2人の腐敗幹部ついに収監




04/10/14 南方週末 徐楠 李思徳

 湖北省荊州市監利県と言えば、中国では一番の米の産地だが、現在では誰も「李昌平」を想い出す。

 訳注:中国では行政上、市の下が県になる。

 その同じ市でついに悪政と収賄を貪ってきた幹部2人が法廷に立つことになった。

 ある時、湖北省の党幹部達が寄り合いで集まったとき、誰かが「だが、あの2人は立派な指導者だ」と述べた。それを聞いた農民達は怒りを露わにし、幹部達を取り巻く姿が見られた。
最初にお縄を頂戴したのはテレビ局局長の蘇兆新の収賄事件だった。するとまるでドミノが倒れるように次から次へと党幹部の逮捕劇が続いた。
 04年3月16日、蘇兆新拘置。
 04年4月30日、黄鋼市副市長で党書記の楊道洲が拘束。
 04年6月30日、荊州市党副秘書長の杜在新が拘束。
 彼等が党書記として任にあったのは97年から04年までの7年間である。

 00年李昌平が総理に当てて手紙を書き、それは全国に激震を起こし、注目を集めた。李昌平は「農民は苦しく農村は貧しく、農業では生きていけない」と書いた。そして党幹部に追放され、逃げた広州で臨時工として生活の道を探していたとき、また政府の追っ手が来て、北京に逃れた。

 その時の党幹部が「我々は李昌平とは口をきかなかった」と今でも話している。そして数ヶ月の間、スパイを付けて李昌平を監視し、一部始終を党に報告した。
その時の党書記が即ち今回の「楊道洲」である。
 楊道洲は96年副県長になり、正月に届けられた祝い金6万元全てそのまま差出人の名前と共に党書記に上納した。これが彼の評判を決定的に高めた。

 彼は人前に出るとき身なりを正し、98年長江が大氾濫したとき、10万人の被災者の見守る中、洪水と闘っている人達に熱い涙を流して見せ、、また貧しい学生を集めて、貪欲に私服を肥やしている党幹部を怒鳴りつけて見せたりした。
 こうして彼は清廉潔白の見本として評価されるようになった。00年3月の反腐敗大会では「私は農民の苦しみを見るに付け、常に神経が緊張する。私には収賄の必要性は全くない」と堂々と述べて万雷の拍手を得ている。

 この頃、同時に彼の気に入り、或いは取り巻きの「8人衆」を作り、その中から数人を人民大会代表議員に任命している。
 そこで引き上げられた人物の一人が「蘇兆新」である。
  蘇は楊との仲を常に吹聴し、ある時は酒の席で「俺が電話すれば3分以内に楊が遣ってくるんだぞ」と豪語し、実際彼は電話を掛けて、党書記の楊をその酒場へ呼び出し、2人の仲の緊密さを見せつけた。
 97年から市の幹線道路の工事が始まると、連続して手抜きが発生し、収賄の存在が噂された。その工事会社の代表が「8人衆」の一人である「劉耀発」である。
99年5月、県公安局が移転したとき、公安局長は楊氏の夫人に呼ばれ「劉耀発」に工事を全て発注するよう要求され、夫人の要求を受け入れたら、局長は党委員会の常任委員と法規委員に選ばれるでしょうと催促した。が、局長はこれを婉曲に断ったため、夫人はその場で泣き出し「私の面子を潰した」と大声で喚いた。

市の財政収入が実は大赤字であるのに、上級には「任務達成」と報告し、そして民間から借金をして穴埋めをした。
有る金融関係の話によると、この頃の債務は約2億元という。
 楊道洲は市の財政を握り、幹線道路の投資に3700万元を使い、工事を8人衆の劉耀発に発注した。そして上部への報告書には農民の負担を1.5億元軽減したと”でたらめ”を書いている。
彼の周囲の評判は「金銭に関しては恐ろしく細かく、面子を非常に気にし、市の土木工事などの金額の張る仕事には何でも自分の管理下に置いた」と言う。
 彼の党上級への”おおぼら”で、”でたらめ”な報告が成功して政治成績は突出していた。若い頃から彼を見てきた老幹部は彼を評して、「どこから見ても指導者としては最高な人間に見えた」と言っている。

