登小平がいなければ
 現在の中国はこのように多様な
   生 活は不可能であった


04/08/19 南方週末 趙凌
 歴史には「もしも」と言うことは成り立たないが、かって登(登偏にこざと)小平は「もし毛沢東が居なければ中国人はまだ歴史の暗闇から出られなかった」と表現した。では、もし「登小平が居なければ」という質問に対し、これは答える人によって各種の答えが返ってくるだろう。

 江沢民は登小平の葬儀に際し「今日の改革開放は全て登小平のお陰である。社会主義の現代化もあり得なかった」と評した。

深センの(センは土偏に川です)登小平の墓の前で湖南省から来た新婚夫婦は花輪を捧げながら、「この方が居なければ、中国人は家もなく車もない世の中に居続けたであろう」と語ってくれた。
 あるホームページには「登小平が居なければインターネットにも参加できない」と表示されている。 
 勿論歴史は一個人で動かせるものではないが、しかし偉大な人の偉大な貢献が決定的ということはある。彼は国家の運命を変え、歴史的浮き沈みの瞬間に登場した。そこに中国人民の権利と幸福の追求が実現された。

 1978年

 1978年までの10年は真に中国の国土全体が免罪で覆われた。そして文革終了後その免罪の一部が解かれた。1979年から1982年に亘って免罪から救われた幹部の数は約300万人に登る。その内47万人が党籍を回復した。これは地球の歴史上最大の、他に例を見ない免罪事件数である。

 朱基 

 彼は1958年4月、国家計画委員会の仕事中「右派」として追放され、その後20年間「右派」と言う肩書きを着けられ、78年に原状回復した。98年国務院総理、03年退職。
 彼と共に追放された「右派」は50万人。追放後彼は農村に送られたが幸いなことにその時間は短かった。農村の中学校の仕事に変わり、「思想改造」の態度が良いという理由で62年都会に戻った。が、「試験中」という肩書きが残り、仕事に於いて責任有る位置には着けなかった。
 そして文革が始まり、再び追放され、豚や山羊を飼う仕事に回された。
 75年、登小平が2度の免罪から戻った頃、中国は少しずつ穏やかになった。そして朱基も都会に戻っている。
78年党中央は「右派分子の見直し」を発表。そしてこの年9月、20年の悲惨な生活が終わり現職復帰となった。
 そのことが決まると朱基の「档案」(個人管理表)の「右派」の部分が焼却された。
 そこに書かれた「反党分子」という文字が燃え尽きるまで彼はその紙切れを見つめていた。
 98年国務院の仕事で外国記者に取り囲まれた彼は、「右派」のレッテルを張られた時代について質問を受け、「あの時代を想い出すことは今でもショックであり、気分が悪くなる。だからこの質問には答えられない」と報道陣に言った。このような例を見るだけでも中国にとって「改革開放」の意義は充分すぎると言える。
 
 1977年 

 文革中の10年は大学入試制度は廃止されていた。77年登小平は、4人組の悪烈極まる抵抗を押し切って大学を開放し、中国の現代化を推し進めた。
その時の論争は「中国は右派や金持ちの子供でさえ入学させて良いのか」と言う論争が起こった。中国は無産階級の国家ではないのか、と言う言い方もあった。これに対し登小平は「社会主義にも平等があり、知識については平等である」と答えた。
 当時受験を待ちかねた生徒は570万人に達し、試験用紙が足りなくなった。そこで印刷準備中の「毛沢東選集」第5巻の製本が見送られることになった。
 
当時の学生、「張焼山」の述懐

 私の父が「反革命」と言う印を押されていたので、青年時代は全くの暗黒そのものでした。ああ、他の人達と平等の生活が欲しいと、何度叫んだことか。68年に内モンゴルの「ツモト」と言うところに送られていた。父の「反革命」は既に10年を超えていた。77年現地の放送が大学入試制度復活と言っているのを聞くことが出来たが、自分にその資格があるのかどうか、それが知りたかった。それまでに、73年と74年にも工農兵と言う組織に入りたいと申告したとき、政治審査があり父のことを理由に、共にはねつけられていた。きっと今回の大学入試にも参加資格が与えられないと考えた。
しかし公示板を見ると「政治的制限無し」と書かれているのを見つけ、もうあまり時間が無くなっていたが、毎晩試験勉強に没頭した。その時既に私は30歳に達していた。試験も無事に過ぎた。ただ、父のことだけが頭に残っていた。父はまだ牢獄に居たから。

試験に受かり名簿が送られてきて私は慌てた。私の申告したのは中国文学なのに合格書は「数学」となっていた。当時文学や政治科目は面倒を起こすと考えて、学校の先生が科目を換えてくれていたのだった。
 その後いろいろの交渉の結果私が入学したのは外国語科だった。
 また1979年には農業経済の研究生になることが出来、82年中国社会科学院に入り現在に至っている。
 私が他の学生と同じく平等に扱われて、即ち私が中国に於いて人間として生きていくことが出来たこと、これも全て登小平のお陰と考えている。もし登小平が居なければ私はどこかの田舎で野垂れ死にしていたであろう。

