強姦罪の汚名を消せるのか

(計29回の裁判、まだ真実が見えない)
04/03/25 南方日報

 1975年、教師の蒙上啅が女学生の偽告発で強姦罪の汚名を着せられ7年間入獄。
13年後、その元女学生が真実を告白。
26年後、彼女の義兄が自分が犯人だと証言。その10年後、元女学生の夫が真実を知る。
だが現在に至っても、教師の免罪は何故か消えない。
 04/03/10日、元教師の蒙上啅は70歳に手が届くまでになり、すでに文字がハッキリと読めない目で、再審請求の手紙を書いている。
 75年から数えるとすでに29年が経っている。

 女学生が妊娠

 1974年、18歳の雪蓮(仮名)が海南省のある学校の生徒だった頃、彼女のお腹が次第に膨らんできた。彼女の母がそれに気づき、怒りのあまり、激しく彼女を叩いた。当時未婚の女性の妊娠は「祖先を汚す行為」として村の掟を破るものとされていた。
 彼女が語った真相はこうだった。
 当時少しでも家計を助けるため、彼女は家の牛糞を近くの生産大隊へ売りに行っていた。そこで義兄の薛貴民と出会った。数度顔を合わせるうち、薛は彼女が好きになった。1973年、薛は彼女を家へ誘い、そこで力ずくで彼女を思い通りにした。そして彼女は妊娠した。
 学校や近在に彼女の妊娠の噂が広がっていった。しかし彼女の相手が義兄なので、真相を告げるわけにはいかなかった。
 その理由の1は、彼は「反革命の家庭」であること。その2は彼が一人っ子であり、婿入りできないことだった。
 もしこのことが周囲に判れば、薛はきっと「批判闘争」が開かれ、殺されるに違いなかった。
母はそのことを告げて、犯人は遠方の知らない人にするべきだと彼女に告げた。その犯人は遠ければ遠いほど良いと、母は彼女に告げた。そこで彼女が思いついたのが、村から20キロほど離れた所の花蓮小学校時代の担任の先生、蒙上啅である。
 その先生は現在は転任して不在のはずである。そう彼女は考えた。母と舅の付き添いで彼女は医者へ行き堕胎をした。

 先生

 1975年1月22日、蒙上啅は「強姦罪」だと告知され、学校や「公社党委員会」、法廷、教育局、公安、などの場で次々と批判闘争の場に引き出された。
 75年7月、全教師大会の席での批判闘争後逮捕された。
 彼は無罪を叫び続けたが通らなかった。
 半年して蒙上啅が裁判員に呼び出され、「君がここで罪を認めれば仕事も何とかしてやろう。もし断固として認めないなら、お前の妻に命令して、すぐに離婚させてやる。そうすれば、おまえはこの牢に永久に繋がれる」と脅迫された。

蒙上啅は母の高齢を考え、ここで離婚させられたら、その母を助ける人が居なくなり、さらに2人の子供のことなどを考え、離婚だけは避けたいと考え、罪を認めることにした。 
76年4月、人民法院は蒙上啅が、学習して世界観を変え、資本家階級とその道徳観を取り去るよう指示した。そして7年の「労働改造」の判が下された。蒙上啅は不服として上訴。これはすぐに却下された。

 75年蒙上啅が入獄したその年、雪蓮は結婚した。
 79年、公社が農民文化向上大会を開き、雪蓮の妊娠について「反省文」を書くように要求した。その反省文が室内に置かれているのを夫の譚業興が見つけた。夫は彼女を詰問し、蒙上啅氏に申し訳ないと思わないのかと迫った。
 88年テレビのある免罪事件を見た夫婦はもう黙っていられなくなった。そこで彼女は真実のことを書き法院へ郵送した。

手紙への返答は梨の礫

 89年、雪蓮夫婦は法院へ2人で行き、事実を告げ、蒙上啅が無実だと訴えた。
 「その頃雪蓮はまだ小さく、ことの重大さが判らなかったのです」と夫の譚氏が涙ながらに法員に訴えた。それを聞いた法員は「この事件はもう取り消すことは出来ない。さっさと帰れ」と命令した。

 2000年になって、やはり気持ちが収まらない夫婦は再び人民高等法院へ出向き事実を書いた書面を持参し訴えた。

1978年、全国で「極度の不正事件を戻す運動」が展開された。

訳注:毛沢東が死んで、文革時の行き過ぎの反省が始まった。

 そこで蒙上啅氏は再度78年に申請書を書き上訴した。しかし裁判所の判定は「原判決は正しい」と言うものだった。
 この時すでに蒙上啅氏の頭髪は白く変わっていた。
 82年7月に彼の入獄期間は満了した。しかし法員は説明なしに、期間を1カ月延長した。
 蒙上啅は牢獄内で何故雪蓮が自分に罪を着せたのか、何故法院は自分に7年もの長期刑を科すのか、そればかりを考え過ごした、と言う。
 7年の刑を終えて帰宅してみると、彼の家はすっかり傷んでいて、雨漏りがし、外壁や屋根に草を敷いて雨漏りを防いでいた。
室内には豚を飼って実入りを増やそうとしていた。狭い部屋に妻と母、2人の子供の4人が身を寄せ合って住んでいた。
 蒙上啅にすがみついて家族は泣いた。
 それ以降、蒙上啅は免罪を一生掛かっても晴らそうと決心した。
 
