呂海翔の不審死

04/07/08 南方週末  王小飛

 57歳の呂楚生さんの家は今鉄兜をかぶった数十名の警官に取り囲まれている。その外には数百名の農民が取り囲んでいる。
 警官が屋内に突入しようとすると中から「もしお前らが入ってきたら、ここに火を着け全て焼き殺すぞ」と怒鳴る。
 彼の傍には母と妻と息子の嫁が各々手に包丁を持ち自分の首の上に当てている。更に数人が部屋内に居る模様で彼等は傍にガソリン缶を置き点火の準備をしている。
 取り囲んだ農民達は呂さんを応援して激しい罵声を警官に浴びせている。
 
 これは04年6月24日の夜のことで、浙江省海寧市石井村の呂さんの家の前である。 緊張したにらみ合いが続くこと約1時間、警官達は車に乗って引き上げた。それを見て呂さん達は地面にへたへたと倒れ込んでいる。
 これが今中国で議論百出の「警察の死体奪い合い事件」の模様である。
 呂さんの息子、呂海翔さんが亡くなって35日目になる。

 呂海翔の不審死

 呂海翔は34歳。警察側の死亡理由説明書によると、次の様である。
 5/19日、夜9時半、「源泉娯楽所」内において、一組の男女が磨りガラスの中のボックスで現在淫猥な行為中との知らせを受け警察が突入、2人に警察派出所に同行することを求めた。
 調書に書かれた「淫猥行為」とは呂海翔さんが同室の女性の手を握り、もう一つの手が女性の胸に触っていた、と言う内容である。 この部分は目撃者に、姚建国という名前が記載されている。  
 警察によると、これは浙江省の政府規定に記載されていて違法行為だという。
当日は省公安部の統一行動日で、消防安全・麻薬検査・娯楽場所の賭け事や麻薬販売などを調査していたとのこと。
 当日現場に来たのは1台の警察車に7人が乗車。これは定員オーバーであり、呂さん達男女を同時に車に乗せられないとして、女性を先ず派出所に向かわせ、呂さんは現場で待機することとなった。
 9時50分頃呂さんは小便をしたいと言って、警察の同意を得て公道の近くの草むらへ出た。そして道路を渡った途端彼は河に飛び込み向こう岸へ逃げていこうとした。それを見て警官達も河へ飛び込み追いかけたが直ぐに姿が見えなくなった。
派出所へ行った車も戻り、水上警察へ電話をし共に行方を探した。
 真夜中の1時10分頃警察は呂さんの遺体を発見、遺体の身分証から「呂海翔」の氏名が解った。それ以前に警察は呂さんの所持品から免許証を調べていて、彼の氏名は掴んでいた、と言う記述もある。
遺体は臨時に近くのホテルに運ばれた。
以上が警察側の調書に記載された内容である。

 7月4日、記者は現場に行き河を見た。河幅は約40メートル。記者が当時目撃した数人の話を聞くと、確かに呂さんの遺体は河から引き上げられたが、しかし河には誰も飛び込んでいないと言う。
 翌日警察側は検察院の現場立ち会いがあり、当事件処理に問題はなかったと、結論付けている。検察の記載書類によると「当日の取り調べには警察の違法行為はなく脅迫行為も無かった」とされている。
しかしこの検察の検査記録はその後遺族の側から何度も再検査の要求が出されている。
 
