国恥収蔵品盗難

04/03/04  南方週末 劉鑑強

 黒竜江省チチハル市に住む48歳の永貴さんが長年かかって必死に集めた「侵略日本軍の物証」を市主催の展示会に出品中盗難にあった。
これら物証を集めるためには心血を注ぎ、妻とは離婚になり、財産を使い果たした。彼は、もう死にたい、と漏らしている。
 
 彼は子供の頃から収集が好きで郵便切手などを集めていた。1989年に「日本軍の731部隊」が連続放送されてから、彼は思い立って「日本軍の侵略物証」を集めることにした。
 現在でも日本人の中には侵略を認めない人達が居る、教科書を書き換え侵略の証を消そうとしている。今、中国の東北も都市化が進んで日本の侵略の証が消えつつある。これ以上は遅れてはいけない。今すぐにも自分でやり始めよう。
 1990年、製紙工場で働く彼は怪我をして、長期工場を休むことになった。これを機に彼は父親の同意を得て収集を始めた。
 父は現在85歳。46年に人民解放軍に参加。それまでは西満州被服工場長であった。父は14年間、日本軍の残虐行為を数多く見てきた。特に日本軍の516部隊が「毒気研究所」を造り、非人間的な悪行をしているのをつぶさに見てきた。
 そこで息子の収集に協力することを約した。
 永貴が「大満州国記念章」や「支那事変章」などを見付けたとき、彼には身銭が無く父に相談した。父は高血圧の治療代4000元を彼に回してくれた。
そのような苦労が続いた。
 98年にある友達が彼に、「数百キロ先の満州の外れに、日本軍が作った”新選大地図”が有る」と教えてくれた。この地図には31年から41年に掛かって日本軍が集めた略奪物資数量、日本人移民分布数、中国東北に分布する鉱物資源図、等々が書かれていることが判った。
 彼はそれを買いたくて先方と何度も相談した。そして相手の前で3日間、地面に頭をつけて拝み倒し、ついに2000元の品物を手にした。
 彼は何時か、「侵略日本軍罪証展覧館」を建てたいとも思った。そうすれば中国人はいつでもそれらを見に行くことが出来、また、日本人が故意に忘れようとしていることを防ぎ、さらに中国人も時日と共に忘れるのを防ぐことが出来る、と考えた。
しかし彼の妻はこの様な生活に我慢できなかった。
 家の中はどこを見ても、「日本軍の銃剣、鉄兜」などが並んでいる。
 妻はこの様な品物に囲まれていると「死気を感じる」と言う。そして「貴方は気が狂ったか、馬鹿だ」、と言う。そして2人は離婚することになってしまった。
永貴は自分の家で無料で見学を許した。多くの年寄りが見に来た。また小学生も多く来た。写真に納める人も居た。
そして03年8月15日、戦争勝利記念日が来た。チチハル市政府が「工人文化宮」に展示することになった。
 彼は前妻に電話した。「もう家の中には何もないよ。早く帰っておいで」と。

 しかし思いも掛けないことが起こった。展覧会場で、羽もないのに収集品が消えていったのである。

 収集品が消える

 チチハル市はかっての日本軍の重要拠点である。516毒気部隊の建家がある。日本軍忠霊塔もある。忠霊塔の地下道は汽車の駅まで続いている。
 02年7月から9月までチチハル市は、忠霊塔を掘削し、児童青年に見学させ、「国恥記念物として、また平和愛国の教育資料」とすることになった。
 この文化宮の運営責任者の徐文秀が永貴に電話して、彼の収集品を文化宮に納めるように督促した。永貴は三輪車で200件以上の収集品を運んだ。そしてその明細表を記録し彼に渡した。
 だが市の文化宮の運営は極めてずさんだった。誰もが自由に品物に触り、中には銃剣を振り回す人さえ居る。永貴はそこへ出かけて監視役を兼ねたが、しかし彼1人の力では如何とも仕方なかった。文化宮の管理者達は誰も協力してくれなかった。
 まさにその頃、ここチチハルで日本軍が残した科学毒薬が掘り出され、44人が障害を受け、また李貴珍と言う人が亡くなった。これを03年の「8.4事件」という。
 この事件が起こりテレビ報道されると全国から見学者が押し寄せた。
本紙記者も見学させてもらったが、展示品数が豊富なのに、管理者が全く居ない。参観者は自由に品物を取り上げ、展示場へ放り返して行ってしまう様であった。
8月12日、永貴は日本軍の絨毯が消えているのに気がついた。調べてみると、「大満州国国家」の楽譜や「細菌学」の書籍、「細菌医学」などが消えていた。
 詳細に調べてみると全体で文物が10件、図の70枚が消えていた。図の中には「関東軍が撮影した戦地写真4枚」も含まれている。
 永貴はすぐに文化宮責任者の徐文秀に問いただすと、彼は「大丈夫、無くなったものがあれば弁償しましょ」と軽く返答する。