  1979年の留学

 1977年7月、登小平は科学技術とその教育が重要であることを強調した。精華大学で大量に外国へ留学生を送ることを発表した。当時このことは大きな反響を呼び起こした。教育部が直ぐにカナダへ学生を送ることを発表すると、まるで中国に大地震が起こったように、大騒ぎになった。
「共産主義の国家が他国へ学びに行くなんて」、「中国は世界一進歩した国家ではないのか」、と言う言い方であった。
 78年10月アメリカと交渉が進み相互に学生を交換することも決まった。とにかくこうして学問の扉は広く開かれていった。

斐定一 
( 1978年に選ばれた中国最初の留学生。現在広州大学理学院学院長)

 78年12月25日、私は改革解放後最初に選ばれた留学生で、行く先はアメリカでした。北京を出てパリを経由しニューヨークからワシントンに入りました。アメリカ現地の報道機関はこぞって留学生のことを書きたてました。
 当時を思い返せば、それまでの青春は茨だらけで、夢や理想など全く持てる状態ではありません。
 1964年の時、科学技術大学の研究生だった私達は全て「四清」運動の名の下に農村に送られました。しかし誰も農業の経験はなく、しかし当時の政治的雰囲気はただ「紅く」有ることだけが求められた時代。そして66年6月学校へ戻ることが出来ると「文化大革命」が始まっていました。
 68年10月、北京を出、大慶の油田工場に送られ、採油工として働き、労働者階級の再教育を受けました。
 1年後隊長は私に「君の専門は数学だ。従って今後は食堂の会計をしなさい」と命令しました。これ以降私の仕事は会計と豚の餌やりを担当しました。
 私が都会へ戻ることが出来たとき、餌をやっていた母豚は14匹の子豚を生んでいました。
1977年末、大慶油田から中国科学院に回されました。そして突然のようにアメリカ留学の通知を受けました。78年の末、冬の寒いとき私達50名の学生がアメリカへ旅発ちました。私は既に37歳に達していましたが、それでも隊内では若い方でした。
私が入学したのはプリンストン大学です。そこで私は大変惨めな日々を過ごしました。というのは私は中国では成績はトップで、数学には特に秀でていると自覚していました。ところが10数年の政治運動の間中国では学問が完全に停止し、お陰で私の知識水準はアメリカでは惨めなものでした。
 そして2年の滞在で帰国することになりました。当時は誰もがただ帰国して祖国に捧げることで頭がいっぱいでした。しかし例えば誰かが帰国を拒否したとしても、多分仕方ないという気持ちもあったと思います。
 79年、登小平はアメリカを訪問しカーター大統領と対談し、その歓迎式に私も列席することが出来ました。登小平に会ったときの私は感動で胸がつぶれる思いでした。
 もし彼の開放政策がなければ、私達留学生は存在しなかったでしょう。私がプリンストンへ行けたことは、全く私の人生を明るい方向へ変えてくれました。
 
 1980年:「上山下山運動」終了
 訳注:日本では「青年は農村に行く運動」と訳されることもあります。

 登小平の提案によって長年続いた「上山下山運動」の善悪が討議され、農民達は知識青年を求めていないこと、都会の青年が農村へ行くことは農村の食料を奪っていること、都会でこそ青年の働く場所が必要なこと、などが討議され、胡耀邦がこの運動の中止を発表。 25年続いたこの運動、数億の青年が動員されたこの運動が、ついにその命運を閉じた。

  登焼芒 
(64年上山下山運動参加、帰省して大学入学受験、現在武漢大学哲学科教授)

 私の記憶の中には68年の農村へ行く頃のことが強く残っている。大規模な農村へ行く運動が開始されてしばらく経っていた。農村へ行くことが決まった何処の家庭も農村での苦労を思う家族と青年が抱き合って泣き明かしている姿が至るところで見られた。
 しかし青年自身はどちらかというと気分は軽く自由になれるのではないかという考えもあった。また青年達の共通の考えとして矛盾した行動をしたものだ。夜になると皆が集まり農地を荒らし回ったり、また昼間に働かず「毛主席講話」を勉強したりしたものだ。当時の知識青年の愛読は「レーニン全集」や「マルクス伝」で、それらの書に没頭した。私はレーニンの「共産主義内の左翼小児病」が好きだった。
 私自身について言うと労働について全力で働く気はさらさら無かった。只頭の中心にはマルクス思想とそして何時か大学受験できることだけがあった。
 74年、一部の知識青年を都会へ戻す政策が発表された。それを聞くと直ぐに私は仮病を作り、帰省を狙い帰省が認められた。
 しかし少し計画が早すぎた。実際の知識青年の帰省が許されたのは77年からである。
 やっと帰省が許されて、都会で待っていた私の仕事は、現在の出稼ぎ農民がやっているのと同じような道路掃除や建築現場の手伝い
であったが、何とか自分の人生を切り開きたかった。昼間はそのような仕事で夜に「ヘーゲル」関係の書を呼んだ。やっと76年に職に就くことが出来た。
 77年に大学受験復活、その2年目に私は社会科学院哲学科のマルクス主義哲学史に入学できた。ところが私の両親が「右派」のレッテルを貼られており、私の入学は取り消された。2年後、武漢大学の研究生に入る事が許され、一生を通じてその道を進むことになった。
 登小平は本当に凄い人だ。時代の変わり目に登場し、我々知識青年の運命を正しい方向へ変えてくれた。
 当時の中国の歴史が正に最悪の極限にいたとき、歴史というものはこのようなときには必ず反動で揺り返すもので、その時に登小平が登場したのだ。