 遺族側の疑問

 事件当日の翌朝、5/20日4時30分、村の党幹部3人が呂宅に来て「呂海翔氏に事件が起こった」と告げ、派出所へ来るように要求。父、呂楚生さんと息子の嫁、王さんが警察へ行ってみると、警察署は警官が満員で、「呂海翔が河でおぼれ死んだ」と宣言を受け、警察と一緒に遺体安置のホテルへ向かった。
 呂さんの父、呂楚生さんがホテルで遺体に面会した。遺体は鉄板の上に置かれ、上半身が裸で右手は上に左手は下に垂れ下がり、身体には多くの水草が付き、鼻血の跡があり、周囲の地面にも血が垂れていた。家族はそれを見て皆どっと泣き出した。
 警察は本人確認が済めば直ぐに遺体を焼却したいと提案。しかし呂楚生さんは村の習慣で家に安置して2日後焼くことにする、と回答。彼がこの考えを固持したので朝の9時頃村へ運ばれた。
 家族の疑問は遺体を見た瞬間から始まった。
 先ず第1に、ホテルの係員によると、家族の来る前に警察は遺体を焼くことをホテルに求めた、と言う。しかしホテルとしては、家族の同意無しに焼却は出来ないと主張して家族を呼ぶことになったという。
 第2に、家族が遺体を連れて帰宅し、身体を見るに、首と胸と腹、腰、等何カ所にも紫色の痣が出来ていたこと。明らかに打撲の傷跡である。
 第3に、村の遺体管理経験者の話によると、普通は死後身体が硬直し、関節も動かなくなる。しかし呂さんの遺体は足も手もグニャグニャと動いた。
 第4に、事件当時呂さんと同室にいた姚建国さんの話によると、警察は部屋に入るなり呂さんを蹴飛ばし、それが原因で呂さんと警官と喧嘩状態になった、と言う。この説明は当時3人が目撃している。唯これらの人達は記者には目撃の承認者に成ることを拒否した。しかも彼等は警察の陳述書にはこのことを記載させていない。
警察側への採訪によると、当日の目撃者と娯楽所の管理人の証印があるので、事件には問題はないと確信しているとのこと。
 更に家族の疑問は第5がある。
呂さんは泳ぎの名人で、あの程度の河でおぼれるはずがないと言う。しかも、彼の遺体には常時身につけていた先祖伝来の玉石が無く、河へ飛び込むのにズボンと靴を履いたままというのはどういうことなのだろう、と訝っている。

 こうして家族は疑問が増すばかり。ついに遺体を氷漬けにし安置することになった。 なお、家族が遺体を見て身体の傷が無数有るのを見て救急車に電話をしたが、何度電話をしても救急車は来なかった、と言う。

 2日目の21日夕、家族は警察へ行き遺体の疑問点を尋ね再検査して欲しいと要望。
 警察は同意して、翌日検査に行くことになった。ところが直ぐに警察から電話が来て、直ちに遺体を再検査し、直後火葬したいという。何故こうも遺体の火葬を急ぐのか、家族は疑問が増えるばかりで、警察の要求を断った。
警察も家族側もそれから1ヶ月半事態が次第に拡大し噂が広まり、思いもかけない方へと発展していった。

 警察署での約束

 警察側から再三死体検査の要求があり、いつも検査が終わり次第火葬することという意見が付いていて、これに家族が不信を増すばかり。
 6/2日、市政府党委員会書記の馬維江が家族と対談することになった。党の要求は「家族の各種疑問点は今後一切提出しないこと。北京へ上訴はしないこと。その他影響を広めないこと」を要求。
 ただし、経済的補償を出すと提案した。
こうして家族との「約束書」が締結された。経済的補償の理由として、家族が呂さん死亡後生活に困窮していること、を上げ、生活補助として5万元、呂さんの母に対して養老社会保険金を払うこと、である。また副書記から見舞金2000元が払われた。
 同意書には家族は遺体再検査を要求しない、と言う1項目がある。
こうして一度は妥協が成ったと見えた。
 
ところが家族の一人、呂さんの妻、王茹琴さんはこの金を使って上告する準備に充てると考えているし、また家族達はこの金が出たことで、警察側に訝しいことが有ることが充分説明できるという風に捉えている。
 
 家族が言明しないが、近隣の噂によると、家族はこの金を使って6月初め北京へ上訴しに行ったようだ。
 
記者が党書記長に聞くと「俺たちをなんだと思って居るんだ、甘く見るなよ。絶対これ以上の金は出さないぞ」と言明した。
また彼の話によると家族は市政府に来て「故郷の習慣により死体解剖は出来ない」と言ってきたので、書記は「死因がどうで有ろうと、とにかく解剖しなければならない」と説得したという。その場でも、6/10日までに遺体検査を終わらせ、直ぐに火葬するべきだ、家族が誠意を持っているなら市政府も誠意を示すこと、生活の困難は理解できるから政府が補助金を出すことも考えている、などの話し合いがあったようだ。

 さてこの警察と家族との約束について、諸説紛々と議論されているのでそれを紹介しよう。
 近隣の人達は警察が出した金は「口封じ」と一様に信じられている。
 有る法律の専門家は、生活補助は賠償ではない、そこには政府が罪を認めたという意味合いはない、従ってこの約束事だけで、どちらかの言い分が通ることはない、と言う。
 だがこの専門家も約束事の文言「火葬を済ませた後金銭を支払う」と言う辺りが、「何かを隠そうとしている」と取られても当然だろう、と付け加えた。