 収集品は貴重品かボロくずか

  8月15日、正式な展覧会開幕となった。チチハル市の指導者がテープカットをした。文化宮側は永貴に盗品のことは絶対に喋るなと口止めをした。
 抗日戦争参加者も参列した。抗日戦争英雄の趙尚志の妹も参列し、遺品を展示した。
 2ヶ月の展示期間に2万人を超える人が参観した。市の総工会幹部が来て、過去と現在を結びつける格好の展示になったと賞賛した。その後半年はあっという間に過ぎた。この間、市の文化宮館関係者は遺失物について全く考慮してくれなかった。総工会も知らぬ存ぜぬで、いつの間にか徐文秀は配置転換されていた。ある人が彼を捜してどうなっているのかと尋ねると「あんな、ボロくず」と相手にしてくれなかった。
 しかしその徐文秀も実は展示会の初めに、「こんなに多くの収蔵品が展示できて嬉しい。これらは我が市の宝物だ」と公衆の前で演説をぶっていた。
 いつの間にかその宝物が「ボロくず」に変わっていた。
 記者が転勤先の上海の徐文秀へ電話を入れて聞いてみた。すると彼は「永貴はあんなボロくずを、高く売りつけるために、私に因縁をつけているのだ」と言うのみだった。
 02年7月15日の「黒竜江日報」を調べてみると、当時の柳信市長は収蔵品について、「非常に感動した。これらは単に日本軍の残虐性を証明するだけではなく、中国人への教育の重大な資料である。我が560万人のチチハル市民を代表して感謝を表明したい」と永貴の両手を握って褒め称えている。
展示品が消えてから2ヶ月して公安に届けられた。しかし公安は「全ての証拠が消えてから捜索しても何も出てこない」とお手上げの状態である。
 文化宮を管理している1人の館員が記者に対して「責任は管理者側にあります。あまりにも展示方法が無責任だった」と密かに話してくれた。
 公安の調査結果も「展示館の管理規定が無く、その管理態度も無責任」と発表した。
 ある市民が匿名を条件に話してくれたが「こんなに大事な国家級のものが、まるで雑草が消えた程度の始末の仕方でよいのだろうか」と語っている。
 抗日戦争の生き残りの李敏氏は「これらは日本軍の14年間にわたる残虐を証明し、我が中国民族の恥の歴史を証明している。これら収蔵品を集めたことは国家への大きな貢献である。こんなものを盗る奴も全く愛国心が無さすぎる」と憤怒を漏らしている。
記者が現市の党委員会を採訪したとき、副市長の王鉄静氏が「市はこの件を重要視している。何とか探し出したい」と語ってくれた。
遺失物一覧表(永貴氏提供)
1.関東軍絨毯 1枚
2.関東軍貯蓄債権
3.関東軍十元紙幣3枚
4.関東軍銅製手榴弾1個
5.大満州国国家楽譜1枚
6.満州鉄道線路図
7.関東軍軍用鉄剣1本
8.日本昭和16年出版「細菌医学」1冊
9.関東軍戦地記者写真集4冊
10。その他歴史図70余冊

  
訳者注:
 私はこの事件を毎日新聞で見たとき、日本人がやったのかなと想像し、いやな感じを受けました。でも実は中国の官僚の傲慢で、無責任さが原因と知ってほっとしました。
 中国も未だに「社会主義健在」と言うところでしょうか。特に中国の東北は「社会主義的」ですね。