 1992年:「下海」
 訳注:国家公務員が退職し民間企業に行くこと。人口の92%が公務員だった。

 20世紀の80年代末からソ連と東欧で政治的激動が起こった。中国もこの激動に見舞われそうになった。そして現れたのが「西洋の資本主義を取り入れ中国の発展に役立てる」と言う考えだった。その実現を平和的に経済面にもたらそうとして行動が取られた。勿論、「中国は何処へ行くのか」、と言う問題があらゆる所で論じられた。
 この時88歳の登小平が登場し、92年南方を視察したとき、一つの談話を発表した。これが後日「南方講話」と呼ばれるものだ。
その意は、改革開放を大胆に進めよ、と言うことであった。こうして中国は経済の高度成長を勝ち取ることになった。そして台風のように勢いを持って現れたのが「下海」である。

 馮論 
(1984年党中央学校卒業、法学士。91年辞職して下海。現職は万通集団社長)

 彼の考えは少し世間とやり方が違う。現職の万通土地企業に席を置いているが、商売のことは話さない。そして中国の伝統文化について、くそみそに言う。「天下の興亡、男子に責任あり」と言う諺を「男子の興亡、天下に責任有り」と言い換える。
 彼の風貌は芸術家タイプで、土地売買の思想家と評されている。
 
 20年前の彼は党中央学校研究生の最若手だった。84年学校卒業後教授として残り、「文化と意識形態の改革」を研究していた。
  57年の誕生後、30年間は中国政治界の正統的雰囲気の中で育った。そして出世街道を進んだが、海南省で改革の実現を研究する内、中国の社会体制に存在する「紅い」思想が彼の頭に現れ、92年「下海」した。
 その結果海南省の改革は頓挫した。彼は中国の将来は商工業の発展にあると掴んだようだ。
 92年の「南方講話」発表後、このように「下海」する人は後を絶たず、彼等を総称して92派と呼んでいる。
  93年には「北京万通実業有限会社」を設立。また「中国民生銀行」の設立に参加、その責任者ともなっている。
 大学の同期と語りながら、もし公務員で居たなら、「ほんの下っ端」だったと高笑いしている。

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訳者注:
 1949年新中国誕生。全てはマルクス主義に基づいて国家が建設された。当時はアメリカやヨーロッパからその思想に共鳴し、中国へ渡った人も多い。ソビエトの例を見れば、国内の社会主義的国家体制はともかく、ヨーロッパやアメリカの植民地政策がまだ露骨な頃で、それに反対する勢力として社会主義が有望視されたのではないか。
しかし中国自体も建国直後チベットへ武力侵略をし、この時から歴史的正義の立場を失った。
 
 国内の社会主義政策は最初から暗黒で、非科学的そのものだった。計画経済が始まると生産が停滞し、都会の若者達の就職先が無くなった。1955年頃から青年は「上山下山運動」と言って、農村へ口減らしに行った。それが25年も続き、その数は億に達した。

 新中国建設の30年後に、何故登小平が改革開放をしなければならなかったのか、何故歴史上最大の免罪事件を起こしたのか、何故「上山下山運動」が必要だったのか、何故無数の人権侵害を国家の名で起こしながら誰もが反論できなかったのか、この根本的な所を論じず、さらに、何故計画経済を止め市場経済を導入しなければならなかったのか、これらを論じず、市場経済や自主生産を認めた登小平の役割を過大評価しています。
 但し中国人の圧倒的な人はもう既にマルクス的な社会主義自体が暗黒と非科学の根本的原因であったことを知っています。(党幹部でさえ過半数はこれを認めているでしょう。でなければ年間数十万人の腐敗幹部が現れるでしょうか)
従ってこの「南方週末」が当面正義と民主主義の旗頭に立っているようですが、しかしいつまでも政府の味方をしていればやがては国民から無視されるときが来るでしょう。

 登小平は天安門事件で愛国学生を戦車で殺すことを「反革命を倒せ」と言うマルクス主義の言葉で命令しています。江沢民が現場殺戮の指揮をしています。その犠牲者の家族達は登小平を許すことが出来るでしょうか。