 ただ、人の話を途中で遮る癖があり、それは人民大会や政治協商会議などの重要な会議でも「分かった。お前の話は聞きたくない」と怒鳴りつけることが頻繁にあった。
98年の長江大氾濫の時、百万という人や軍隊が出動し懸命に奮闘しているとき、高級ホテルで300万元の宴会を開いていた。
 00年楊道洲は荊州市副市長に昇格。

 04年10月1日の地方紙「梵天都市報」は職務を利用して自分の懐に入れた金額は”10万元超”、市政に与えた直接損害は数十万元”、”各種企業から株券の贈賄を受けており”、”謝礼という名の贈与金は計り知れず”、”社会主義道徳にも反している”と記した。
 彼は現在司法処理に回され、人民代表議員の資格は剥奪された。


00年10月”杜在新”は県の党書記になった。
 この頃李昌平が農民の苦痛を北京に訴えた頃で、北京や省や市などから連日のように、次から次へと調査団が当県に来た。県政府の事務はひっくり返っていた。2.2億元の県収入の内、接待に大量の金銭が消費された。

 杜在新は「工業と農業を結びつけ」「水産で農業を富ます」と言う標語を並べ、回遊式養魚方法などを研究させていた。これを上級組織に上手く説きつけて、100万元の補助金を下げて貰っている。
農村では税の負担が重すぎて逃げ出す農民が続出した。そこで彼が書いた長編の報告書「農村問題の根本解決に向けて」は上級組織に大いに評価され、当分の鎮静剤となった。 彼の取り巻きの人達がこの文書を大量に印刷し、無料で配布を初めた。
だが、有る老幹部に言わせるとこの報告書は「噴飯もの」で「馬鹿馬鹿しくて話にならない」、としている。

 彼は学校の先生から仕事を始め、それまで農業のことは全くの「ど素人」だった。現場を見たことも無かった人間である。
  杜在新はその頃の昇竜のような勢いを得たときから4年目にして、政治生命の終点を迎えた。
現在この地に記者が来て聞く言葉は、一人の党書記はあまりにも腐敗がきつく、一人の党書記はあまりにも能力が無さすぎた、と言う言葉だ。
 そのツケを今、当地に大きな負担となって押しつけている、と言う評価である。

”危険な蘇兆新”

 03年10月 、杜在新は市の報告書で「自分の両親は農民であった。畑で取れた芋で私は大きくなった。両親の艱難辛苦の結果学校を出さして貰った。今私は党に農業担当を命じられた。その任務を死ぬ思いで全うし、農民のために闘う」と誓詞を書いた。

 蘇兆新は宴会で服務中の女性の尻をなでたり抓ったりを平気でした。その場に市の女性職員が居てもである。
 彼が招かれたある宴席に彼が行ってみると他の人達はそれぞれ「かわいい娘」を侍らしていた。彼は慌てて引き返し、2人の若い女性を両脇に抱えて登場した。

蘇は他にも「貴様のようなごろつきの奴がそんなことを何処で習った」など、下品な言語を盛んに振りまいた。
 蘇が抱えていた女性は10人を超える。その内の一人は女子警官である。彼女の弟は、お陰で職場へ上からの推薦があり昇級が早かった。

 蘇が副市長として取り組んだ一つの功績が「テレビ信号契約器」と言う最新式のもので、これを各家庭が付けないとテレビを見ることが出来なくなった。これによって料金を払わずテレビを見る家庭が消えた。だがこれは貧しい農村では大変評判が悪かった。ある失職の家庭の子供がテレビを見られない状態をつぶさに見た一人の人民代表議員は悲しくて泣き出したことがある。
だが彼は州の党書記の強い指示があり、地位は安定していた。