 焦臭い空気充満

 6月になって家族側は政府の期待通り静まるどころか、これまで農民が数多く受けてきた免罪を押しつけられているように受け取り、北京上訴の道へひた走る。
亡くなった呂さんの父呂楚生さんは「北京の公安、高等検察部、政府法務委員会などへ行きました。省内も数多くの機関に直訴しました。幾つかは此方の資料を受け取ってくれました。しかし直ぐに追い返された所もあります」と言う。
 前記当該の党書記に聞くと、北京へ行ったことは知っているが北京からは何の連絡も来ていないとのこと。ただ省首都の杭州市の検察院から”告訴状が来た”との連絡があったという。
そしてこの噂は当地の海寧市周辺では誰も知るところの世間話になっている。
 呂さんの生家は今では有名な観光地となっている。ここを訪れる人は毎日数知れず、中にはその他の都市からやって来る人も数多くいるようだ。
 呂さんの家は古く汚いものだ。室内には飾りなどは何もない。浙江省の一部では豊かな農民もいるのだが、彼の家の貧しさは目を覆うばかりである。
この家を見に来る人は毎日数十人から数百人に至る。彼等は勝手なことを話しているようだが、中には家族に向かって激励したり知恵を与えたり、ただ現状が何処まで進んだかを知りたがったりと、様々だ。
 有る近くの小経営者は、「これは他人事ではない。人権と法治国家への理念が壊されるかどうかであり、遺族に同情し、彼等のやっていることを支持する」と明確に言う。
中にはヤジだけの人もいるが、しかし総じて「公安がうさんくさい」と漏らしている。

 交通渋滞と遺体の取り合い

 ついに6/22日、当地の新聞、海寧日報が「5.19事件の調査と現状」という記事を載せた。
 そこでは「遺族は呂氏の死因が明確でないので家の中に遺体を氷漬けにし保存していること、遺体解剖は何時までも実行されず検察側の対応も行き詰まっている」などと記載した。
 ところがそれから2日後、6/23日、近くの省道路が民衆によって封鎖される事件へと発展した。
現地の人に聞くと、当日のお昼頃、呂さん家族を応援に来ている人達が次第にその数を増し、中型のバスを停め、杭州へ直訴に行くためバスを貸して欲しいと要求した。通りかかる車を全て停め、続々と杭州市へ向かった。 その行動は隣村の会社経営者が8台の中型バスを提供すると提案したのが発端だという人が居る。(記者注:隣村は経済の一番発達した村)
 群衆が村を出る頃には既に道路には多くの公安が警戒に出動しているのが見えた。交通警察も道路の両側に並んでいる。
途中のホテルに指揮本部を置いた公安は200人の警官を出動させ、道路に向かって塩を含んだ水を放水させ、先頭の群衆が杭州に行くことを阻止した。怒った群衆はホテルに殺到し中に居た副局長に殴りかかったりした。
 その時の群衆の数は数千人を超したと思われ、公道上に群がり盛んに何かを喚いていた。
ただ、全体の指揮が無く、あくまで群衆として騒いでいた。そして夜が更けて10時頃次第に彼等は帰宅を始めた。
 呂さんの父は彼等群衆と一緒に直訴することをためらい、家で座っていた。すると多くの群衆が「我々はお前のためを思ってきているのだ。当人のお前が家に座っていては駄目だ」と言われて、一度道路に出た。家族は共に1時間ほど道路にいたが、後ほど記者の聞くところによると、この時「多くの人が味方になってくれたが、これが良いことやら悪くなることやら」解らず不安になったという。