82年から彼は法院、検察院、教育局、などを訪ね訴えて廻った。しかしどこも取り上げてくれなかった。
88年法院の廷長が「雪蓮がすでに真実を書類にして提出している。少し時間が経てば再処理が始まるであろう」と回答していくれた。
 92年中級人民法院が審理を再会、しかし証言の採用を認めなかった。
 
 95年から3度、かれは高級人民法院へ訴えた。しかし大海に石を投げるように何の反応もなかった。
しかし1人の法員が彼を気の毒に思い、「雪蓮の証言」を探せば、希望があるかもしれない、と彼に教えた。
 2000年10月、蒙上啅は「雪蓮の証言」を持参して高級人民法院へ訴えた。
その年11月29日、雪蓮とその夫の2人が揃って法院に出廷し、蒙上啅が潔白であると証言した。
 01年、法院は調査員を送り、「では犯人は誰か」と雪蓮に訪ねた。雪蓮はその返答に困った。義兄と彼女は同姓である。結婚が出来る間柄ではない。そこで彼女は「あの人はもう死にました」と返答した。
 01年2月法院は証拠不十分として、提訴を却下した。そして真犯人の証言が無くしてはこの件は再審理できないと告げた。
 この判決を聞いた蒙上啅の妻は精神的な打撃が大きく、精神分裂症になった。
 この悲劇を知った雪蓮の夫は彼女に全真実を告白するように勧めた。
 ついに彼女は相手の名前を書いて法院へ提出した。その名は「薛貴民」であった。
これを聞いて蒙上啅は気が狂うほど大喜びした。
 01年3月、薛は「自分が彼女を孕ました」との証言を書いて法院へ提出した。 

法院から蒙上啅に「そちらから法院へ雪蓮の相手の証言を持参すれば法院は取り上げるかもしれない」との連絡が来た。
 蒙上啅にとってみれば、法院は自分を有罪にしたとき、いかなる証拠もなく決定した。それなのに、こちらから無罪の証拠を探さねばならないとは、理に合わないと反論したが、如何せん、相手は強かった。

 2004年3月12日、記者は高等法院を採訪した。廷長は「01年時、私は担任したときなので事情が良く解らなかった。よく知っていればこんなことにはさせなかった」と言う。
 高等法院の教育所長の武家水氏は「これまでの経験から見るとこの案件の見直しはきわめて困難だ。この様な免罪事件は山ほどあり、見直された例はない」と言明する。

 蒙上啅の弁護士になった王世春氏は「法廷がこの様な誤認審査案件を見直す勇気が持てるかどうかに掛かっている。1人の公民が30年近くの年月を奪われてきたのです」と言う。
 すでに3児の母となった雪蓮は記者に「03年10月20日、法廷へ真実を申し立てに行ったとき、受付の法員は”もし真実の犯人が別だとすれば、貴女は嘘を吐いたことになり、それは誣告罪であり、貴女は入牢しなければなりませんよ”、と受け付けようとしなかった」という。
 そこで彼女は「私は何も恐れません。今は只、蒙上啅氏の無罪を証明したいだけです。入牢も仕方ありません」と法員に告げた。
 記者がさらに雪蓮の夫に「何故貴方はこうも熱心に真実を告げようとするのですか」と尋ねると、彼は恐ろしいほどの下手な字で紙に「良心、潔白」の2字を書き、「他人に無罪を押しつけるなど、それは何時までも家を暗くするでしょう。」と語ってくれたが、しかしその気持ちは相当複雑であろう、と察した。
 
訳者注:
 ああ、無情 !!
 社会主義が人権を如何に扱っているかの典型例です。
 私は奈良に1年ほど住んだことがあり、今井町を知っています。戦国時代末に町民は武士と闘って自治を敷きました。そして内部では公正で厳格な裁判制度も組織しました。今もその様子を現地に見ることが出来ます。
 400年以上も前に出来たことが、何故現代の社会主義では出来ないのでしょうか。
 以前の翻訳で見たように、中国では裁判制度そのものが公正である必要を認めていません。裁判員は運転手が兼ねたり、売春婦でも成れます。このことを中国では「政治の優位性」を保つためで、複雑な事例は党が指導する、と説明しています。
 つまり「独裁」擁護です。  
 あまりにも時代離れしている気がします。が、現実の隣国のことです。日付が紀元前でないことを確かめてください。