上海の住人が日本名を希望


04/12/23  南方週末  曹筋武


 
 これまで「王徐英」で生きてきたが、「柴岡英子」と言う日本人名でないと不便なことが多くなり改姓が必要となったという。

 1947年、彼女は上海のある極めて貧しい家庭で生まれた。1970年代に両親は日本へ仕事に行き、母は病死、父も連絡が取れなくなった。
 1988年彼女は当時中学の化学の先生をしていたとき、上海市党郵政局支部の書記をしていた徐建国と再婚、現在に至っている。この夫には日本に父が居ることが解り、その後彼女も日本との親戚と連絡が付くようになった。

夫の日本名は柴岡竜清と言う。父は柴岡文雄。文雄は日本共産党員で、日本では労働組合の書記をしていた。やがて戦火が激しくなり、労働組合は強制解散。そこで彼は中国へ渡った。
 1930年代に上海で観光の仕事をしていた中国人女性と結婚。そこで生まれたのが柴岡竜清である。
 終戦直後上海で「改造日報」を発行していたが、国民党の気に入らず、日本へ即時強制送還となり日本の北海道へ帰った。家族を上海に残してきた彼は中国へ一時も早く行きたいと願っていたが、それがかなえられたのが1972年の中日の国交回復である。柴岡文雄は最初の中国への家族探しに行く人となった。
 中国には3週間のみ滞在して帰国、その5年後に病死している。
彼は戦後すぐに北海道で再婚している。その女性の名前は柴岡芳子という。彼女は広島原爆を被災。体が弱く子供が出来なかった。
 彼女は04年の今も健在だが、彼女は中国の徐建国を柴岡家の跡取りと考えている。02年上海の徐建国と王徐英夫婦は日本へ行き柴岡芳子と会った。芳子は王徐英を「柴岡英子」と呼び、その後頻繁に手紙のやりとりしてきた。その時の日本滞在で徐夫婦は日本人の友達が多く出来た。
 従ってその友達らは中国へ帰国した夫婦へ手紙を書くとき「柴岡竜清」「柴岡英子」と宛名を書いてきた。

 04年9月、中国の夫婦は最寄りの公安戸籍係に中国名以外に、もう一つの名前「柴岡竜清、芳子」を登記したいと要求した。だがこの要求は即時却下された。だがこの決定が逆に英子の方が改名に固執するもとになった。
 王徐英は言う。徐英は上海語で「消滅する」と言う意味と同じ発音で、これまでもしばしば悪口を言われた。又郵便配員が日本からの手紙を配達するとき非常に迷惑している。
 また中国は法治国家であるなら改名は個人の権利として認めるべきではないか、と言う。
 そして彼女は法的に改名が認められるまで頑張ると公言するようになった。

 彼女は中国の法律を熱心に勉強するようになり、周囲の住民委員会などの人達から「精神病患者」と悪口を言われるようになった。だが彼女の調査の結果、中国国法では可能となっているが、上海の地方法律ではそれは不可能となっている。
 現在インターネットや地元新聞でも「英子」は「文化的な愛国心が欠けている。民族的自尊心が欠如している」等と掲載され、漫画で彼女を軽蔑するものが登場している。
 
彼女は「中国人である私が日本名に変えることは大変難しいことです。私は中国を愛しています。このことだけは理解して欲しい。」と涙を流しながら言っている。
 
 2人は、これまで中国での長い人生で、日本人の親を持つと言うことで辛い思いを数多く経験してきている。
 文革期には王徐英の姉は大学を卒業していたが希望する職場に配属されなかった。弟も小学校卒業後中学への進学は許可されなかった。王建国の義弟、柴岡竜男(徐建民)は、周囲の蔑視の中で性格が内向的となり、日本へ帰国への道を探しもしたが、それが上手く行かず、それを見た中国人が彼を「賊」と呼ぶようになり、76年に精神病となっている。
 98年徐建民は日本の国籍を得て、日本へ渡った。日本政府は彼に住居を与え、生活費として月10万円を支給している。02年、彼は横浜で病死している。

 その葬儀のことで徐夫婦は日本へ出かけた。
 このときのことを徐建国は次のように言っている。
「日本へ行く前、私は心底から日本を憎んでいました。日本人なんて良心のある人はいない、と。私の育ての親は”日本になんか行くなよ。彼らは鬼だよ”と言っていました。
 でも、日本へ行って私の考えは変わりました。日本で知り合った人達、親戚、そして新聞などの報道までがとても親切にしてくれました。偶然知り合った”岩崎”と言う人が神奈川新聞に投稿し、日本人の戦争行為を強く反省した文を書いてくれました。」

その神奈川新聞にはこう書かれている。
”明治維新以降、日本は周辺国、中国や朝鮮に対し残忍で非人道的な他国の主権を踏みにじるような蛮行を重ねてきた。このことを日本人はしっかりと気持ちに命じ、周囲の国から笑われないようにしなければならない”

 この日本滞在時、日本側は彼を残留孤児として待遇し、日本へ帰国することを勧めた。 だが徐建国は「私は中国人です」と語ってこれを固辞している。

 徐建国は記者に「もし公安が改名を許してくれないのなら、まあそれでも良いと思っています。でももし、改名が許されるなら、それは中日両国の友好に良い影響を与えるのではないでしょうか」と言う。
 こう言いながら彼は父「柴岡文雄」の言い残した文章を取り出した。
 ”本当に奇妙な偶然で中日の一組の夫婦が生まれ、又その子が新中国の下で働いている。これは本当に面白いことだ”、と書かれている。
 妻の方の王徐英も日本の国籍を取ろうとは考えていないと言う。だが日が経つにつれて彼女は改名の決意が強くなる一方のようだ。多くの法律全書の前で法的登記の要求を求めると語っている。

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 訳者注:”日本人の鬼”を中国語で「日本鬼子」(リーペンクェィツ)と言います。これからも多分皆さんは北京オリンピックなどでこの言葉に出会うでしょう。
 私は神奈川新聞の投稿を見ていません。この翻訳でよいのでしょうか。
 山崎豊子は「大地の子」で、日本の父が主人公に日本へ返るように求めたとき、「私は大地の子、中国に残る」と言わせました。小説をこのように締め括ることでこの小説は偉大さを達成したと私は強く思いました。
 でも同時にこれは小説の作り事かな、と言う気持ちもありました。
 ところが現実に「私は大地の子」と言う人がいたんですね。この記事を訳して深い感銘を受けました。貴方が中国で育ったらこのように言えますか。

 報道の自由がない社会主義中国で、このように事実を書いてくれる「南方週末」に日本は大きく感謝の気持ちを表すべきと思います。このようなことを書くことは反対を押し切る大変な勇気が要ることでしょう。

   
12月17日、上海に住む57歳の「王徐英」さんが
浦東新区人民法院へ日本人名「柴岡英子」に変更
登記を要求したが却下された。彼女は上訴する気
持ちだ。