞いた。やがてそれが明瞭に表に出てきた。
この村の川に沿って前期委員会は12棟の部屋を建て、直ぐそれを125万元で売り払った。ところがその売り上げ金額は帳簿には載らず適当に使い果たされていた。後ほど公安と税務局が調査に来たが、10万元の罰金と言うことでケリが付いていた。
 村の出口の13.3畝の土地が40万元で貸し出され、その返還は29万元しか戻っていなかった。残り部分は誰も知らないと言う。

 98年、当時中学を建設し、その土地を村から72畝提供した。その土地は農民から取り上げたもので、提供費用349.5万元、その内返還金が183万元あり、農民に返還のこととなっているが実際はその金はどこかへ消えていた。
 
 これらを知って張氏は少しづつ帳簿の整理に乗り出した。
 先ず村の土地を借りている煉瓦工場への貸し出しから手を着けた。
 03年8月、連日の大雨が続き、周囲の大河が溢れだした。しかしその煉瓦工場は生産を続けた。本来はその工場は村の所有となっていたものを、宋という経営者は密かに工商局に私用として届けを済ませ、以降村の検査はなくなっていた。当然村への使用料の払い込みは出されていない。しかもその土地部分は村が中央へ土地代を農業税として支払っていた。
 村の委員会はそれを元通りにするよう工場に請求。宋氏は村の法院へ営業妨害として告訴した。
 第2に張氏の土地整理を妨害したのは党書記の張全放であった。党書記は新主任選出の翌日、新主任を恐喝するように如何なる手続き無しに村のリンゴ園近くに自分の家を建てた。
 また少しして書記の甥が無断で石灰工場を建てようとした。それを委員会は汚染源だとして反対を決議した。書記は激怒した。張氏が留守で会計担当者だけが居るのを狙って、身分を隠した人間が村委員会を襲い床や建具を壊して逃げた。
 その翌日書記の兄が自分の家に20人ほどの客を呼び、飲食の後トラクターや工事用車を連ね、自分自身もバイクに乗って石灰工場へ行き建設を強行した。
 張教授は鎮の書記の所へ飛んでいき、事態を報告し相談した。鎮の書記は”何”と言う人に変わっていた。何は「環境局へ直ぐ訴えろ」と言うことで彼は2度も環境局へ通った。
 その翌日の早朝6時頃、張教授は門を激しく叩く音に起こされた。書記の兄が外に立っていて「さっさと門を開けろ」と言う。張氏が門を開けると、「良くも環境局へ訴えやがったな。俺の建物を壊すつもりか」と言って、大きな包丁で張氏に斬りつけた。張氏は何とかこの場を逃げた。
 03年12/24、張氏はこの村に来て最悪の報復を受けた。
 その日の午後3時頃、張氏が村の委員会で仕事をしている時、村のごろつきから電話が来て「フン、お前の親父の墓をきれいにしてやるからな」と強声で怒鳴った。
 後で張氏が両親の墓を見に行ってみると、石碑と小さな四阿が壊され、深さ1メートルほどの大きな穴が空いたままになっていた。張氏はそこにへたへたと座り込んでしばらく泣いてしまった。  
 
もう少しで理想が実現

 紛争の中で張氏は村の養殖と肉食品加工場の建設を目指して奮闘した。彼の設計図が上部行政組織”区”から賛同を受け、10万元の奨励補助金を受けることになった。
 その金は食品加工場建設に参加する33戸の農民に貸し与えることになり、その時点でほとんど成功は疑い無しと見込まれた。
 加工場は数万頭の豚、数十万羽の鶏、500頭の牛、それと賭殺工場、冷凍倉庫なども計画されていた。環境に恵まれ空気のきれいなところで育った家畜類の加工食品が西安へ運ばれる日が近いと村中の人達が期待した。
 
ある時”区”の担当者から電話が入り「この計画に参加している村民の内2名を次の者と交換して欲しい」として2名の名前を挙げそれを追加するように要求した。
 しかし全ては村議会で決定していること、まして既に決定している村民を削除することは出来ない。張氏は電話でこのことを説明した。区の要求する張改良という人の子供が労働局に努めていて”我が同志”だと言う。この要求を聞かない限り、区は工事を認めないし補助金も出せない、と言って電話は向こうから切ってしまった。
 翌日張氏は委員会を開いて、誰か2名を計画から外せる人が居るか検討してもらった。
しかしそんな人が今から出せるはずがなかった。
 2ヶ月が経ち、区から何の補助金も来なかった。区へ電話すると「そんな金、もう無いよ」の一声だった。

 17ヶ月が経った。村での一般作業は順調に進んでいた。張氏は精力的に働き、計画上の、或いは計画外に現れる諸問題なども、ほぼ満足に解決されていった。
 張氏は着任当初は1年持てば良いかな、と思っていたのが、1年半となり、今後とも懸命に働く気持ちである。たまに仕事を考えると眠れなくなる時もある。時々人に「仕事は困難ですか」と聞かれる。彼の答えは「困難は外部からの力だけです」である。
 でも新任時の狂気の時代と比べ今はほぼ平安と言える。任期はちょうど半ばで、彼は後任を考えねばならないと思っている
 その一人は軍隊に8年勤めた人が帰郷し、この村でカメラ屋をする予定という。彼の性格や思想などまともなので、その人が良いという考えである。
 「何時か私の計画が実現されることでしょう」と元教授の張氏は語る。 

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訳者注:
 この原稿は中国社会主義の議会や権力機構などの構造をよく説明しています。そしてさらに中国が建国後何故進歩出来なかったかの構造的根本的問題点を説明しています。
 本来はここに登場する張教授のような人ばかりが役人として、各種組織の指導者として就任し働いていれば、中国は悪くても普通の国家に成れたでしょう。
 しかし何故このようなまともな役人、指導者が中国には皆無に近いのでしょうか。
それが社会主義の構造的問題の鍵を握っています。
 ここに登場する権力の最高にいる党書記は全てヤクザです。彼等党員は選挙がありません。暴力支配者、既得権、自己利益の追求者です。区の政府役人も同じです。政府役人は全て党員です。
 しかし彼等も人間であり、本来は、人格や思想などの試験を受けて党幹部・党員になっていて、最初から悪者ではなかったでしょう。では何故社会主義では権力を握った者が全て悪人になるのでしょうか。
 一言で言えばこれが「社会主義的イデオロギーの非近代性」、とか「独裁社会には腐敗が絶対現れる」等と言われて理解されているようです。

 しかしここに登場するのは21世紀の中国です。有る程度中国にも民主主義の芽が出ているのが解ります。村主任や委員会の選挙は5年ほど前から実施されています。テレビや報道が存在し、党幹部の暴力にも限界があります。農村の生産と都市を結びつける手段が可能となっています。もう「階級敵を探す運動」は行われていません。

 建国直後の中国は20世紀の真ん中でした。その頃の様子を描いた「芙蓉鎮」等の小説には、農業のことは全く理解できない党書記が北京からやって来て、しかし「階級敵」との闘いだけを強調し、密告を奨励し、自主的な都市と農村を結びつける生産計画は不可能で、計画経済による北京からの上から押しつけの生産計画だけを管理し、毎年秋の階級敵糾弾大会は激烈に行い、中国全体が暗黒社会でした。
 建国直後の様子とこの記事と比較すれば、現代は別国家のような気がします。それほどこの数年の中国は解放されつつあります。が、国家機構がこのままでは、やはり、暴力的・非近代的支配は消えないでしょう。