この時集まった群衆の中の意見では「この問題は騒ぎを大きくしなければ解決しない。道路を封鎖するくらいでは駄目だ。次回は鉄道を停めよう」等の意見が出たという。
 
市政府はこの事件を「一大事」と認識し、それ以降公安を中心に民衆へ威嚇をする必要が論じられ、6/24日の夜から巡邏公安車3台、現場に待機する警官数十人とした。
 また当日の夜呂さんの父は本名を名乗らない電話を受け取っている。「今晩公安がそちらへ出向き遺体を引き取るか、あるいは家族を逮捕する」と言う中身であった。そこで電話が切れたので家族達はおろおろするばかりであった。
 しかしその後噂として上記電話と同じ内容の話が幾つも伝わってきた。そこで近隣の人達が交代で遺体を寝ずに守る番をすることになった。
 6/15日、現地のテレビ局も取材に来た。その時の放映内容で、遺体の入った大きな冷凍庫は鉄製の箱に溶接され動けないようにされていた。同時に、警官が襲ってきたら花火を打ち上げ、それを合図に農民達が駆けつけることになっていた。実際このことは、やがて農民達と公安との衝突が起こり、冒頭に述べたような両者の対峙が演出されたが、この時、花火と同時に5分以内に500名を超す老若男女が呂さんの家の周囲に駆けつけたのである。
 当日の遺体争奪事件には不思議なことがあった、と一人の農民が言う。公安は3匹のシェパード犬を先頭にやって来たが、この犬たちが気が狂ったように牙をむいて猛り狂った様子で吼え立てた。この異常な様を見た一人の農婦が心臓が苦しくなり家へ運ばれた時は息が切れていた。「警察犬が農婦を恐怖に陥れる」として伝聞が広まった。
 ところが党書記の馬維江氏の話によると「当地の海寧市は勿論その他の市でも公安は犬を飼っていない。一体どこからその犬が来たのか」と訝っている。
 だが農民達の多くが警官が犬を引き連れているのを目撃した、と証言している。
 市政府の有る担当者は「たまたま農婦が脳出血で倒れただけで、犬とその死の原因とは関係がない」と説明している。
 また当の呂さん家族の話では、当日警官達は深夜にやってきたが家族に対し何の要求もせず、ただ家の周囲に居ただけで、それを集合した農民達が「遺体奪還に来た」と騒いだようだ、と言う
 
 呂さんの遺体が公正に検死されるのを期待するだけ

 呂さんの父は、このように群衆と公安との対峙となった経過を振り返り、気持ちが複雑で困惑しているという。

 6/25日の現地新聞は「事実を理解できない群衆が一部の有らぬ心を持った農民の扇動に巻き込まれ公道を占拠し、社会秩序を乱し、多くの法律に違反した。そして次の3名が逮捕された。張鹿亭、范恵発、夏根栄。」
 と報じた。
 報道されていないがもう一人、朱と名乗る農民も「公共場所秩序紊乱、交通妨害」で逮捕されている。
 呂さんの父は「自分の息子の遺体を見た時、死の理由が解らないこと、何故こうなったのかが納得できなかった」そのことのためだけで、ここまで騒ぎが広まってしまった、と言う。
 そして5月末以降食事も喉を通らず、身体の力も抜け、ついに医者が点滴をする状態になっている。
 「多くの仲間が応援してくれているのはありがたいのですが、しかし同時に彼等の言うことはまとまりが無く、自分がどうするべきか頭が痛い」とも言う。
ある時農民達が今後について議論百出している時、突然彼は卒倒した。そして「ああ、俺が死ねばよいのだ」と何度も同じ言葉を呟いていた、と言う。
 そして群衆の公道占拠事件となり、逮捕された家族が彼の家に来て「どうしたらよいか教えて下さい」と懇願する毎日となった。
 市の有る匿名希望の職員は「呂さんの父は戦争にも行き良心もある人だ。彼は法律もよく知っている。ただ、交通妨害をしたのは過ちだ。市政府はこの機会を掴み問題解決をするべきだ」と言う。

 6/26日、ついに呂さんの父は市の検察院に行き遺体検査に同意した。29日午前にホテルで遺体解剖が行われることになった。その時父は同意の条件として逮捕者を釈放することを付け加えた。更に今後とも農民を逮捕しないこと、と言う条件も提出した。
遺体解剖の結果がどちらに有利でも公表しないことも同意条件とされた。

党書記の馬氏は「逮捕者は交通違反という法律を犯したのであって、この事件を解決するために脅迫材料として逮捕したのではない」と強調する。
 呂さん遺族が遺体を提出すると逮捕者は釈放された。書記はこれはたまたま調査が進行したから釈放したのであって、遺族との交換条件ではない、と言う。
 7/4日午後、浙江省人民検察院から法医学関係者がホテルへ来て死体解剖が行われた。検査結果は15日後発表とされた。
 呂さんの父は当日ホテルに来て待機した。「私は納得できません。検査に立ち会わせてくれないのです」と嘆く。検査は3時から6時までかかった。
 また呂さんの父は言う。
「何処の検察院でも結構です。ただ公正にしていただければ。唯、唯、公正に。」