 これまで述べた腐敗幹部達はテレビ局を中心に8人衆を作って、したいことをしてきたが、そのテレビ局は人民大会の組織部の評価により、3年続けて経営状態が「最低」の評価を受けていた。党委員会の規定によればこのような場合その責任者は辞職することになっている。が、蘇は04年2月副県長に任命された。

 訳注:テレビ、新聞などの報道機関はすべて党が監理し、国営。

 有る幹部が打ち明けて言うには、一つの研究会に参加する前に、全ての委員達には事前に蘇の提案に賛成するように市のお偉い方から電話で強制されていた、と言う。
 有る政治的カンパの帳簿を上級に回すとき、杜在新は1.3万元の金額の支払人の所に「S」の字を付けて出した。「S」は多くの委員達の中では「蘇」しか居ないと言う。こうして杜は蘇の絶大な信頼を得たのである。

荊州市党委員会の有る幹部が教えてくれたが、杜在新の任期中の収賄金額は80数万元という。また周囲の評判を聞くと、「とにかう、彼には常にお世辞を言わないと安心できない人だった」と言う。
 
 この3年間の党書記の任務中、その言動の不一致は全く理解に苦しむほどのものがある。
 有る大会で「1元でも貰う人間は1元の値打ちも無い奴だ」と大声で発言している。また「今後の幹部の任用に当たっては全てを民主化し、推薦を基礎とし、順序を守り、農民の負担を軽くするために大いに議論して欲しい」と述べ、これは素晴らしい美談として伝えられた。
一方年末の税収締め切りの時、未納農民達10数人を倉庫に閉じこめ、飲食を与えなかったので、一人の青年がその場で亡くなった。この事件を新聞社に報道をしないよう自ら指示した。
競争相手の党幹部を、裏側での工作で追放もしている。
 州の数百人の幹部の人事異動の時には、「上級の工作が肝要」と友人に述べている。

 逮捕後、彼が法廷へ提出した反省書には「書記になった最初の正月、有る村の書記がアヒルを数羽届けに来た。するとまたすぐ他の村からも1万元が届けられた。こんな大金を見たのはこの時が始めてである」と書いている。

書記になって直ぐ、彼の家で客が招待されたとき、突然彼は「こら、お前は何処へ行くんだ」と大声で怒鳴った。そこには彼の息子が居た。というのは、彼が重要な職に就くと息子までが特別の扱いをされた。それは良きに付け悪しきに付け、権力の在り方を象徴している。これまでは全く見しらぬ人が息子の袖を掴んで「食事をどうぞ」から始まる。「お友達になりましょう」と言うのもある。がそれだけでは収まらなかった。暴力団からも近付きがあったのである。
 
 有る暴力事件が発生したとき、彼の息子も被疑者として公安に呼ばれた。それ以来息子の外出は厳重注意されている。
 近隣の人は「杜さんは子供の扱いが甘すぎた」と言っている。
 彼は前述の反省書の中で、「役を得て1万元を受けてからは、まるで自分は自動車に乗っているがブレーキは他人が制御しているように、次から次へと届け物が来て、それは制御の仕様がなかった」と書いている。
 逆に彼が上級に差し出した6万元というのがあり、それは州の歴史上でも最大の金額ではないか。

02年、彼の妻が乳ガンで入院という噂が広まったとき、病院に21の県の指導者達からお見舞いがあり、妻のベッドの下にお金を差し込んで行った。
 その金額についてそれに関係した人の話では「平均で一人2000元、中には5000元というのもあった。合計は37万元に達した」と言う。
 そして仕事のこととなると、また金が動いた。仕事が上手く進まないときはその関係者は「お金」を差し出した。この金額は多分彼自身もどれくらいに登るか掴んでいないだろうとされる。