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訳者注:
 なおこの記事には更に同じ記者の言葉が単文ですが別掲載されています。
 そこにはこの事件は南方の、中国では発達した経済的に恵まれた場所で起こった事件であり、他の場所では似たような事件が起こっていないこと。何故このように長期に渡り、しかも多くの群衆が参加するようになったかを考えると、やはり政府への不信が根底にあるのではないか。もし両者間に信頼関係が有れば直ぐ解決した問題であろう、と書いています。
 *** 
しかし私はこの問題は全ての権力が党を中心に独裁されていることにあると思います。
 公安と警察と検察と市政府とそして救急車までがすべて党によって独裁されています。
 農民は一体何処の検死を信じれば良いのでしょうか。
政府職員の匿名希望者も、テレビや新聞も農民の立場、真理の報道の立場に立っていません。
 
 例えこれまでの中国政府が国民によって信用されていたとしても、このような死因は誰もが不審に思って当然です。そしてその不信を公正に裁く機関が必要です。中国国家にはそれがありません。
 逆に政府や公安などが常に民衆によって信頼を得られる社会など存在しないと考えるのが普通ではないでしょうか。如何なる社会にも矛盾が存在し対立が発生すると考えて、その対立を公正に解決する制度を社会に設け,その機構に独立性を持たせるのが歴史的流れでしょう。
 これが人類の長い歴史の中から見いだされてきた矛盾の解決方法だと思います。しかし中国では党を中心に国民は全て利害が一致し信用しあえるものとして、独裁が容認されてきました。その信用を得る方法として、党は「3つの代表」等の当面の政治方針を提起し、国民に学習させています。党はあらゆる社会階層から信用され利害を委託され、将来を導くものとされています。

 その考えの中にはこの例のように党が農民の不審死を覆い隠すために全ての国家権力を使って悪事を働くと言う現実を全く想定していません。これほど馬鹿げた一方的な社会制度が何故一時的と言えど地球的な規模で広がったのでしょうか。
 中国は建国以来人権無視という点では歴史的に名を残す悪事を重ねてきています。
 特に建国後の30年間は、”政府が少し声を上げれば誰もが黙る”ということが当たり前でした。(この言葉は前記記者の文中の言葉)
 それは独裁という制度だけでなく、民衆レベルで民主主義とは何かが理解されていなかったこと、人権意識が未発達だったこと、それに輪を掛けたのが毛沢東の「階級敵抹殺理
論」です。毛沢東は「マルクス主義的社会主義の根本理論は階級的独裁に有る」と言うところを強調しました。
 国民の中から階級敵を摘発すればするほど民主主義が発達すると彼は説き、国民運動として繰り返し階級闘争を宣伝扇動しています。親子でも何時階級敵として告発されかねない状態が毛沢東在世中の中国でした。そこには人権意識が完全に抑圧されています。意見を自由に言えないこと、これほど苦しい社会はないと思います。建国後45年間(1995年頃まで)の中国の小説にはこの重苦しい国民の状態が連綿と登場します。

 この記事に見るように、呂さんは、近隣に迷惑を掛けることを一番の悩みとし、そして警官の脅迫に屈しました。これが中国の人権意識の芽生えの現状を示しているでしょう。
 ただ隣村から8台の車を出して上部への告発に行くことを提案する人が出ているのは特記するべきことでしょう。中国でこれまで公安に対立する運動は、天安門事件以外皆無です。(天安門事件は学生の運動でした)
 今後、農民の群衆的な政府不信行動は、中国の民主化を進める大きな一歩を築くでしょう。やはり人口の大半を占める農民の動きが中国の民主化を決定するのではないでしょうか。農民が最も抑圧されています。
 最近中国は法治国家を目指すとか、人権を守るとかの言説を弄んでいます。しかし独裁制度を変えない限り、独立の公正な裁きの機関が生まれない限り、このような農民の悲劇が何時までも、それこそ星の数のように今後とも続くのではないでしょうか。

  
 なお浙江省は杭州市が有名ですが海寧市と寧波市があります。この「寧」が意味するのは「海が捻れる」と言う意味で、銭塘江という河に秋分の頃太平洋から巨大な波が幾重にも押し寄せてくることで有名です。この現象は地球上に2カ所有って、ここと地球の裏側のアマゾン川にもこの現象が有るとのことです。日本からも毎年観光客が行きます。