有る村の幹部が教えてくれたが、”楊道洲”と”杜在新”の動くところ常に金だった。彼等自身上級が来れば金を用意した。そして”気に入り”を引き上げるてもらうときは上に金を送った。人事異動が有れば必ずその関係者は”楊や杜”の祖先の墓参りをし、墓前に現金が供えられた。その近づきの仕方は両者の夫人に近づくことや友人を通すものもあった。
 「これらの近づき無しに昇級は不可能だ」とある党の組織部の長官が言い切る。

杜が農地に回遊式養魚池を作れと言えば、誰もが急って、農地を壊し池に変えた。商業を採用しろ、と言えばすぐに農地が壊されてゴミ焼却場の工場が出来た。だがこれらがどれも上手く行かないので農民達の収入が行き詰まった。
 これについて杜は周囲の人達に「農民というのは何をさせても駄目な奴だ」とこぼしていたという。
これらの反省書を書いて、杜は9月23日荊州市党紀委員会に送られ、そして法廷が始まる。

上記3名が捕縛されると、続いて収賄容疑者が続出した。それらの人達はいずれも高名な人ばかりだった。

 湖北省が最初に蘇兆新を挙げた後、投書などで事件の解明が進んだという話も出ている。

 中国一のお米の産地である湖北省が、その中でも監利県とうのはお米に関しては有名であり、中央もこの土地に期待を掛け、税制改革や県政府の改革などの重点地区であった。正にその中心地点で腐敗が蔓延していたのである。
 
ある政府役員が言うには「昔から諺に”法の網は世界を覆い、漏れることはない”と言う。この腐敗は党と人民の最大の関心事である。今回の反腐敗闘争は人民の希望に添っている。そしてこれは素晴らしい勝利だった」と言う。
  また別の幹部は「かって監利県は湖北省の中で9年連続米の生産量がトップであった。しかしこの数年最低に落ち込んでいる。一般農民の収入もこの監利県が最悪となっている。きっとこの反腐敗の成功で再興するだろう」と言う。

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訳者注:
中国に何故腐敗がはびこるかの典型例を示していると思い訳しました。独裁社会の当然の姿でしょうか。日本でも戦前は非民主的で独裁的な政治があり、このような官僚独裁支配があり、漫画に登場します。
 その日本でさえ、李昌平が北京へ行ってから書いているように、既に明治時代には学校教育は義務となっていました。中国は百年以上遅れています。現在も法的平等教育が行われていないことを考えると、教育制度はまだ解決されていません。
 なお李昌平については下記の訳をご覧下さい。
http://www31.ocn.ne.jp/~k_kaname/text/02/syoutennoumin.html
(翻訳 02年7月の部分にあります)

 映画「延安の娘」を制作した池谷薫監督が、この李昌平を尋ねて中国へ行き、映画を創る予定だというメールを貰っています。
 きっと感動的なものが出来るでしょう。

 収賄の金額が書かれていますが、しかし倉庫に閉じこめられて、亡くなった農民のことは反省文には書かれていません。この方が重要な問題ではないのでしょうか。それとも中国では農民の命はやはり軽いのでしょうか。これほど人権を無視しながら、報道機関が何もしないなんて信じられません。普通の国なら殺人事件です。
現在の地球上でこれほど馬鹿げた漫画チックな国家というのは存在しないのではないかと思います。
 一体何時になったら中国の農民は救われるのでしょうか。
 李昌平の直訴文で各級調査委員会が農村に来ますが、現地政府の接待を受けて、調査委員達は「農村問題は解決された」、と中央へ報告し、問題解決したとされています。
 この時の報告を受け取った総理は朱容基で、この人は私が大連にいたとき、学生の中で比較的人気があり清潔感のある政治家でした。ひょっとして農民の窮状を救うのかなと、淡い期待を持ちましたが、やはり全く無意味でした。朱で鎔基
 これが示すように、この記事では反腐敗の闘争勝利で農民が救われるような事を書いていますが、政治制度(党の独裁)が変わらない限り事態は全く変わらないでしょう。